第31話 7-3: 兵士たちの『女神』
アレクシスによって『辺境軍司令部付き専属薬師』という、リーナの身分には不釣り合いなほど仰々しい肩書を与えられた新しい日々は、王都の神殿で過ごした、あの息苦しい五年間とは、比較にならないほど、慌ただしく、そして、凄まじい充実感に満ちていた。
砦の東棟に与えられた『薬師工房』は、工房というより、王都の伯爵邸にあった、どの部屋よりも広く、機能的な『研究所』だった。
日当たりと風通しを最優先に選ばれたその部屋には、リーナが夢にまで見た、あらゆる調合器具、薬草を保管するための乾燥棚、そして『前世薬学応用論』を広げるための、巨大な執務机までが、アレクシスの、あの恐ろしいほどの行動力によって、完璧に揃えられていた。
(王都では、お兄様にいつも「聖女の務め以外のことをするな」と、薬学書を取り上げられていたのに)
(ここでは、あの人が、私の研究を『戦略物資への投資』として、全面的に支援してくれている)
皮肉なことだった。王都の家族や王太子は彼女の力を『無能』と断じ、辺境の総司令官は彼女の力を『戦略』と呼んだ。
リーナの主な仕事は、アレクシスの厳重な管理のもと、あの『奇跡の薬・改』(白銀の丸薬)を調合し、瘴気によって、最も深刻なダメージを受けた兵士たちに、直接処方することだった。
彼女の新しい『職場』は、砦の地下、工房とは正反対の、陽の光が届かない場所にあった。
「失礼します」
「おお、リーナ薬師殿! お待ちしておりました!」
重い扉を開けると、むせ返るような匂いが、リーナの鼻を突いた。
血の匂い。膿の匂い。そして、それらを誤魔為すための、安物の消毒薬の匂い。その全てを、この砦の石壁に染み付いた、濃密な『瘴気』の澱みが、上から塗り潰している。
ここが、辺境軍の医務室。
王都の施療院が、セラの見世物(ショー)のために整えられた、清潔な『舞台』だったとすれば、ここは、無数の命が、今まさに擦り切れていく、本物の『最前線』だった。
ベッドなど、最初から足りていない。
簡素な木枠のベッドには、腕や足を失いかけた重傷者が呻き声を上げて横たわり、床には、毛布一枚を敷いただけの兵士たちが、所狭しと並べられている。
誰も彼もが、土気色の顔で、浅く、苦しげな呼吸を繰り返していた。
(これが、現実)
王都の神殿で、清浄な空気の中で祈りを捧げていた自分は、この現実を、何も知らなかった。
「薬師様、こちらへ」
軍医の一人が、疲労で隈の浮いた顔に、一筋の希望を浮かべて、リーナを手招きした。
「また、昨夜の哨戒部隊が、濃い『溜まり場』に踏み込んでしまって。王都からの水薬は、もはや!」
軍医が、絶望的に首を振る。
その視線の先。
「げほっ、げほっ! ひぅっ、ごふっ!」
ベッドの上で、一人の若い兵士が、全身をエビのように折り曲げ、血の混じった黒い痰を、桶に吐き出しながら、激しく咳き込んでいた。
肺が、内側から瘴気に焼かれているのだ。息を吸うたびに、喉が張り付き、激痛が走る。
(タム爺の時と同じ。いや、それよりも、遥かに深刻だわ)
リーナは、その若い兵士の前に屈み込むと、その土気色の顔を、優しく、しかし、薬師としての冷静な目で見つめた。
兵士の、焦点が合わなくなった瞳が、ぼんやりとリーナを捉える。
「ヒュッ、だ、れだ? 天使、さま、か?」
彼は、もう、瘴気の熱で、意識が朦朧としている。
「天使ではありません。薬師です」
リーナの声は、不思議なほど、落ち着いていた。
「大丈夫。すぐに、楽になりますから」
王都の神殿では、誰も信じてくれなかった言葉。
だが、ここでは、この言葉が、現実になる。
彼女は、アレクシスの許可印が押された、厳重な薬箱から、『白銀の丸薬』を一粒、取り出した。
この、絶望と死の匂いしかしない、薄暗い医務室の中でさえ、その一粒は、自ら、清浄な、絶対的な『生』の光を放っている。
リーナは、その丸薬を、兵士の、乾いてひび割れた唇へと、そっと運んだ。
「飲んでください。生きてください」
兵士は、もはや抵抗する力もなく、されるがまま、その光る粒を、水と共に、飲み下した。
シン、と。
医務室全体が、一瞬、静まり返った。
他のベッドで呻いていた兵士たちも、絶望的な顔をしていた軍医たちも、皆が、その『奇跡』の瞬間を、息を殺して見守っていた。
そして、刹那。
「あ……っ」
若い兵士の、全身を折り曲げていた激しい痙攣が、まるで、時間が止められたかのように、ぴたり、と止まった。
地獄のようだった咳が、嘘のように、消えた。
「すぅぅぅぅぅ」
兵士の、塞がっていた喉から、深く、深く、この医務室では、誰も聞いたことのないほど、清浄な空気を吸い込む音が、響き渡った。
「い、息が、できる」
兵士の、くぼんだ瞳から、ぼろぼろと、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「痛く、ない。苦しく、ないぞ!」
その、歓喜の、第一声。
それを、合図にしたかのように。
「「「おおおおおおおっ!!」」」
医務室全体が、地響きのような、歓声に、包まれた。
「見たか! まただ! 奇跡だ!」
「薬師様は、本物の『女神』だ!」
「俺たちも、助かるんだ! 死なずに、済むんだ!」
『女神』。
王都では『偽聖女』と石を投げられた、その同じ口で。
兵士たちは、リーナのことを、何の疑いもなく、そう呼んだ。
王都の、遠い神殿で、民衆の前に姿を見せるだけの、あの『派手な聖女(セラ)』とは違う。
自分たちと、同じ、瘴気に満ちた最前線に立ち、泥と血にまみれた、この地獄の底で、自分たちの、すぐそばで、その命を、確実に『救って』くれる。
リーナこそが、彼らにとって、唯一無二の、本物の『聖女』であり『女神』だった。
「ありがとうございます、薬師様!」
「この御恩は、命に代えても!」
次々と、ベッドの上から、あるいは、床に転がったまま、兵士たちが、リーナに、心からの感謝を捧げようと、汚れた手を伸ばす。
「い、いえ、私は、薬師として、当然のことを!」
リーナは、その、王都では決して得られなかった、あまりにも真っ直ぐで、熱烈な『感謝』の奔流に、戸惑いながらも、その全てを、受け止めていた。
殴られた頬の傷跡も、兄の裏切りも、王太子の嘲笑も、セラの侮蔑も。
王都で受けた、全ての傷が、この、剥き出しの『生』の感謝によって、温かく、溶かされていく。
(嬉しい)
(私が、本当に、やりたかったことは、これだったんだ)
王都で、ジュリアスやアランに、その価値を認められなくても、ここで、こんなにも多くの人たちが、私の力を、私の薬を『必要』としてくれている。
その事実が、リーナの心を、王都で受けた、どんな傷よりも深く、温かく、癒していくのだった。
そして、その『癒し』は、リーナだけが、もたらしているのではなかった。
「きゅん!」
その時、医務室の入り口から、ひょこり、と、小さな白い毛玉が、顔を出した。
「お、ブラン殿!」
「いらっしゃった!」
「守り神様が、いらっしゃったぞ!」
兵士たちの視線が、一斉に、リーナから、その小さな『相棒』へと注がれる。
その熱狂ぶりは、リーナに向けられるものと、同等か、あるいは、それ以上だったかもしれない。
ブランは、今や、この砦の中を、アレクシスの『許可』のもと、自由に闊歩していた。
そして、なぜか、この、瘴気や血の匂いが充満する、医務室が、お気に入りの『散歩コース』の一つになっていた。
ブランは、負傷兵たちのベッドの間を、とことこ、と、まるで、リーナの治療が完璧に行われたかを『検分』でもするかのように、威厳をもって(リーナにはそう見えた)、歩き回る。
「ブラン殿、こっちだ! ここに、昨日、ガルド隊長からもらった、干し肉の、一番いいところが!」
「馬鹿野郎! ブラン殿は、そんなものはお召し上がりにならん! こっちの毛皮のほうが、温かいぞ!」
屈強な、顔に傷のある兵士たちが、王都の貴婦人が、高価な子犬をあやすかのように、その小さな『モフモフ』に、必死に、声をかける。
(アレクシス閣下の『触れることを禁ずる』という命令が、逆に、彼らの『モフモフ』への渇望を、極限まで高めているわ!)
リーナは、その、あまりにもシュールな光景に、思わず苦笑した。
ブランは、その日の、一番のお気に入り(=最も重症で、聖なる癒しを必要としている兵士)を見つけると、そのベッドの上によじ登り、傷口には触れない、絶妙な位置で、くるり、と丸くなった。
「おお」
選ばれた兵士が、歓喜と感動に、打ち震えている。
「あったけえ」
「ブラン殿が、俺の、俺のそばに、いてくださる!」
聖獣の、その、比類なき『モフモフ』の毛皮から放たれる、純粋な『聖』の波動。
それは、リーナの『薬』が、身体の『瘴気』を浄化するのとは、また別の次元で、兵士たちの、戦場で擦り切れた『魂』そのものを、温かく、癒していくのだった。
ある者は、ブランの毛皮に、そっと(アレクシスの禁令に怯えながら)指先で触れ、故郷の家族を思い出し、静かに涙した。
ある者は、その小さな寝息を聞いているだけで、瘴気の熱にうなされる悪夢から解放され、安らかな眠りに落ちていった。
リーナの『奇跡の薬』が、兵士たちの『命』を救う『女神』ならば。
ブランの『聖なるモフモフ』は、兵士たちの『心』を救う『守り神』。
辺境軍の兵士たちは、この、たった一人と一匹の、優しく、そして、あまりにも強力な『癒し手』の登場によって、その士気を、かつてないほど、爆発的に高めていくのだった。
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