第3話:石畳に響く足音

 ──光の粒が収束し、視界が開ける。そこは聖堂だった。

 高い天井から差し込む光が、石造りの床に淡く反射している。

 壁には古びたステンドグラスが並び、赤と青の光が揺らめいていた。

 ここは物語の舞台、ブリタルド王国の北部にあるスタート地点、アルカディア城の回廊にある聖堂だ。

 旧版で何度も訪れた場所。仲間と集まり、出発前に支度を整えた記憶が蘇る。

 懐かしさと同時に、胸の奥に冷たいものが走った。

 後ろを振り返ると、聖堂の奥にあるゲート「転移門」が光を放っていた。

 そこから次々とプレーヤーが現れてくる。

 金曜日の夜だ。人の数は多い。

 走り去る者もいれば、足音を響かせながら石畳を軽快に駆け抜けていく者もいる。

 その場から少し歩いて、転移門をじっと見上げる者もいた。光の粒が舞い散る門の前で、腕を組んで待つ者、背伸びをして誰かを探すようにきょろきょろと視線を動かす者、仲間と合流したのか笑いながら手を振る者──仕草の一つひとつが生々しく、まるで現実の街角で人々が待ち合わせをしている光景のようだった。

 以前プレイした時は、みんな、ただのゲームキャラクターでしかなかった。無表情ではなかったけれど、それはプレーヤーがボタンを押すことで決められたモーションを繰り返すだけのものだった。それがMMORPGの限界だった。

 だが今見ている景色は違う。肩をすくめる動き、髪をかき上げる仕草、息を整えるために胸を上下させる様子──そのすべてが現実の人間のように自然で、温度を持っていた。

「これがVRか……すごいな」

 直人は思わず呟いた。目の前の光景は、ただのゲーム画面ではなく、まるで現実の世界そのものだった。

 直人──いや、ベディヴィアは、ゆっくりと腕を動かしてみた。

 手のひらが、思った通りに開閉する。だが、足元の感覚が妙にふわふわしている。

 彼は、人混みのざわめきに眉をひそめた。

 ──知り合いがいないとも限らない。少し離れよう。

 彼は静かに聖堂を後にし、人の少ない回廊へと足を向ける。

 石畳の床に足音が響き、やがて広場の喧騒が遠ざかっていった。

 人影のない場所に辿り着くと、建物の窓ガラスを見つけ、自分の姿を映した。

 短い黒髪に切れ長の目。身長178センチのヒューマン族。かつての姿がそこにあった。ただ、身に着けている防具は、かつての白銀の鎧ではなく黒と銀を基調とした軽装の装備だった。

 ──なるほど。装備は引き継げないわけか。

 簡素な装備を確認する。現実と同じ肌触りに改めて衝撃を受ける。だが、腰のベルトを締め直そうとして、そこが動かないことを確認して、これはゲームであると少し安心した。

 ──ところで、メニュー画面はどうやったら開くんだ?

 視線を上に向けたり、手を振ったりしてみるが、何も反応しない。

 試しに小さくジャンプしてみる──

 ぴょん。

 何も起こらない。

 今度は膝を曲げてから、反動で跳ぶ。勢いが強く、思った以上に高く跳ねてしまい、着地時にバランスを崩した。

「っと──」

 思わず声が出た。すると、

「……初心者さんですか?」

 背後から声がした。振り返ると、金髪のポニーテールを揺らした少女が立っていた。

 白と青の僧衣に銀の装飾、背には細身の杖。

 その表情は穏やかで、どこか達観した雰囲気を漂わせている。

「まあ、初めてだ。VRは」

「ですよね。さっきから変な動きをしていましたから」

「……悪かったな」

「あ、ごめんなさい。失礼なことを言いました。すみません」

「いや。そんなに謝られることでは。こちらこそすまない」

 と直人は言うと、「ところで、メニューはどうやったら開くんだ? 教えてくれ」

「メニューですか? メニューは右手の甲にある紋章に視線を合わせて、手首を右にスナップすると出ますよ」

 直人は右手を見た。

 淡く光る紋章が手の甲に描かれている。

 言われた通りに手首を軽くスナップすると──

 タララリン。

 空中に、横長半透明のメニューウィンドウが展開した。

 「ステータス」「アイテム」「マップ」「設定」──整然と並ぶ項目が、まるで魔法のようだった。

「……すごいな」

「右手の一指し指をスライドさせてください。項目が動きます。そして、一指し指を倒すと、選択します。戻るときは中指を立ててから、倒してください」

「なるほど」

 試しに、ステータスを選択してみる。

 レベルは1。HPは1000。その他のスタータスはすべて10以下だった。所持金は1000G、レベルも所持金も引き継がれていなかった。装備欄のアイコンを選択してみる。

 武器欄に、旧版で見覚えのある“謎のアイテム”「錆びた剣」があった。

 ──まだあるのかよ。

 と直人は思った。

 旧版には、サブクエストが無数にあって、クリアできなければ、アイテムは処分できない。この「錆びた剣」も、どこかで手に入れたものだ。たしか元は「錆びた塊」で、鍛冶師に鍛造してもらったところ、この「錆びた剣」になったのだが、そこまでで終わってしまった。こういった捨てられない謎アイテムは、うかつに取得すると、アイテム欄がいっぱいになるため、サブクエストは、攻略サイトをチェックしてクリア可能かどうかを確認するのだ。

 他の装備はどうかと思ったが、特にない。安心してアクセサリー欄に行くと、

「──あ」

 “ナンバーズのマント”があった。

 彼は一瞬、画面を見つめたまま動かなかった。

「どうされましたか?」

 さっと画面を閉じる。

「旧版のアイテムが、少し残ってたみたいだ。このデータはコンバートだから」

「へえ、引き継ぎされてるんですね」

「……まあ、昔ちょっとだけやってたからな」

 直人はメニュー画面を閉じた。

「ありがとう。助かった」

「いいえ、どういたしまして。ところで、昔のデータを使ってまた始めたということは……あなたも、ゲームクリアの賞金が目当てなのですか?」

 ああ、そうだった。賞金──この世界のもう一つの現実。

 忘れかけていた言葉が、胸の奥で重く響いた。

「いや、違う。ちょっと今日、リアルの知り合いからイベントを手伝ってほしいと言われたんだ。あっ!──」

「どうされました!?」

「場所がどこだったか忘れた。この端末にも入れてない。しかたない、一度落ちるしかないか」

「ちょっと待ってください。どんなイベントですか?」

「月例イベントだそうだ。たしか、特別衣装が手に入るとか」

 彼女が、ああ、と小さくうなずいた。

「では、星見の庭園だと思います」

「そうそう、そんな名前だった」

 直人は思い出したように口にしたが、すぐに眉をひそめた。

「……でもよく考えたら、俺、レベル1なんだよな。戦力にはならないだろう。仲間の足を引っ張るだけかもしれない」

 その言葉に、彼女はふふっと小さく笑った。

「大丈夫ですよ。今日の月例イベントは、戦闘よりも参加すること自体が目的なんです。ペアで正装して入場すれば、特別衣装が配布されます。だから、レベルや戦力は関係ありません」

 彼女の声は穏やかで、どこか安心させる響きを持っていた。

「それに……初心者さんが一緒だと、むしろ周りの人も気を配ってくれます。困ったときは誰かが必ず助けてくれる。だから心配しなくていいんです」

 直人は少し肩の力を抜いた。

「そうか。ならよかった」

「もちろんです。むしろ、あなたがいてくれるからこそ意味があるんですよ」

 彼女はそう言って微笑んだ。


 二人は並んで歩き始めた。

 石畳を踏みしめながら、夜空に浮かぶ塔を目指す。

 街灯の光が石畳に反射し、遠くの広場からはプレーヤーたちの笑い声が響いてくる。

 そのざわめきの中で、二人の歩調は自然に揃っていた。

 途中、彼女がふと直人の服に目を留めた。

「あ、でも今日のイベントは確か、参加条件が『正装』だったから、その装備のままでは参加できないかもしれません」

「じゃあ、どうすれば」

「所持金は?」

「さっき見た。1000Gだった」

 彼女は、少しだけ考えてから微笑んだ。

「じゃあ、私が洋服代、出します。イベントに間に合わないと困りますし」

「いや、悪いだろう」

「今日だけなんですよね? だったら、今日くらいは甘えてください」

直人は、少しだけ口元を緩めた。

「わかった。ありがとう。必ず返す。俺のパートナーが」

 彼女が、ぷっと吹き出したので、二人は笑った。

 その笑いは、ほんの一瞬、現実の重さを忘れさせるものだった。

「ところで、私、あなたの名前をまだ聞いていませんでした。私はカレン・アシュフォード。ビショップです」

「……俺は──」

 直人は一瞬、言葉に詰まった。

 画面上部のHPバーの左側には、旧版から引き継がれたアカウント名が表示されている。

 ──ベディヴィア。

 Elysiumの名残。

 どうする? 正直に言うべきか──

 いや、止めておこう。彼女に嘘をつくのは気が引けるが、一応、念のためだ。

「ベディ……アン。戦士だ」

「ベディアン。とても素敵な名前ですね」

 直人は、彼女の純粋な反応に罪悪感を覚えた。

 胸の奥で、旧版の記憶が静かに疼く。

 嘘をついた自分を責める声が、心の奥で小さく響いていた。

「はい。じゃあ、防具屋に行きましょう。星見の庭園の手前に、いい店があります」

 二人は、夜の都市を歩きながら、防具屋へと向かった。

 街のざわめきの中で、直人の背中には、まだ誰も知らない“過去の名”と、誰にも見せていない“痕跡”が静かに揺れていた。

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