第11話 2-5: 物々交換とスローライフの始まり
夜の闇が、瘴気と共に『死の谷』を完全に覆い隠す頃、リーナは廃屋に戻っていた。
扉を閉め、粗末な閂をかけると、外を吹き荒れる風の音だけが、彼女をこの世に引き戻す唯一の音のように響いた。
(……疲れた……)
瘴気が渦巻く谷底に身を晒したせいか、全身が鉛のように重い。手足の先は、冷えというより、痺れに近い感覚に陥っていた。
だが、革鞄から取り出した「黒い根」の、強烈な土と苦味の匂いが、リーナの意識を奮い立たせた。
(……これこそが、私の『答え』)
(王都では不要とされた、私の力が、この土地の素材と出会って、今、形になろうとしている……!)
興奮が、疲労を上回る。
空腹さえも、今はどこか遠い感覚になっていた。
彼女は、まず、井戸から冷たい水を何度も汲み上げ、放置されていた石臼と、その杵を徹底的に洗い清めた。
王都の神殿ならば、儀式用の清浄な布で拭き上げるところだろう。だが、ここには、そんなものはない。
(……ならば、創ればいい)
リーナは、自らの手のひらに、なけなしの聖女の力を集中させた。
彼女の手から放たれる温かな光が、汲み上げたばかりの井戸水に溶け込んでいく。
水が、微かに、白銀の光を帯びる。
(私の『浄化』の力……!)
ただの冷たい水が、瘴気や汚れを祓う『聖水』へと変わる。
リーナは、その聖水で、石臼と杵を丁寧に、丁寧に洗い流した。こびりついていた年月の汚れが、聖水に触れた瞬間、まるでそれ自体が意思を持ったかのように、スルリと剥がれ落ちていく。
やがて、石臼は、まるで新品のように清浄な気配を放ち始めた。
「……これでいい」
リーナは、この廃屋で初めて、小さな笑みを浮かべた。
ここが、彼女の『薬房』になった瞬間だった。
彼女は、採取してきた「黒い根」を、その清めた石臼に入れた。
(瘴気の『毒』を、この根が持つ『抗体』で中和する……)
前世の薬学知識が、脳内で配合表を組み立てていく。
(ただ潰すだけではだめ。成分が強すぎる。猟師の仲間が、三日三晩吐き続けたという、この強烈な苦味成分。これが『薬』であり、同時に『毒』にもなる)
(必要なのは、この『毒性』を抑えつつ、瘴気への『抗体』だけを抽出すること……!)
彼女は、まず、根を乾燥させるために、竈(かまど)に火を入れた。
火が、この薄暗い廃屋の中で、唯一の温かな光として揺らめく。
根を火で炙り、水分を飛ばして有効成分を凝縮させてから、石臼で丁寧にすり潰していく。
ゴリ、ゴリ、という重い音が、彼女の集中力を高めていく。
(次に、聖水……)
彼女は、すり潰されて粉末状になった黒い根に、先ほど精製した『聖水』を、一滴、また一滴と、慎重に垂らしていく。
(王都では、この力を『大地』に捧げていた。でも、ここでは違う)
(この『水』に、私の『浄化』を込める!)
粉末が聖水を吸い、ねっとりとした黒緑色の練り餌のようになっていく。
その瞬間、前世の知識(化学的な配合のイメージ)と、聖女の力(霊的な浄化のイメージ)が、彼女の中で完全に融合した。
(……見える)
瘴気という『負』の力。黒い根が持つ『抗体』の力。そして、リーナの聖なる『浄化』の力。
その三つが、この練り餌の中で、複雑な紋様を描きながら、拮抗し、中和し、そして、まったく新しい、安定した『薬』の形へと再構築されていくのが。
「……できた……!」
数時間後。夜が白み始める頃。
リーナの手には、指先ほどの大きさの、黒緑色の丸薬が数十個、完成していた。
見た目は、正直に言って悪い。まるで、泥を丸めたかのようだ。
だが、その一粒一粒に、高純度の聖なる力と、瘴気への強力な抗体成分が、完璧なバランスで凝縮されていた。
これこそが、この辺境で初めて生まれた『奇跡の薬』だった。
リーナは、その薬を、王都から持ってきた薬草の種が入っていた、空の布袋に大切に入れた。
(……これと、食料を交換してもらう)
(これで、私の生活が、本当に始まる……!)
仮眠さえ取らず、彼女は再び、集落へと向かった。
朝日が、鉛色の雲の隙間から、弱々しい光を投げかけている。
集落は、朝靄に包まれ、静まり返っていた。
向かう先は、昨日、薬師が住んでいた廃屋を教えてくれた、集会所の老人(まとめ役)の元だ。
扉を叩くと、眠そうな顔をした老人が、不機嫌そうに出てきた。
「……なんだ、あんたか。朝っぱらから……」
老人は、埃まみれで廃屋に戻ったはずのリーナが、一晩明けて、再び現れたことに眉をひそめた。その目は、リーナの、疲労困憊だが、異様な熱を帯びた瞳を訝しんでいる。
「おはようございます。昨日のお礼と……お願いがあって、伺いました」
リーナは、老人の前で、布袋から完成したばかりの丸薬を一つ、手のひらに乗せて差し出した。
老人は、その黒緑色の、不格好な丸薬を、値踏みするように見つめ、そして、鼻で笑った。
「……薬? 嬢ちゃん、昨日、酒場で猟師に何か聞いたようだが……こんな『泥団子』で、貴重な食料を交換しろってのか」
「泥団子ではありません」
リーナの声は、震えていなかった。疲労の底から湧き上がる、確信に満ちた声だった。
「これは、瘴気の『解毒薬』です」
「解毒薬だと?」
老人の目が、昨日とは違う色で、わずかに見開かれた。
「……本気で言ってんのか。軍が支給する、あの気休めの水薬じゃねえだろうな。あんなもん、飲んでも屁のつっぱりにもならんことは、ここの連中が一番よく知ってる」
「違います」
リーナは、きっぱりと首を振った。
「これは、この土地の植物から作った、本当の薬です。……この辺境の瘴気に、本当に効く薬です」
リーナの、あまりにも真剣な、真っ直ぐな瞳に、老人は腕を組んだ。
(……コイツ、昨日とは、目が違う)
(ただの、王都から逃げてきた、世間知らずの嬢ちゃんだと思ってたが……)
「……大口を叩くもんだ。そこまで言うなら、試させてもらうぞ」
老人は、扉を大きく開け、リーナを中へと招き入れた。
集会所の中は、朝早いというのに、すでに数人の老人たちが集まっていた。
そして、その隅の、薄暗い寝床に、一人の老人が横たわっていた。
「げほっ、げほっ……! ひぅっ……!」
骨と皮ばかりに痩せ、土気色の顔をした老人が、まるで肺を内側から引き裂かれるかのような、乾いた咳を繰り返していた。
息を吸うたびに、喉が張り付き、血の味がするという、辺境特有の『瘴気咳』だった。
「……タム爺だ」
集会所の老人が、苦々しげに吐き捨てた。
「もう、三月も、あの調子だ。夜も眠れず、水さえ喉を通らん。……もう、長くはねえだろう」
「……その方に」
リーナは、タム爺と呼ばれた老人に近づき、手のひらの丸薬を差し出した。
「この薬を、飲ませてあげてください」
「……おい、嬢ちゃん」
集会所の老人の声が、低くなった。
「もし、これが毒だったら、どうするつもりだ」
「毒ではありません。薬です」
リーナは、即答した。
タム爺が、霞む目で、リーナの差し出す黒い粒を見た。
「……げほっ、げほっ……どうせ、死ぬなら……もう、楽になりてえ……」
タム爺は、震える手で、リーナの手から丸薬を受け取ると、そばにあった水差しで、それを飲み下した。
集会所にいた全員が、息を呑んで、その様子を見守った。
リーナは、ただ、タム爺の手を握りしめた。
(……効いて、お願い……!)
丸薬は、猟師が言った通り、強烈な苦味を持っていた。
「……っ!? にが……っ!」
タム爺が、顔を歪めた、その瞬間。
「……げほっ……?」
あれほど止まらなかった、喉に張り付くような咳が、不自然なほど、ぴたり、と止まった。
「……あれ?」
タム爺は、自分の喉に手を当て、不思議そうに首を傾げた。
そして、恐る恐る、息を吸い込んだ。
いつもなら、瘴気が肺を焼き、激痛と共に咳が噴き出すはずだった。
だが。
「……すぅ……」
息が、できた。
焼けるような痛みがなく、深く、深く、空気が肺に入ってくる。
「……息が……楽だ……」
タム爺の、くぼんだ瞳から、ぽろり、と涙がこぼれ落ちた。
「……喉が、痛くねえ……」
「「「…………!!」」」
集会所にいた、他の老人たちが、一斉に立ち上がった。
「おい……タム爺の咳が、止まったぞ……?」
「顔色が……さっきまでの土気色が、少し……!」
「三月も止まらなかった、あの咳が……たった今……?」
集会所の老人は、リーナの顔と、何度も深く、安堵の呼吸を繰り返すタム爺の顔を、まるで信じられないものでも見るかのように、交互に見比べた。
彼の、ごわごわとした手が、わなわなと震えていた。
「……嬢ちゃん」
老人の声が、震えていた。
「あんたが……あんたが、これを作ったのか。本当に」
「はい」
リーナは、こわばっていた肩の力を、ようやく抜いた。
「その薬、一粒と、黒パン三つ。それと、干し肉を少々。……交換しては、いただけませんか」
その言葉を聞いた瞬間。
「……馬鹿野郎ッ!!」
老人が、突然、雷が落ちたかのような大声で怒鳴った。
リーナの身体が、ビクリと跳ね上がる。
(……え? 私、何か、間違ったことを……?)
「この『奇跡』が!! この、タム爺の命を救った薬が! パン三つで買えると思ってんのか!!」
老人は、興奮で顔を真っ赤にして、リーナの両肩を掴んだ。
「ふざけるな! 持ってけ、ドロボウ!」
老人は、集会所の奥にある、貴重な備蓄庫の扉を乱暴に開けると、そこにあった食料を、文字通り、リーナに無理やり押し付け始めた。
「え……ちょっ、待ってください、こんなには!」
「うるさい! 持ってけ!」
リーナの腕に、ずっしりと重い黒パンの塊。
脂が白く浮いた、塩気の強そうな干し肉の束。
カラカラに乾いた豆の、大きな袋。
王都の貴族が見れば、家畜の餌だと嘲笑うだろう。
だが、それは、リーナがこの辺境で、何日も生き延びられる、『命』そのものだった。
「あんたは……!」
老人は、リーナの手を強く握りしめた。その手は、タム爺を救えたという喜びで、まだ震えている。
「あんたは、この集落の『宝』だ! ……いや、救世主かもしれねえ……!」
(……救世主)
王都では『偽聖女』と呼ばれ、石もて追われるように追放された、この私が。
この痩せた土地で、『救世主』と。
(……ああ)
リーナの目から、熱いものがこぼれ落ちた。
それは、殴られた悔し涙でも、追放された悲し涙でもなかった。
自分の力が、自分の知識が、確かに誰かの役に立ったという、生まれて初めて知る、温かい喜びの涙だった。
こうして、リーナの辺境での生活は、ようやく軌道に乗り始めた。
彼女は、あの廃屋に、炭で『リーナ薬局』と書いた(看板と呼ぶにはあまりにも粗末な)木の板を吊るした。
その噂は、すぐに集落中に広まった。
『あの廃屋の薬師様は、本物だ』
『軍の水薬とは比べ物にならん』
村人たちは、その『奇跡の薬』と交換で、食料や薪、修繕用の木材、獣の毛皮など、生活に必要なものすべてを、喜んで提供してくれた。
リーナは、定期的に『死の谷』で薬草を採取し、薬を作っては、村人たちと交換する。
王都での『聖女』としての暮らしとは、比べ物にならないほど質素で、危険と隣り合わせの毎日。
だが、そこには、王都にはなかった、確かな『感謝』と『役割』があった。
王都では『偽聖女』と蔑まれたリーナだったが、この痩せた辺境の地で、彼女は『奇跡の薬師』として、ささやかだが、確実なスローライフを確立したのだった。
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