第15話 絶望の沼と見えざる初回攻略

「よし、沼見えてきた! 準備しろ!」


 カインの野太い声が、夜の森に響いた。木々の切れ間から、禍々しい気配を放つ沼地が姿を現す。視界を遮る毒々しい紫色の霧。水面は黒く濁り、時折、不気味な泡が浮かび上がっては弾け、腐臭と瘴気が肺を焼くように重い。


「全員、薬草マスクを着けろ! 毒霧が濃いぜ、息を殺して進むんだ! 迂闊に近づくんじゃねえぞ!」


 カインの指示で、自警団員たちが慌ただしく腰の袋から布を取り出し、口元を覆う。ミアが兄の肩を支えながら不安げに周りを見回し、エリアが弓を構え、額の紋様を明滅させながら俺に囁いた。


「アレク様……空気が、澱んでいます。これほどの穢れ、森の奥でも感じたことがありません……」


「……ああ。発生源は近いな」


 俺は短く応じ、カインたちが慎重に進路を協議し始めるのを横目に、一歩前へ踏み出した。


「おい、待て! てめえ、死にてえのかガリガリ!」


 カインの怒声が飛ぶ。エリアも「アレク様、危険です! まずは様子を……!」と俺の腕を掴もうとする。ミアが兄の袖を握りしめ、息を呑む。だが、俺はそれを無視して、無防備なまま紫の霧の中へ足を踏み入れた。


(仮想シミュでは、このルートが最短。風向き、地盤の硬度、魔素濃度から算出した最適解だ。だが、現実は……)


 一歩、二歩。湿った地面がぬかるむ。三歩目を踏み出した瞬間。


 ゴボッ!


 足元の地面が、紙のように崩れ落ちた。予期せぬ変数。体が傾ぎ、抗う間もなく黒く濁った水へ引きずり込まれる。


(――地盤の脆化が、予測を超え……!?)


 全身を突き刺す冷たさと、皮膚を溶かす激痛。毒液が気管に流れ込み、肺を内側から焼き尽くす。視界が闇に染まり、意識が途切れる寸前、脳内にシステムメッセージ。


 死。


『ロードしますか? YES / NO』


(YES)


「はっ……!」


 息を吹き返した俺は、カインたちが協議を始めようとしている地点に立っていた。皮膚溶解と窒息の幻痛が全身を駆け巡る。吐き気がこみ上げるのを、無表情の仮面で押し殺した。


「……アレク様? どうかなさいましたか? 顔色が……」


 エリアが心配そうに覗き込む。彼女たちの時間では、まだ何も起こっていない。


「……いや、問題ない」


(ここからだ。俺だけの、孤独な練習が始まる)


 カインたちの議論をBGMに、再び霧の中へ。


 二回目。沈んだ地点を避け、右へ三歩。

 ――ブシュウッ! 地面の裂け目から毒ガス噴出。神経焼かれ死亡。ロード。


 七回目。ガスのタイミング記憶し、朽ち木へ跳躍。

 ――ザシュッ! 水面から黒触手貫き死亡。ロード。


 十五回目。触手位置把握、風の隙間へ。

 ――背後から沼トカゲに首食い千切られ死亡。ロード。


 ガス、底なし沼、奇襲魔物、視界遮断霧、方向狂わせ磁場……初見殺しの罠満載。数十回の死を繰り返し、スタート地点に戻る度に痛みと恐怖が蓄積。肉体抉られ、骨砕け、魂削られる。


(リナ……お前の腫れた頰に比べれば、こんなもの……)


 彼女の声が精神を繋ぎ止める。『あなたは、私の希望よ! 絶対に、生きて……!』 淡々とデータを刻み込む。最短安全ルート、全罠配置、魔物パターン。完璧に体へ。


 三十二回目のロード。


(……最適解、完成)


 息を整え、再び歩き出す。


「おい、またあの馬鹿が行くぞ! 今度こそ死ぬぜ!」

「放っておけ! 忠告無視の自業自得だ!」


 カインたちの嘲笑が背中に。だが、今回は違う。


 一歩、二歩。底なし沼縁を紙一重で通過。三歩、四歩。ガス噴出コンマ二秒前、風の隙間駆け抜け。朽ち木跳躍、触手空切り、沼トカゲを小石蹴り逸らす。


 長年住み慣れた庭を散歩するように、スルスルと沼奥へ。一切の迷いなし。


 背後で嘲笑が驚愕に変わる。


「なっ……あいつ、何なんだ!?」

「偶然か……? いや、迷いがなさすぎる……まるで、道を知ってるみたいだ……」

「カインさん……あれは、ただの運じゃ……おかしいですよ……」


 カインが息を呑む気配。自警団員の若い奴が囁き、ミアが兄に寄り添いながら俺の背中を見つめる。翠の瞳のエリアが安堵の笑みを浮かべる。彼らの常識が、破壊されていく。それでいい。


 振り返らず、さらに奥へ。この先に沼の主がいる。その準備運動は、終わった。


 だが、その時。


「ぐあっ! な、なんだこいつら!?」


 後方から、自警団員の悲鳴。水面掻き乱す音、無数の赤い目が霧の向こうで光る。


(……変数。沼毒蛙の群れ、予測より早く動いたな)


 俺は足を止め、静かに振り返った。

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