第13話 第3章 森の出会い、白耀獣 3-1: 白夜の森
『リーナ薬局』が軌道に乗り、集落での生活が安定してから、数週間が過ぎた。
村人たちとの物々交換は順調だった。リーナが作る『奇跡の薬』は、今やこの集落の人々にとって、瘴気と隣り合わせの生活を送る上で欠かせない必需品となっていた。
薬と引き換えに、リーナの廃屋(薬局)には、日々の食料である干し肉や黒パン、豆だけでなく、冬を越すための薪、修繕用の木材、そして防寒着代わりの毛皮などが、感謝の言葉と共に山と積まれていく。
(……なんて、満たされた生活)
リーナは、竈で温めた豆のスープをすすりながら、その充足感を噛み締めていた。
王都の神殿にいた頃は、最高級の食事が用意されていた。だが、そこで感じていたのは、常に「自分は本当にここにいて良いのだろうか」という、漠然とした疎外感と焦燥感だった。
王太子ジュリアスや兄アランが望む『派手な奇跡』を見せられない『地味な聖女』としての、息苦しさ。
だが、今は違う。
自分の『力』と『知識』が、薬という『形』になり、それが、確かに人々の役に立っている。その『対価』として、自分の『生』が支えられている。
(これこそが、私の望んだスローライフ……!)
しかし、その確立したはずのスローライフは、新たな、そして深刻な問題に直面していた。
(……薬草が、足りない)
リーナは、薬草を保管している棚を見つめ、深くため息をついた。
『死の谷』で採取できる「黒い根」は、その生育が恐ろしく遅い。瘴気が濃すぎる土地では、植物が育つこと自体が奇跡に近いのだ。
需要は、集落の老人たちの咳を止めるだけにとどまらなかった。
先日訪ねてきた辺境軍の兵士たち。彼らもまた、『奇跡の薬』の重要な顧客となっていた。
最前線で魔族の瘴気に直接晒される彼らにとって、リーナの薬は、王都から支給される『気休めの水薬』とは比較にならない、文字通りの『命綱』だった。
(あの隊長さんの、切実な目……)
『頼む、売ってくれ』
あの言葉を思い出すたび、リーナの胸は薬師として締め付けられた。
(……もっと、作らなければ)
(もっと、安定して、多くの薬を、供給しなければ)
(兵士さんたちも、集落の皆も、救えない)
彼女の脳裏に、あの兵士の隊長が広げた、軍用の地図が蘇る。
隊長の指が叩いた、集落のさらに北。
『白夜の森』。
(……あそこは、瘴気の濃さが『死の谷』の比じゃねえ)
(……本当の『死地』だ)
隊長の、忠告の言葉が蘇る。
だが、リーナの決意は、その忠告よりも強かった。
(だからこそ、行く価値がある)
(『死の谷』の瘴気で、あの「黒い根」が育ったのなら)
(『白夜の森』の、さらに濃い瘴気の中では、もっと強力な、未知の薬草が育っている可能性が、あるわ)
それは、薬師としての、飽くなき探求心。
そして、王都では果たせなかった、『自分の力で人々を救いたい』という、聖女としての本能的な渇望だった。
彼女は、数日をかけて、入念な準備を進めた。
まず、集落の老人たちや猟師たちに、『白夜の森』について、改めて聞き取りを行った。
「薬師様、あんた、本気かい!」
集会所の老人は、リーナの計画を聞いて、顔を真っ青にした。
「あそこは『禁じられた森』だ! 入った者は、二度と戻ってこねえ!」
「昔、腕利きの猟師が、珍しい獲物を追って森に入ったが……三日後、集落の入り口で、まるで全身の血を抜き取られたみたいに、真っ白になって死んでたそうだ」
「瘴気に喰われたんだ……」
村人たちの忠告は、真剣だった。
だが、リーナは、その忠告に感謝しつつも、静かに首を振った。
「私は、大丈夫です。私には、この薬がありますから」
彼女が、『奇跡の薬』の小瓶を見せると、村人たちはぐっと言葉に詰まった。
彼らも、この薬の『奇跡』を、身をもって知っているからだ。
「……薬師様。無茶だけは、しねえでくだせえ」
「あんたは、この集落の『宝』なんだ。あんたまで失ったら、俺たちは……」
(……宝)
王都では『偽物』と罵られた自分が、ここでは『宝』と呼ばれている。
その重みが、リーナの決意を、さらに固くした。
(必ず、戻ってくる)
(そして、もっと多くの『希望』を、持ち帰ってくる)
リーナは、有り余るほどの食料と薪を提供してくれた村人たちに深く頭を下げると、薬局の扉に「三日ほど、留守にします」という書き置きを貼り、旅立った。
装備は、万全だった。
革の鞄には、薬草採取用のナイフ、水筒、そして『前世薬学応用論』。
懐には、万が一に備えて、調合したばかりの『奇跡の薬』を、通常よりも高濃度にしたものを、小瓶に詰めて忍ばせた。
集落の柵を越え、灰色の荒野を北へと進む。
『死の谷』を越え、さらに半日。
隊長の地図が示していた通り、目の前に、異様な森の入り口が、まるで巨大な獣の顎のように、不気味に開いていた。
「……ここが、『白夜の森』」
リーナは、その入り口で立ち止まり、息を呑んだ。
空気が、変わった。
集落周辺の瘴気が、薄い『霧』だったとすれば、ここは、粘度のある『液体』の中に足を踏み入れるかのようだった。
風の音が、ない。
鳥の声も、虫の音も、一切しない。
森は、完璧な『無音』に支配されていた。
そして、何よりも、その風景。
隊長の言った通りだった。
森を構成する木々が、その幹も、枝も、葉の一枚一枚に至るまで、すべてが、病的なまでに『真っ白』だった。
それは、雪が積もっているのではない。
あまりにも濃密な瘴気に、その生命力を、木の内部から完全に吸い尽くされ、そのままの形で『枯死』し、白く石灰化した、巨大な『墓標』だった。
(……きれい)
リーナは、不謹慎にも、そう感じてしまった。
鉛色の空の下、瘴気の霧に、その白い森だけが、まるで真珠層のように、ぼんやりと、幻想的な光を放っている。
死が、極まりすぎて、一種の『美』を形成している。
(……でも、ここは、死地)
リーナは、懐から『奇跡の薬』を一粒取り出し、覚悟を決めて、それを飲み込んだ。
苦い味が、喉を焼く。
だが、その苦味が、彼女の身体に、瘴気への『抗体』を、即座に作り上げた。
リーナは、白い墓標が立ち並ぶかのような森の中へと、その一歩を踏み出した。
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