第41話 9-5: 二人の庇護者と敗者の退場
中庭を支配していた、二つの絶対的な『威圧』――アレクシスの剣気と白耀獣の神威――が、ゆっくりと、その濃度を収束させていく。
鉛色の空から吹き付けていた、瘴気を帯びた風が、再びその音を取り戻した。
だが、その風の音よりも大きく響いていたのは、王都から来た『精鋭』たちの、今はもう誇りも何も失った、ただの男たちの、惨めな嗚咽だけだった。
「あ」
回廊の上で、リーナは、自分の目の前で起きた、あまりにも現実離れした光景に、まだ腰が抜けたまま、その場に座り込んでいた。
隣には、巨大な姿のままのブランが、まだ油断なく中庭のアランを睨みつけ、その黄金色の瞳を厳しく細めている。その全身から放たれる『白耀』のオーラが、まだ恐怖に震えるリーナを、温かく包み込んでいた。
中庭では、アレクシスが、その長剣を、カチリ、と、まるで何事もなかったかのように、静かに鞘へと納めた。
その、あまりにも完璧で、流麗な所作。
彼は、もはや『脅威』ではなく、ただの『残骸』と化した、王都の使者たちには、一瞥もくれなかった。
彼の、氷の青い瞳は、ただ、回廊の上、巨大な聖獣の隣で、まだ呆然としている、リーナ、その一人だけを、真っ直ぐに、見上げていた。
その視線は、もはや『総司令官』のそれではなく、自らの『宝』が無事であったかを確かめる、ただ一人の男の、不器用なまでの『安堵』に満ちていた。
そして、彼は、リーナの隣に立つ、巨大な白耀獣へと視線を移した。
アレクシスの、言葉にはならない、静かな『圧』が、リーナにだけ届く。
(リーナ。もう、よい。その獣を、鎮めろ)
(これ以上、この砦の兵士たちに、無用な『畏怖』を与えるな)
「あ、はい!」
リーナは、はっと我に返った。
そうだ、このままでは、辺境軍の兵士たちまで、ブランに恐怖してしまう。
「ブラン!」
リーナは、その神々しい純白の毛皮に、必死に手を伸ばし、触れた。
「もう、大丈夫。もう、いいの」
「グルルゥ」
ブランは、まだ納得がいかない、とでも言うように、不満げに喉を鳴らした。あの『罪人(アラン)』は、まだ、主(リーナ)の視界に入るところで、息をしている。
「お願い、ブラン。戻って」
リーナが、その黄金色の瞳を、必死に見つめて懇願すると、白耀獣は、一つ、大きなため息をついた。
(仕方ないな、我が主が、そう言うのなら)
次の瞬間、あの神々しいまでの巨体が、再び、眩い『白耀』の光の奔流となって、収縮していく。
パァァァァァァッ!
その光景に、中庭でひれ伏していた王都の兵士たちが「ひぃぃっ!」と、最後の悲鳴を上げた。まるで、神の奇跡を、二度も目撃してしまったかのように。
そして、光が収まった時。
回廊の石畳の上には、いつもの、小さな、白い『モフモフ』の塊が、ちょこん、と座っていた。
「きゅぅん」(これで、いいの?)
ブランは、不満そうに、その小さな尻尾で、床をパタパタと叩いている。
その、あまりにも絶対的な『力』と、現在の『愛らしさ』の、極端すぎるギャップ。
「ありがとう、ブラン」
リーナは、その温かい毛玉を、震える手で、力いっぱい抱きしめた。
(守って、くれた)
(アレクシス様も、ブランも。二人が、私を!)
王都で、たった一人だった、あの日の絶望が、この、二つの、あまりにも強大な『守護』によって、完全に、溶かされていく。
アレクシスは、その光景を、静かに見届けると、ようやく、足元で、未だに声を殺して泣き続けている、哀れな『使者』の代表へと、その視線を落とした。
「アラン・バークレイ」
その、感情を一切含まない、冷たい呼びかけに、アランの肩が、ビクリと跳ねた。
彼は、泣き濡れた顔を、上げる勇気もないまま、泥の石畳の上で、ただ、震えた。
「返答は、以上だ」
アレクシスが、淡々と告げた。
「お前たちが、ここで、見たもの、聞いたこと、その全てを、一言一句違えず、ジュリアス(あの愚かな甥)に、報告しろ」
「あ、あ」
アランの喉から、意味のない音が漏れる。
(報告?)
(何をだ)
(『王弟殿下は、王太子殿下の首を要求しました』と?)
(『偽聖女は、伝説の聖獣を、手なずけていました』と?)
(そんなこと、あのジュリアス殿下に報告した瞬間、俺は『任務失敗』と『不敬罪』で、間違いなく、処刑される!)
アランの、最後の希望さえもが、絶望に塗りつぶされた。
「ガルド」
アレクシスの、低い声が、響いた。
「はっ! ここに!」
中庭の隅で、一部始終を、畏敬の念を持って見届けていたガルドが、弾かれたように駆け寄ってきた。
「この者たちを、砦から『護送』しろ」
「ご、護送、でありますか?」
ガルドは、一瞬、アレクシスの意図を測りかねた。この、砦の主君に『反逆』とまで言い放った、愚か者たちを、なぜ、わざわざ守る必要があるのか、と。
「そうだ」
アレクシスの氷の青い瞳が、ガルドを射抜いた。
「この辺境は、魔族の領域に近い。道中で、彼らが、万が一にも、魔族にでも喰われては」
そこで、アレクシスは、言葉を切った。
「王都への、貴重な『返答』が、届かなくなってしまうからな」
「!」
ガルドは、その言葉に込められた、絶対零度の『皮肉』と『警告』に、背筋が凍る思いだった。
(届かぬ、では困る、と)
(閣下は、本気で、あの『脅迫』を、王都に、突きつける、おつもりだ!)
「承知、いたしました!」
ガルドは、もはや、一切の同情も抜きに、完璧な兵士の顔に戻った。
「者共、聞け!」
ガルドが、周囲を固めていた辺境軍の兵士たちに、大声で命じる。
「王都からの『大切なお客様』が、道中、お怪我など、なさらぬよう! 我ら辺境軍が、責任を持って、国境の関所まで、丁重に『護送』申し上げる!」
「「「はっ!!」」」
辺境軍の兵士たちの、地響きのような声が、中庭に響いた。その声には、敗者をいたぶる、獰猛な『喜び』が、隠しようもなく含まれていた。
彼らは、ひれ伏して命乞いをする王都の兵士たちから、まるでガラクタでも取り上げるかのように、その白銀の剣を、乱暴に、取り上げていく。
「やめろ!」
「我らは、王の、騎士だぞ!」
「ああ、知っている。『大切なお客様』だ。だから、武器など持たれては、お怪我をなさるやもしれん」
辺境軍の兵士たちが、嘲笑を浮かべながら、彼らを丸腰にしていく。
「立て! 行くぞ、アラン・バークレイ伯爵閣下」
二人の、熊のような大男が、もはや、何の抵抗もする気力もないアランの両脇を、まるで、荷物でも掴むかのように、強引に、引きずり起こした。
「あ、ああ」
アランの足は、もう、自らの意志で、立つことさえ、忘れてしまったかのようだった。
彼は、両脇を抱えられ、泥人形のように、砦の出口へと、引きずられていく。
その、無様な、一行が、中庭の門をくぐる、最後の、瞬間。
アランは、まるで、何かに、導かれたかのように、その、虚ろな、焦点の合わない目を、一度だけ、回廊のリーナへと、向けた。
リーナは、いつの間にか、柱の影から出て、その冷たい石畳の回廊の手すりの上に、小さなブランを抱いたまま、静かに、立っていた。
アランの目に、その姿が、どう映ったのか。
鉛色の空の下、巨大な黒い砦を背に、伝説の聖獣を、まるで、愛らしいペットのように、その腕に抱き。
この国最強の男の、絶対的な『庇護』を受けながら、自分を、冷たく、見下ろしている、かつての『妹』。
その目には、もう、あの日のような、兄への『恐怖』も、『憎悪』も、何も、なかった。
ただ、自分とは、まったく違う、遥か高みへ行ってしまった者だけが持つ、絶対的な『無関心』。
(あ)
アランは、その視線に、最後の、心の骨を、折られた。
(勝てない)
(俺は、この女に、生まれてから、一度も、勝ったことなど、なかったのだ)
父の愛も、聖女の力も、そして今、最強の庇護者も、全て、この女が、持っていた。
アランの、充血した瞳から、光が、完全に、消えた。
彼は、もう、二度と、リーナを見ることはなく、ただ、引きずられるまま、辺境の、冷たい闇の中へと、消えていった。
王都の使者たちが、完全に、去る。
中庭に、ようやく、いつもの、静寂と、瘴気を帯びた、冬の風の音だけが、戻ってきた。
アレクシスが、中庭の、石畳の真ん中で、静かに、立っている。
リーナが、回廊の上で、静かに、立っている。
二人は、言葉もなく、ただ、互いを、見つめ合っていた。
先に、動いたのは、アレクシスだった。
彼は、回廊のリーナに向かって、小さく、本当に、小さく、頷いた。
その、氷の仮面のような顔は、崩れない。
だが、その青い瞳だけが、明確に、リーナに、告げていた。
(もう、大丈夫だ)
(脅威は、去った)
(お前は、俺が、守った)
その、言葉にならない、しかし、何よりも、力強いメッセージ。
リーナの、張り詰めていた、最後の緊張の糸が、ふつり、と切れた。
彼女は、その場に、再び、へなへなと、座り込んでしまった。
腕の中のブランが「きゅぅん?」と、主の、急な脱力を、心配そうに、見上げている。
「ありがとう、ございます」
誰にも、聞こえないほどの、小さな、小さな、感謝の言葉。
だが、それは、リーナが、王都の全てに裏切られてから、初めて、心の底から、誰かに『守られた』と、実感した、温かい、温かい、響きを持っていた。
(ここは、大丈夫)
(この砦は、王都(あそこ)とは違う)
(この人たちがいる限り、私は、もう、奪われない)
リーナは、腕の中の、温かい『モフモフ』を、もう一度、強く、強く、抱きしめた。
辺境の空は、相変わらず、鉛色のままだったが、リーナの心には、確かに、温かい、小さな光が、灯っていた。
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