第25話 第6章 王弟殿下による「保護」 6-1: 漆黒の来訪者

辺境軍総司令部、その黒い岩肌の砦の、最上階。

総司令官執務室の重い扉が、外の冷気を運び込みながら開かれた。

「閣下、ご準備が整いました」

ガルド隊長が、緊張した面持ちで報告する。

「うむ」

アレクシス・フォン・ヴァイスハイトは、ペンを置くと、黒檀の机から立ち上がった。

ランプの光が、その怜悧な横顔を照らし出す。彼の氷の青い瞳は、窓の外、集落のある南の方向を、静かに見据えていた。

彼の脳裏には、先ほどガルドが持参した、あの『白銀の丸薬』の輝きと、王都から届いた『偽聖女追放』の機密報告書が、一つの、恐るべき答えとなって焼き付いていた。

(リーナ・バークレイ)

(王都が捨てた『宝』が、今、この俺の領分にいる)

「ガルド。お前が案内しろ」

「はっ! しかし、閣下。総司令官が、直々に、護衛も最小限で砦を出られるなど、前代未聞であります。せめて、近衛を一中隊――」

「不要だ」

アレクシスの声は、短く、全ての反論を許さない響きを持っていた。

「お前と、俺の近衛二名。それで十分だ」

彼は、壁にかけてあった、実戦用の黒い外套を、その長身に羽織った。

「これは『公式な視察』ではない。王都の、余計な『目』や『耳』に、気づかせるわけにはいかん」

「しかし!」

「ガルド」

アレクシスは、ガルドの肩に、その無骨な手を置いた。

「お前は、この俺が、誰かに後れを取るとでも思うか?」

その、氷の瞳の奥に宿る、絶対的な『自信』と『威圧』。

『王国最強』と謳われる、武人としての気配を真正面から浴びて、ガルドは「ひっ」と息を呑んだ。

「も、申し訳ございません! 愚かなことを申し上げました!」

「分かればいい。行くぞ」

アレクシスは、それ以上何も言わず、執務室を後にした。

ガルドと、二名の近衛だけが、その黒い影のような背中を、慌てて追う。

砦の地下馬房から、漆黒の軍馬三騎と、ガルドの馬、合わせて四騎が、人目を忍ぶように、裏門から出撃した。

馬が、凍った大地を蹴る、硬い蹄の音だけが、鉛色の空の下に響き渡る。

風は、相変わらず、魔族領から、肌を刺すような瘴気を運んできていた。

アレクシスは、その風を、まるで意に介さないかのように、その端正な顔を真正面から晒し、馬を駆った。

(急がねばならん)

彼の心中には、焦りがあった。

(これほどの『奇跡』を、王都の連中が、いつまでも気づかぬはずがない)

(特に、神殿の連中が、この『聖』の波動を感知すれば、すぐにでも、調査団を送り込んでくるだろう)

(そうなれば、あの愚かな甥、ジュリアスや、セラという女狐が、黙ってはいない)

(『偽聖女』として追放したはずの娘が、辺境で『本物の奇跡』を起こしているなどと知れば、彼らは、その『奇跡』ごと、リーナを、王都へ強制的に連れ戻すか、あるいは、自分たちの『嘘』が発覚することを恐れ、秘密裏に『暗殺』しようとするだろう)

(どちらにせよ、結果は同じだ)

(この辺境から、『宝』が、失われる)

(それだけは、絶対に、阻止せねばならん)

アレクシスの、馬を操る手綱に、力がこもる。

(俺が、王都の連中より先に、彼女を『確保』する)

(『保護』という名の下に、この辺境軍の、俺の、絶対的な管理下に置く)

(彼女は、王都の犠牲者だ。そして、俺の、切り札だ)

集落の、朽ちかけた柵が、急速に、近づいてきた。

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