第18話 英雄への不協和音と始まりの穢れ

――何回目の死だったか、もう覚えていない。

 五つの首が放つ毒ブレスに焼かれ、鞭のような打撃に骨を砕かれ、水中の毒に全身を溶かされる。その全てを、俺は幻痛として脳内に刻み込み、最適解を導き出すためのデータへと変換した。


 洞窟の闇が、俺の視界を飲み込む。コラプテッド・ヒュドラの五つの首が、赤黒い眼を爛々と輝かせて俺を睨み据える。中央首の口器がチャージ音を響かせ、紫の毒ブレスが薙ぎ払う。


(二百十七回目。ブレス範囲15メートル、中央優先。左三歩回避後、右首鞭予測。再生結晶連続打撃で3秒硬直。胸中央の本核バリア、脈動直前0.8秒の隙)


 体を捻り、ギリギリでかわす。右首の鞭打を低く沈んで回避、牙槍で眉間を貫き! グチャリ! 首が一本落下。黒血が噴き、残り四つの首が激昂。


「ギシャアアアッ!!」


 連携加速。左首の牙雨を槍で受け流し、二番目の首の眉間へ連続薙ぎ。結晶硬直! 今だ、胸の中央へ牙槍をフルスイング。バリア展開の0.8秒前、ズブズブズブッ!


 心臓核が砕け散る感触。巨体が痙攣し、断末魔の咆哮が洞窟を震わせる。黒い瘴気が霧散し、水面に拳大の黒い魔石が浮かぶ。


「はっ……はっ……」


 幻痛ではない、本物の疲労が全身を支配する。二百回以上の死は、精神を確実に削り取っていた。魔石を拾い上げ、ふらつく足で洞窟の入り口へ戻る。俺の勝利に呼応したのか、道を塞いでいた穢れの蔓が、まるで枯れ木のようにボロボロと崩れ落ちていった。


 差し込む月光の向こうに、人影が見える。


「……アレク様!」


 エリアの安堵に満ちた声が響く。翠の瞳が涙で輝き、額の紋様が淡く明滅している。次いで、カインの怒声。


「てめえ、無事か! 何時間かかったと思ってやがる!」


 彼の顔には安堵と、それ以上に強い畏怖と混乱が浮かんでいた。外で何度も俺の気配が消え、叫び、苛立つ声が聞こえていたはずだ。


「畜生! この蔓壁、剣じゃ歯が立たねえ!」


「カインさん、無駄です! 穢れの蔓は物理攻撃で増殖します……!」


「お兄ちゃん、どうしよう……アレクさんが閉じ込められて……ヒュドラの気配が強すぎるよぉ……!」


 ミアの泣き声、カインの拳が壁を叩く音、エリアの祈り。皆の声が、俺の死の合間に精神を支えていた。リナの幻聴と共に。


『アレク……がんばって……信じてるわ……!』


「……終わった。帰るぞ」


 俺は短く告げ、彼らの横を通り過ぎた。カインが食い下がる。


「おい、待て! 中で何やってたんだ!? 気配が何度も消えて……お前、死んでたんじゃねえのか!?」


「練習だ」


 淡々と答えると、カインの顔が引きつる。自警団員たちが化け物を見るような目で俺を遠巻きにし、ミアが兄に寄り添いながら潤んだ瞳を向ける。


「アレクさん……本当に、無事でよかった……!」


 頰を赤らめ、感謝の視線。ハーレム要員、順調。


 緑風村への帰路は、奇妙な沈黙に包まれていた。だが、村の柵が見えてくると、その静寂は熱狂によって破られた。


「うおおお! 帰ってきたぞ!」「カイン団長! アレクさんも!」「沼の穢れ、片付いたのか!?」


 松明を持った村人たちが、俺たちを英雄のように出迎える。特に、俺に向けられる視線は、以前の侮蔑とは全く異質な、畏敬と感謝に満ちたものだった。


「アレクさん! ありがとうございました! あなたがいなければ、村は……!」


 ミアが駆け寄り、潤んだ瞳で俺を見上げてくる。その頰は上気し、そっと袖を掴む仕草。エリアも隣に寄り添い、翠の瞳で気遣う。


「アレク様、本当にお疲れ様でした。どうか、少しお休みください。聖なる風よ、傷を癒せ……」


 微かな治癒魔法が俺の体を包む。村人たちの歓声、少女たちの好意。これこそが、俺が目指すスローライフの序章だ。


 だが、その輪の中心で、カインだけが苦虫を噛み潰したような顔で俺を見ていた。俺の戦い方は、彼の信じる「仲間との絆」とは相容れない。駒のように仲間を配置し、死ぬことすら前提に最適解を導き出す。その非人間的な合理性が、彼には理解不能で、不信を募らせるのだろう。


(いい。その不協和音こそが、お前を成長させる)


 俺はカインの視線を無視し、英雄の役割を演じることにした。


 その夜、歓迎の宴が一段落した頃、異変は起きた。


「大変だ! 井戸の水が!」


 村人の悲鳴に駆けつけると、村の生命線である井戸から汲み上げられた水が、まるで墨汁を垂らしたかのように黒く濁っていた。微かに、ヒュドラが放っていたのと同じ腐臭がする。


「うっ……頭が……」「気持ち悪い……体が熱い……」


 水を飲んだ者たちが、次々と地面にうずくまり、体調不良を訴え始めた。


「穢れだ……! ヒュドラの穢れが、地下水脈を通って村まで……!」


 エリアが顔を青ざめさせ、唇を震わせる。最悪の事態だ。源を断っても、毒はすでに流れ出してしまっていた。


「くそっ、どうすりゃいいんだ! 浄化の魔法なんて、使えるやつはいねえぞ!」


 カインが苛立たしげに壁を殴る。村中が絶望的な空気に包まれる中、エリアが村の集会所に駆け込み、埃を被った古文書を必死にめくり始めた。


「エリア、何やってんだ!?」


 カインが追う。ミアが兄を支えながら俺にすがる視線を送る中、数十分後。彼女は一つの記述を指差し、声を上げた。


「……ありました! 古文書に、『森の最深部、古き民の遺跡に、万物を清める星の祭壇あり』と! 古代エルフの遺跡です!」


 浄化装置。解決策は見つかった。


「よし! すぐに準備だ! 俺たち自警団で……」


 カインが息巻くのを、俺は冷たく遮った。


「無駄だ。お前たちでは足手まといになる。危険すぎる」


 シミュレーションは一瞬で終わる。穢れに汚染された森の最深部。今の彼らの実力では、生存確率三パーセント未満。俺が死に戻りでルートを切り開く必要がある。


「……俺一人で行く」


 それが、最も合理的で、効率的な最適解だった。

 だが、その言葉は、カインの心の最後の箍を弾き飛ばした。


「――ふざけるなッ!!」


 凄まじい剣幕で、カインが俺の胸ぐらを掴み上げた。その瞳は、怒りと、失望と、そして懇願するような光が入り混じっていた。


「またか! またお前は一人で行くのか! 俺たちを……仲間を、信じないのかッ! 洞窟で何度も死にかけてたお前を、俺たちがどれだけ信じて待ってたと思ってんだ!」


 彼の叫びが、静まり返った夜の村に響き渡る。エリアが止めに入ろうとし、ミアが悲鳴を上げ、村人たちが息を呑む。


 俺とカインの間に、修復しようのない、深い亀裂が刻まれた瞬間だった。

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