第2話 そして始まる僕らの日々

 チャイムの少し前に目が覚めた。

 眠っていたのは三十分くらいだろう。

 なのに身体がとても軽くて、意識が澄み渡っていた。


 不眠症のボクが、たった三十分とはいえ、あんなにも安らかに寝入ることができたなんて。


 それというのもやっぱり。


「……………………すぅ……」


 眼鏡は外したままだったけど、そこに誰が居るのかは分かる。

 自習室の机に乗って眠っている、クラスメイトの女の子。


 夢園カナデさん――――学園での呼び名は『眠り姫』。


 今まで午睡ごすいの授業をサボってきたボクだけど、こうして眠る彼女の姿を見ているとそんな呼び名も納得できた。

 安らかな寝息で周囲も眠りに誘ってしまう。

 彼女のおかげでボクも眠ることができたんだ。


「ありがとうございます」


 知らず頭を下げて礼を告げていた。

 同級生相手だろうと、感謝は感謝だ。


 そうして顔を上げてからボクは眼鏡を探した。

 付ける人なら分かるけど、起きた時に眼鏡の場所が分からないととても困る。

 だって、目、見えないし。


 それで、眼鏡なんだけど……。


「…………うひひ……」


 寝る直前のことを思い出せば、うん、分かるよ。

 持ってるのは夢園さんだ。

 寝転がっているせいで普段見えないおでこを晒している彼女は、眼鏡を両手で大切そうに握っていて、それを胸元で抱いている。


 ……なんだか、とても恥ずかしくなった。

 ただボクの眼鏡が抱かれているだけなのに。


 でも、か……かえして、もらっても、いいよね……?


 ボクのだし。


 見えないと困るし。


「……あの、夢園さん……………………取る、よ?」


 別に、そこへ触れようっていうんじゃない。

 近くにはあるけど、物体としては異なるものだ。


 問題はソレが、眼鏡が、呼吸による胸の上下と共に動いている点だった。


 迂闊に手を伸ばせば触れてしまう。

 それはあってはならない。

 恩義もあるし、倫理的に最低だ。

 なにより恥ずかしい。

 いや根本的に女子の胸元へ手を伸ばすという行為そのものが駄目な気もしてきた。

 でも目的はボクの眼鏡なんだよ。

 それはボクのもので……あくまで眼鏡の話なんだけど、無いと困るから、本当に掛けてないと手のひらに書いた文字さえ読めなくて。


「触らないように…………」


 手を伸ばそうとした途端、目を細めて凝視していた彼女の胸部が呼吸によって膨らんだ。

 つい手が止まる。

 けど、思考も巡った。


 膨らみ幅は一センチもない。


 正確な値を求めるには彼女の胸囲など知らない数値が多くて難しいけど、観察を重ねれば平均的な挙動は読み取れるだろう。

 そう、冷静に、落ち着いて、まずは統計を取ろう。

 数千数万なんてサンプリングをする意味はない。そもそも計測は目視だ。だから誤差は容認する。その上で信頼水準を九十五パーセントに設定、上下幅の数値も平均値ではなく中央値で計算する。

 …………うん、大体十六回か。

 十六回、夢園さんの胸部が呼吸によって膨らむ様子を観測すれば、多少の誤差を許容しつつ、信頼度九十五パーセントで平均的な挙動を割り出せる筈だ。


 ただ、問題が一つあって、今の僕は視界がぼやけてる。

 正確な挙動を観察するには接近するしかないんだ。

 これは恩義ある彼女へ無礼を働かないよう、細心の注意を払って行う必要がある。


 落ち着け。

 冷静に。


 客観的に、余計な思考を挟まずボクは夢園さんの胸の動きを把握するべく、なにより安心安全な眼鏡の救出を行うべく、まずは彼女の胸部へ接近し、十六回分の呼吸の様子を正確に観察――――


    ※   ※   ※


「ん、んんっ、ん~~~~っ!! っはぁ……!! おっはようーっ、あれ? どしたのサクくん?」


 チャイムと共に目覚めた夢園さんが、寝ていた机の上で大きく伸びをして身を起こす。

 その様子を、ボクはつい、窓ガラス越しに見てしまった。


 自戒せよ。

 瞑想せよ。

 悪霊退散。


 机に背を向け正座するボクを、彼女は上から覗き込んでくる。


「…………寝てる時って骨格が歪みやすいから、寝起きに正座して背骨を矯正するといいらしいよ」

「へぇっ、そうなんだ! じゃあ私もやろーっと!」


 するりと机から降りてきた彼女がすぐ隣で正座する。

 近くで寝ている時にも感じたけど、なんだか甘い香りがした。


 駄目だ、冷静になれ。

 冷静に。


「あっ、これゴメン! 私ずっと持ったままにしてたやー」


 そうそれだ。

 夢園さんは握ったままだった眼鏡を一度ボクの目の前に差し出し、けれどすぐに引っ込めて自分で掛けた。

 なぜだ。

 そして彼女は目をくっと閉じて辛そうな顔をする。


「うぅぃ……全然見えなくてくらくらするよ」

「……目の良い人が掛けるとそうなるね」

「あっ、でもちょっとレンズに触っちゃってる! ごめんね、今拭くから」


 言って取り出したのは可愛らしいハンカチ。

 繊維が柔らかそうで、眼鏡拭きほどじゃないけどレンズを拭くには良さそうだ。


「コレなら平気そう?」

「え? うん」


「はぁぁ……っ」


 ボクの了解を受けた途端、夢園さんはレンズに息を吹き掛けた。

 そうして指紋の付いてしまった部分を拭き取る。

 もう一度、


「はぁ……っ。ふふ、眼鏡付けてる人って、みんなこうやるよね?」

「……………………うん」


 更に息を吹き掛け、拭き上げて。

 眼鏡を差し出してきた。


「はいっ! 取っちゃってごめんね? こっち向いてー」

「え、いや、それは自分で……」

「向くがよいっ!」


 なんてふざけて笑い、夢園さんが眼鏡を掛けてくれた。

 そうしてはっきりした視界の中で、彼女の頬がちょっとだけ色付いているのに気付く。


 見えてなくて、分からなかったけど。

 彼女なりに気恥ずかしさとか、色々ある中で頑張ってくれてるんだと知った。


 それはそれとして、こっちもかなり恥ずかしいんだけど……。


 なんて思って視線を逸らした途端、柔らかいけれどしっかりした、夢園さんの声がボクを包んできた。


「……まだ、隈、消えないね」


 あ、と思い出す。

 眠る直前、確かに彼女は言っていた。


 不眠症って言葉を出したのはあの時が初めてだったけど、普段から見られてたんだって気付く。

 授業サボって眠らずにいたことだけじゃなく、心配されてたんだと。


「眠れて五十分くらいだし、全然足りないかー」


「…………ううん。ごめん、いや、ありがとう。本当に、すごく身体が軽くなったんだ。本当に」


「そう? ふふ。なら、良かったかなー」


 言いつつ、二人並び合って正座して、背筋を伸ばした。

 少しそのままで居たら、巡回の先生がやってきて、そろそろ教室へ戻るよう注意された。


「明日はちゃんと授業に参加するんだぞー? 私、この時間になるとクセですっごく眠くなるからさー、サクくんも慣れるとそうなるよ」

「……そっか。うん。ありがとう」


 そうしてもう一度頷き、


    ※   ※   ※


 翌日、昼休み明けの、二年B組と表札の掛かった教室からこっそり抜け出して……裏庭で参考書を開いていたら、再び夢園さんがボクの前へ現れた。

 大きな枕を抱えて。

 今にも落ちそうな瞼を必死に持ち上げ。

 メトロノームみたいに揺れながら。


「…………さくさくくん」


「ぁ…………ははははは……ごめんなさい。寝れなくて」


 真面目な委員長である彼女は、授業をサボって勉強する問題児であるボクを、じとっとした目で見詰めてきた。


 ぷくー、となった頬が中々の膨張率だね……?


 なんてふざけた思考に逃げるボクへ、彼女は距離感なんて完全無視で顔を寄せてくる。


「ねるの」

「はい……」

「きょうから、いっしょに、ねるの」

「…………うん?」


 言葉がよく分からなかった。

 日本語って難しいね?


 なんて思っていたら、なぜかボクの眼鏡のつるを摘まんできた。


「さくさくくんは……きょうからしばらく、わたしとねるの」

「いや、さすがにそれは申し訳ないというか」

「ねるの」

「……はい」


 そんな感じで、僕の眠れない日々は、夢園カナデっていう『眠り姫』によって、破壊されていくのであった。





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