第27話6-3: 王弟殿下の『鑑定』

リーナは、その男から放たれる、圧倒的な威圧感に、思わず一歩、後ずさった。

(この人は、誰)

(ガルド隊長の、上官なのは間違いない。だけど、ただの兵士じゃない)

(この『気配』は、王都の近衛騎士団長以上に、洗練されて、冷たい。まるで、研ぎ澄まされた、抜き身の『剣』そのものだわ)

リーナが、その正体を図りかねて、息を詰まらせていると、後ろにいたガルドが、慌てて、リーナと男の間に割り込むように、叫んだ。

「か、閣下! こちらの娘が、集落の薬師、リーナであります! 閣下、どうか、ご無礼をお許しください! この娘は、王都の作法など、何も知りませぬゆえ!」

(『閣下』!)

リーナは、ガルドのその一言に、今度こそ、全身の血が凍りつくのを感じた。

辺境軍で『閣下』と呼ばれる人間など、この世に、ただ一人しかいない。

(まさか)

(まさか、この人が)

(辺境軍総司令官――アレクシス・フォン・ヴァイスハイト)

(王弟殿下!)

なぜ。

なぜ、そんな、雲の上の、この辺境の頂点に立つ人間が、直々に、こんな集落の外れの、みすぼらしい廃屋にまで。

リーナの思考が、恐怖で、完全に、混乱する。

(王都からの、追放命令が、彼に届いたの?)

(私を、捕縛しに? それとも、ここで、『処分』するために?)

王都での、あの理不尽な断罪劇が、フラッシュバックする。

殴りつけてきた、兄アランの顔。

嘲笑していた、ジュリアス王太子の顔。

(この人も、同じ)

(王族なんて、みんな、同じなんだわ!)

(自分たちの都合で、私を『偽聖女』と呼び、そして今度は、この辺境で、私の、ささやかな生活さえも、奪いに来たんだわ!)

リーナは、咄嗟に、自分の背後を振り返った。

竈のそばで、ブランが、この異常事態に、まだ「グルルル……」と、低い唸り声を上げ続けている。

(ダメ、ブランだけは、絶対に、渡さない!)

リーナは、アレクシスとガルドから、ブランの姿を隠すように、無意識に、その小さな聖獣の前に、立ちはだかった。

だが。

アレクシスは、ガルドの、必死の取り成しにも、リーナの、あからさまな警戒にも、一切、構わなかった。

彼の、あの氷の青い瞳は、リーナの、その無意味な抵抗を、最初から、見透かしているかのように、彼女の肩越し――廃屋の、薄暗い室内へと、向けられていた。

そして、その視線が、リーナが、今、命がけで守ろうとした『一点』に、釘付けになる。

「きゅん!」

リーナの背後で、ブランが、一声、甲高く鳴いた。

アレクシスという『絶対強者』の、研ぎ澄まされた『鑑定』の視線が、自分に注がれたことを、敏感に察知したのだ。

だが、それは、恐怖の鳴き声ではなかった。

ブランは、リーナの足元から、ひょこり、と顔を出すと、その黄金色の瞳で、アレクシスの、氷の青い瞳を、真っ向から、じっと、見つめ返した。

アレクシスの、氷の仮面が、初めて、ピクリ、と動いた。

ガルドは、その小さな白い獣を見て、首を傾げた。

(なんだ、あの子犬は。タム爺の孫が言っていた『獣』とは、これのことか? 随分と、可愛らしいものだ)

だが、アレクシスが見ていたのは、その『形』ではなかった。

(聖獣)

(間違いない。この、凝縮された、純粋な『聖』の波動)

アレクシスの『目』には、はっきりと見えていた。

その、小さな、子犬にしか見えない獣の身体から、どれほど、常軌を逸した、純粋な『聖』の波動が、清浄なオーラとなって、溢れ出しているかを。

(ガルドの報告、全て、真実だった)

(『白夜の森』で、彼女は、これと、出会ったのだ)

(そして、この聖獣は、彼女に『懐いて』いる)

アレクシスの視線が、ブランから、今度は、廃屋の、その『床』へと移った。

リーナが、先ほどまで、調合に使っていた、石臼。

薬草を刻むための、薬研。

そして、ガルドたちの、乱暴な入室によって、床にこぼれ落ちた、貴重な薬草の『粉末』と『素材』。

(これは)

アレクシスの青い瞳が、わずかに、驚愕に、見開かれる。

『死の谷』の「黒い根」。

『白夜の森』の、あの猛毒キノコ『血染めの星空』。

その二つが、この廃屋の中で、平然と、混じり合っている。

彼は、総司令官として、この辺境の、危険な植物についての知識も、その薬効も、毒性も、全て、完璧に有していた。

(正気か、この娘)

(『黒い根』の『抗体』と、『星空キノコ』の『魔力毒』を、混合させる?)

(馬鹿な。王都の薬学書では、その二つは、絶対に、同時に処方してはならない『禁忌』の組み合わせのはずだ)

(互いの薬効が、激しく反発しあい、ただの『猛毒』にしかならない、と)

(だが、現に、ガルドが、あの『白銀の薬』を持ってきた)

(あの薬には、この二つの、相反する『気配』が、完璧なバランスで、融合していた)

(王都の薬学の、その『先』を行っているというのか。いや、違う)

アレクシスの視線が、石臼のそばに置かれた、一冊の、分厚い革表紙の本に、吸い寄せられた。

『前世薬学応用論』。

(前世)

アレクシスの思考が、常人には、到底、追いつけない速度で、回転する。

(この娘は、王都の薬学とは、まったく『別系統』の知識を、持っている)

(そして、その『知識』と、自らの『聖女の力』、さらには、この『聖獣の力』さえも、利用して、あの『奇跡』を、作り出した)

アレクシスの視線は、最後に、廃屋の、開け放たれたままの『裏口』へと注がれた。

夕暮れの、冷たい風と共に、そこから、漏れ出してくる『気配』。

それは、この辺境の、どこにも存在しなかったはずの、あまりにも、豊かで、温かい、『生命』の気配だった。

「閣下?」

ガルドが、何も言わずに、その裏口へと、まるで、何かに、引き寄せられるかのように、歩き出したアレクシスの背中に、戸惑いの声をかけた。

アレクシスは、その声も、無視した。

彼の、氷の青い瞳は、今、その裏口の向こう側に、信じられない『何か』を、捉えていた。

彼は、廃屋の裏手へと、足を踏み入れた。

リーナも、ブランも、ガルドも、慌てて、その後に続く。

「あっ」

リーナは、自分が、調合に夢中になるあまり、裏口の扉を、開け放しにしていたことに、今更ながら、気がついた。

(ダメ! あそこは!)

(あの『畑』を、見られたら!)

だが、リーナの、その、か細い制止は、間に合わなかった。

そして。

三人が、見たものは。

「これは」

ガルドが、言葉を失い、その場に、立ち尽くした。

彼が知る、あの、石のように固く、雑草一本生えていなかったはずの『死の畑』は、そこには、なかった。

「……なんだ、これは……」

ガルドは、目の前の光景が、理解できなかった。

そこにあったのは、まるで、王都の、国王陛下の、私的な庭園から、最高級の土を、ごっそりと、盗み出してきたかのような、しっとりとした、豊かな『黒土』の畑だった。

辺境の、あの痩せた灰色の大地とは、完全に、異質な空間。

そして、何よりも。

その『黒土』の上に、今、まさに、ぐんぐんと、目に見えるほどの勢いで、育っている、青々とした『薬草』の群れ。

「ば、馬鹿な。王都の、薬草だと?」

ガルドは、その薬草が、自分たちが、王都から『気休め』として、押し付けられている水薬の、原料(しかも、遥かに高品質な)であることに、気づいた。

「なぜ、こんなものが、この辺境の、それも、集落の外れの、廃屋の裏で、育っているんだ!」

ガルドが、混乱のあまり、叫び声を上げる。

だが、アレクシスは、静かだった。

彼は、その『奇跡の畑』の前に、ゆっくりと、足を踏み入れた。

そして、その黒い軍靴が、灰色の『死の大地』と、この『黒い聖地』との、明確な『境界線』を、またいだ。

(温かい)

ブーツの底から、伝わってくる、大地の、確かな『生命』の鼓動。

アレクシスの『目』には、見えていた。

ガルドには見えない、この奇跡の『本質』が。

(土が、生きている)

(あの、小さな聖獣(ブラン)の『白耀』の力が、この死んだ大地に、生命力の『基盤』を与え)

(そして、あの娘(リーナ)の『黄金』の力が、その基盤の上で、植物の『活性化』を、促している)

その結果、生み出された、完璧な『聖地』。

「きゅん!」

ブランが、リーナの足元で、誇らしげに、もう一度、鳴いた。

(『聖獣』の、大地への祝福)

(そして、『聖女』の、植物への活性化)

(二つの『聖』の力が、共鳴している)

(これが、あの『偽聖女』と、王都が馬鹿にした、『地味な力』の、本当の姿か!)

アレクシスは、この光景を、五年間、ずっと、夢見ていた。

この、瘴気に汚染された辺境の大地を、いつか、このように、緑豊かな大地へと、蘇らせることを。

王都の神殿は、そのための協力を、全て、拒否した。

『辺境の浄化など、神官の無駄遣いだ』と。

だが今、王都が捨てた、たった一人の『偽聖女』が。

この最果ての地で、その『奇跡』を、いとも容易く、実現させている。

アレクシスは、その黒土の畑に、ゆっくりと、片膝をついた。

そして、その、剣だこで硬くなった、無骨な指先で、この奇跡の『土』に、そっと、触れた。

(間違いない)

(ジュリアス。お前は、国そのものを、捨てたのだ)

アレクシスは、ゆっくりと、立ち上がった。

そして、その氷の青い瞳に、今、初めて、この国最強の武人としての『覚悟』を、宿して。

自分の『宝』を、その『奇跡』を、生み出した、唯一人の少女へと、振り返った。

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