第四十九話 寒い夜の事


「うわあああ……はっ!? ゆ、夢か……」


 がばっ、と飛び起きたのは、薄暗いベッドの上。


 見慣れた、散らかった自分の部屋の風景を前に、私はふぅ、と安堵か落胆か区別のつかない溜息を吐いた。


「ふぅ……」


 カーテンを捲ると、外は灰色に色づき始めている頃だ。微かな朝の兆しと共に、シンと冷たい冷気が窓から伝わってきて、私はぶるりと体を震わせた。


「おー、さぶ、さぶ」


 肩をさすりつつ、布団の中に戻りたい欲求を堪えながら私はベッドから這い出す。途端、床から伝わってくる冷たさに辟易しながら、私はとりあえずトイレに向かった。


 現実の朝は、一人で寂しい。薬缶を温め、パンをトースターで焼く傍ら、SNSを通してニュースをチェックする。相も変わらず、真実か嘘かもわからない情報が飛び交う中、比較的信頼できる、と思っているフォロワーの意見を聞いて世の中の情勢を見る。


 テレビはゲーム専用になって久しく、そしてゲームも最近はしない。黒い鏡と化した画面の中には、ぬぼーっとした男の顔が映っている。


「情報の価値は高いのか低いのか……」


 フェイク塗れの情報に価値はないが、だからこそその中に混じっている真実は価値がある。


 ただの一市民がそんな事を考えても、どうしようもないが。


「夢のせいかな」


 あの世界でなら、私は一領主である。情報の真偽は大事な事で、判断をするにあたって情報が無くては話にならない。


 そうしてみると、現代というのは情報に溢れているようで、実際は目くらましをされて歩いているようなものなのかもしれない。


「やれやれ」


 ボヤいた所で、薬缶がぴぃーーっと音を立てた。火を止めて、インスタントコーヒーをお湯に溶かす。ちょうどいい所で、トースターがチン、と音を立てた。




 焼いただけのパンとコーヒーという朝食を済ませ、仕事に向かう。


 最近はめっきり寒くなってきた。コートの前を合わせて道を行くと、通りすがる人々も皆同じような姿だ。


 誰もが足早に、一秒でも早くこの場を通り過ぎたいと去っていく。信号を待つ中年サラリーマンが、苛々と足踏みしているのが見えた。


 夢の世界、馬車の旅を思い出す。


 何もかもが違う世界だから一概には言えなかったが、あの旅をとろいとか遅いとか思う事はなかった。それはなぜか?


 侍女と共に楽しく過ごしていたからか。自分で自分の仕事を決められる立場だったからか。それとも時間の流れが違うのか?


 他愛もない事を考えながら、私は信号待ちをする人々の後ろに一歩下がり、空を見上げた。


 宙は、明るい灰色に曇っている。雪が降るのも、そう遠くはなさそうだ。




 そして、夜が来る。


 仕事を終えた頃には、世界はすっかり闇の帳に閉ざされていた。白い息を吐き、手を擦り合わせながら夜の道を行く。


 幸いにして、仕事はスムーズに終わった。いや、終わらせたというか。少しだけ仕事のやり方を変えてみた所、それがカチリと嵌ったのだ。周りは何も変わらないが、自分が変わる事はいくらでもできる。


 ただ、別に周りに合わせたいという訳ではない。異常者どもは、こちらを都合よく使い潰す事しか考えていない。生産性とか、効率とか、将来性とか頭に根本的にないのだ。あるのは、この瞬間瞬間をいかに自分に都合よく乗り切るか、それだけ。


 そこをはき違えると、自分の人生を使い潰される事になってしまう。現代社会に、報恩という概念はない。他人の人生を平気でお終いにできる異常者だけが出世して、そんな奴らしか会社の運営に関われないから、世の中も会社もいつまでたってもまともにはならない。


 何でそんなのがまかり通るのか。


 冷笑主義とか、効率主義とかは、一周まわって馬鹿の考えだ。世の中は誰もが少しずつ損をする事でうまく回るようにできている。その中で自分だけが必要なコストを払わずに得しようだなんて、巡り巡って自分の首を締めるだけというのがどうしてわからないんだろう。


 そんな事、私のような低学歴の馬鹿でも、何十年も生きていれば自然と理解できる事だろうに。


 夢の中の御飯事とはいえ、領主という立場に立たされたからこそよくわかる。仮に私が領主として、あの異常者どものような振舞をしたら数年単位はともかく、十年単位でみたらとてもじゃないが領地経営など成り立たない。


 何事も辛抱強く、波風立たせず、穏やかに終わらせるのがいいのだ。相手の弱みに付け込んでぶっ叩くのはその場では気持ちいいかもしれないが、将来にわたって禍根を残す。人は恩は忘れるが、恨みは忘れない生き物だ。私のように。


 そんな事を考えながら、赤信号で足を止める。


 そういえば、今日も朝、信号にひっかかったな。今日はやたらと脚が止められる日だ。


 ごぉん、ぶぉん、と通り過ぎていく車の向こうに、反対側で待つ人が見える。


 やぼったい長い黒髪に、表情の見えない丸眼鏡。首に巻いたマフラーに顔を半分埋めているので、その表情もよく見えない。


 近くの大学生だろうか。こんな夜遅くに、食事の帰りか何かかな。しかし、地味な佇まいだ。


 しかしお洒落に興味がない、という訳ではないだろう。着ているコートとかは割かしセンスがよい。なんていうか、敢えて地味な姿に偽装しているイメージがある。スタイルだって、別に悪くない。


 というか、かなりスタイルいいんじゃないか、これ。


 夢の館で宮子ちゃんや雫ちゃんといった、方向性の違うナイスバディを散々に見ている私から見ても、彼女のボディラインは整って見える。


 なんていうか、宮子ちゃんにそっくりだな。眼鏡をはずして髪を整えれば、若い男が放っておかないだろうに。


「……いかんいかん」


 そこまで考えて私は軽く首を振った。まさか通りすがりの見知らぬ女子大生相手にそんな事を考えてるなんて、どうかしてしまったか。


 まさか欲求不満? それこそまさかだ、夢の中でどれだけ美味しい思いをしていると思っている。いやまあ夢の話ではあるけど、夢と現実にはまた密接な関係がある訳であってな……。


 気まずさを覚えて自己弁護を図っていると、信号がぱっと切り替わった。


 青だ。


 目に優しい光に、私は足早で信号を渡る。それに対し、女子大生もつかつかとこちらに向かって歩いてくる。


 さっきの事があって、なんとなく彼女を意識してしまった私は、すれ違うように少し体をずらす。私と彼女、それぞれ横断歩道の反対側を歩きながら、少しずつ距離が近づく。


 そして、交差する瞬間。


 少女は、私の事など意にも止めていない。まるで誰も見えていないように、俯いたまま足早にすれ違おうとして……。


「あっ」


 それがいけなかったのだろう。アスファルトの罅割れに、足を取られる。


 倒れ込むようにこけた少女に、私は慌てて駆け寄った。


「大丈夫ですか?!」


「は、はい。どうも……あっ」


 助け起こそうと手を差し出す私に、それは必要ないと言わんばかりに自力で立ち上がった女性だったが、その拍子に鞄の中身が道路にぶちまけられてしまった。


 転がるボールペンや手帳、シャープペンシル。


 私は素早く周囲を見渡すとしゃがみ込み、急いでそれを拾い集めた。


「あ、その……」


「車が来ます、急いで拾ってここを離れましょう」


「は、はい」


 女性もこのままでは不味いと理解したのか、しゃがみ込んで二人で散らばった荷物を拾い集める。


 と、視界に明るいライトが差し込んできた。どうやら、左折するつもりの車がやってきてしまったらしい。


 慌てて二人で荷物を手にしたままその場を離れる。直後、車がこれ見よがしにギリギリ近くを通り過ぎていき、私はふぅ、と息を吐いた。


「危なかった。全く、見れば状況は分かるだろうに、少し待ってくれればいいのに」


「…………」


「拾い損ねた荷物は……ないかな。これで全部か」


 一応道路に残っている物はないか目を向けるが、それらしきものはない。


 それにしても危なかった。あの車の感じだと、散らばっている荷物を踏んでいくのもなんとも思わないだろう。手の中の可愛らしいデザインの文房具がバキバキに踏み砕かれるのを想像するのは、あまり良い気分ではない。


「はい、これ、どうぞ。……どうかしました? 何か?」


「い、いえ」


 荷物を差し出すが、女性は何やらぼーっと眼鏡の向こうから私を見ていて、要領を得ない。催促されてようやく荷物を受け取り、カバンにしまい始めるのを見て、私もそろそろ、今の状況が理解できてきた。


「……あっ」


 しまった。お節介だったか。あるいは要らぬ地雷を踏んだか。


「あっ、いや、その。本当に他意はなくてですね。その、ボールペンとかがアスファルトで傷ついてたりしても、それはわざとじゃなくて。ここを通りかかったのも偶然で……」


 おろおろと言い訳をする自分の口調に自分でゲンナリする。まるで自分に浅ましい考えがあったように聞こえるではないか。


 今の世の中、助けた所で恩に思われるとは限らない。なんだったら逆切れして被害請求とかされちゃう事だって珍しくはない。男と女であればなおさらだ。


 私は早速、要らぬ気を使った事を後悔し始めていた。


 だけども。


「……あの。ありがとうございました……」


「……およ?」


「その、失礼な態度を最初とってしまって、すいません。助けてもらって、嬉しかったです」


 素直に頭を下げる女性。どうやら、たまには、良い事をした見返りもあったようだ。


「い、いえいえ。困った時はお互い様です。それでは、私はこの辺で……」


「あ、ちょ、ちょっと待ってください」


 え、やっぱ何かあんの!?


 思わず身構える私。それに対し、女性は顔を上げた拍子にずれた眼鏡を直す事もなく、煌めく瞳でまっすぐ私を見つめていた。


「す、す、少し。……お茶でも、どうですか?

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