「あはは……ゾンビみたい」

 練習の後、智恵理たちは客で賑わうバーでくつろいでいた。

 黎木はバーのカウンターに座り、練習で疲労した手首を回してパソコンを睨んだ。ノートパソコンのメール受信BOXには「なし」の文字が現れている。


 上洲はカウンター裏で自分の酒を作り、倉九というと赤いジャムがたっぷり入ったサンドイッチを席の端で頬張っている。


 智絵里はアイスコーヒーを黎木に渡して横に座り、メニューにはない蜂蜜入り紅茶をちびちび舐めていた。


「んっ、んん、けほ……っ」


 急に咳き込み、苦しそうに智絵里は喉に手を当てる。


「おい大丈夫か。体調管理も仕事の内だぞ」


 黎木の質問に手をあげて答えつつ、その後も咳払いを続け、ドリンクで潤すことを繰り返した。


「だ、大丈夫です。ちょっと張り切りすぎたかな~。歌詞でも考えて気分入れ替えます」


 そう嘯き、トートバックから練習ノートを取り出して誤魔化した。何か問いただしたいように睨まれていたが、彼は口を噤んだようだった。


 黎木からの追求がないことにほっとしつつ、『ソロ以外で自己中にならない。ノリが後ろ気味』と智絵里は丁寧な字で残した。

 練習ノートを反対側から開くと英語の歌詞が連なっていて、こちらはメモのように乱雑に書きなぐられている。


 作詞も担当することになった智恵理は、唇の上にシャーペンを乗せて腕を組み、熟考する。

 歌詞をいくらか練ってみるが、他の客の会話が耳に入ってしまいどうにも集中が散る。仕方なくノートを閉じ、上手くいかない苛立たしさから雑にトートバックへしまった。ファスナーすら閉めるのが億劫だった。


 八つ当たりするようにドリンクをごくりと飲み、黎木の画面を盗み見る。


「そういえば、大会の運営から連絡きました?」


 黎木は首を横に振り、スマートフォンを取り出す。


「もう一回かけてみるか」

「ねぇねぇ、コレってなんですか?」


 黎木が使っているパソコンの見慣れないアイコンが気になり、智絵里は続けて質問した。


「画面を突くな。それはDAWソフトだ」

「だう?」

「楽曲編集ソフト」


 黎木は言いながら画面のカレンダーを確認する。


「そろそろ本選に向けてレコーディングを始めたいところだな」

「ほーぅ、レコ? 大会で物販でもすんの?」


 カウンター裏に居た上洲が酒を持って現れた。後ろから顔を寄せて画面をのぞき込む。


「物販もそうだし、名刺代わりに必要だ。おいあんまり近づくな、酒臭い。口を閉じろ」


 カウンターの端の席でガタ、とテーブルにぶつかる音がした。サンドイッチを片手に麻雀のアプリをしていた倉九が、這うように黎木の目の前まで近づく。

 掴みかからんばかりに目を向いて興奮していた。


「物販て、し、CD作って、売るってことですよね? 売り上げは、き、均等に四等分ですよね?」

「悪いが当面はバンドの活動資金だ。おいあんまり近づくな、汗臭い。口も拭け」


 サンドイッチにかぶりついて食べたせいで、倉九の口の周りは赤いジャムでベタベタになっていた。

 真っ赤になった口を見て「あはは! ゾンビみたい!」と智絵里は笑う。


「というか、私たちの音源CDに出来るんですね! 凄い!」

「金がないから一発撮りだがな」

「それでも全然凄……ぅ……」


 高揚して叫んだ智絵里はピタリと凍り付いた。喉仏をごくりと上げ、真剣な面持ちで背筋を伸ばす。途中で喋るのを止めた彼女へ、三人の視線が集まった。


「なんだ、どうした」

「おしっこしたい。ママ、トイレ」

「誰がママだ。早く行け」


 しっしっ、とやって黎木が会本部へ電話をかける。

 それを横目で見ながら、智絵里はぎこちない笑顔でトイレへ急ぎ、すぐに鍵を閉めて腰を丸めた。


「ごほっ……おぇっ……!」


 喉に直接爪を立てたような鋭い痛みが走る。

 トイレットペーパーを巻き取ろうとして落としてしまい、拾うために伸ばした手で口を覆う。大きな咳を繰り返し、その度に体を折り曲げた。指の間から赤い飛沫が床へ色を付ける。


 智絵里は文字通り息を呑んだ。空気と共に鉄の味が胃を染め、内容物が返ってきそうになり膝をつく。焼けるような感覚に耐え、落ち着いて何度か深呼吸をすると、程なくして咳は収まった。


 瞼をぎゅっと閉じ、涙で幕を張っていた視界を元に戻す。可憐な花を握りつぶしてしまったように、恐る恐る手を開いた。


 手中には血が咲いていた。痛みを和らげるために唾を飲み込むと、それが引き金になって咳を誘発する。呼吸を震わせながら静かに立ち上がり、再度溢れた涙を袖に吸わせる。


 申し訳程度に備え付けられている洗面台、その正面の鏡を見た。生きた獣へ齧りついたように口の周りが血だらけだった。


「あはは……ゾンビみたい」


 幸い服には付着していなかった。急いで頬の赤い部分を洗浄する。手の平で溜めた水で優しくうがいをすると、喉の奥にエラでもついているようで、すぐに吐きだした。


 トイレは薄明りで洗面台は焦げ茶色だが、血が混じっているのがわかる。

 床に落ちたトイレットペーパーを定位置に戻し、大量に巻き取って、丁寧に手と口を拭き取った。異変が隠せたか鏡でしつこく確認し、彼女は大きく深呼吸してトイレから出た。


 店の雰囲気は相変わらず賑やかだが、三人の周りは空気が沈んでいた。

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