祟りの王女 ──怨霊三百を従える少女──
桃神かぐら
第1話 影喰(かげはみ)──祟りの王女、初めて走る
──その日、わたしの影は、食べられかけていた。
アスファルトに落ちた輪郭が、じわりと黒く濃くなる。
夕暮れのオレンジを呑み込むみたいに、靴の形から足首へ、じわじわと滲んでいく。
(……あ、これ、わたしの方が速い)
思ったときにはもう、膝が笑っていた。
足は止まらない。止まりたくても止まらない。ただの高校生の脚力で、駅前ロータリーを全力疾走している。
視線の端で、誰かの影が千切れる。
そこから伸びた黒い裂け目に、白い目玉だけが浮かんで、こちらを見た。
──
今日の“霊災”の名前だ。
「……あと十秒、持つかどうか、だなぁ」
『姫、減らず口を叩く余裕があるか?』
耳の奥で、男の笑い声が弾む。
地鳴りのような声。戦場の匂いがするのに、妙に懐かしい。
(あるよ。あるけど、足が……)
肺が焼ける。視界の端で、黒い影がぬるりと伸びてくる。
ビルの壁、街路樹、信号機。夕陽に伸びる影という影が、一斉にこちらへ首をもたげた。
地面に落ちた自分の影が、するりと削れる。
踵から、色が剥がされていく。
「っ──!」
足がもつれた。体重が前に投げ出される。
その瞬間、地面を蹴る音が、わたしの代わりに響いた。
『下がれ、依凛』
影から躍り出た黒い騎馬の群れが、駅前ロータリーを駆け抜ける。
街灯の光を切り裂きながら、真っ黒な馬と武者が一斉に槍を構えた。
平将門。
わたしの守護霊のひとり。日本史の教科書の余白を全部埋めてしまいそうな、関東の大怨霊。
その影の軍勢が、わたしの足元から立ち上がり、迫る“影喰”を一瞬にして踏み潰した。
雷のような蹄の音と、黒い槍のきらめき。その全部が、わたし一人を庇うように、影喰の前に立ちはだかる。
──時間を、少しだけ巻き戻そう。
*
午前中の数学の授業は、いつもより静かだった。
教室の窓ガラスに、春の雲が薄く映っている。
黒板の前で先生が二次関数を説明していて、前列の真面目な男子がノートを取っていて、隣の席では友達があくびを噛み殺している。
ごく普通の、都立高校の二年生の教室。
ここだけ切り取れば、たぶん、わたしも“普通の女子高生”に見えるのだろう。
(……黒いの、多いな)
ただ一つ、普通じゃないのは。
前の席の子の肩の上に、真っ黒な手が乗っているのが見えたり。
教室の隅に、首の曲がった女の人が体育座りしていたり。
天井の蛍光灯一本一本に、小さな顔がびっしり張りついていたりするところだ。
今日は、珍しく静かな方だった。
黒板の上で、古い男の人の顔が、授業にあわせて頷いている。
『うむ、その解法でも良いな。だが、もっと美しい式変形があるぞ、依凛君』
(先生の頭の上でチラチラしないで、菅原さん)
心の中で返すと、黒板の上の顔──菅原道真が、少しだけ口元を緩めた。
『失敬。つい癖でな』
腰が重い。体がだるい。
(……今日は、生理二日目。こういう日に限って、霊の気配がよく見えるんだから)
踏ん張りがきかない身体に、余計な“重さ”だけが増えていく。
霊が寄ってくるのは、偶然じゃない。
日本の霊性は昔から歪んでいて、
わたしの家系の“依り代体質”は、その歪みを真っ先に吸い上げてしまう。
ネットの悪意、恐怖、祟りの噂──
形を持てない負の気配ほど、影に落ち、わたしを見つける。
わたし、
ただの地縛霊とか、たまに出る女の人とか、そういうのならまだ可愛い方だ。
わたしの後ろには、教科書の索引が足りなくなるくらい、大量の「名前持ち」がついている。
崇徳院。菅原道真。平将門。
織田信長、明智光秀、石田三成、源義経、今川義元、滝夜叉姫、玉藻前──。
日本史の「祟り」「怨霊」「悲劇」「怪異」の見出しになりそうな人たちが、十や二十じゃきかない数で、日替わりでわたしの周りをうろついている。
(……増えている)
ノートの余白に、こっそり数字だけを書き足す。
はじめは七十。
去年は百五十。
今年に入ってからは、数えるたびに違う。
二百──二百五十──たぶん、もうすぐ三百に届きそうだ。
(まるで、“この国のどこかが軋むたび”に、増えてるみたい)
誰も知らない。
怨霊の数が増えるということは、
“生きた人間の不安や怒りが増えている”ということだから。
(強いのは、わたしじゃない。
“後ろ”が強いだけ──そんな当たり前のことが、たまにひどく苦くなる)
強く念じられた名前ほど、具現化しやすい。
祟りも名声も、恐怖も哀れみも──
全部、時代の“信じ方”で形が変わる。
それが、わたしの周りに集まる理由だ。
そして、ほとんど全員が、わたしを守ろうとしている。
理不尽だと思う。
人間側から見れば、大迷惑だと思う。
(……でも、慣れると、案外、賑やかでいいのかもしれない)
チャイムが鳴って、昼休みになった。
友達に誘われてパンを買いに行き、おしゃべりして、どうでもいい動画を見て笑う。
この賑やかな昼休みのほうが、幻だ。
怨霊に囲まれて生きてきたわたしにとって、
“何も起きない日常”こそが一番、祟りみたいに尊い。
わたしは、出来る限り「普通」を保つようにしている。
霊が見えることも、“あの人たち”がついていることも、誰にも言わない。
その間ずっと、わたしの視界の端では、誰かの影が揺れたり、古い人たちが黙って見守っていたりしたけれど──。
「依凛、今日さ、駅前のクレープ行かない? 新作出てるらしいよ」
「え、今日? ……うん、いいけど」
(……こうして笑っていられる時間だけは、絶対に壊したくない)
紙パックの紅茶をストローでつつきながら、適当に相槌を打つ。
わたしは、出来る限り「普通」を保つようにしている。
霊が見えることも、“あの人たち”がついていることも、誰にも言わない。
言ったところで、信じてもらえないだろうし。
もし信じられてしまったら──余計に、守るものが増えてしまうから。
*
放課後。駅までの道は、少しだけ湿っていた。
昼過ぎに降った通り雨のせいで、アスファルトが暗く濡れている。
信号待ちで立ち止まると、足元に伸びた影が、雨水で滲んだみたいに揺れた。
(……嫌な揺れ方)
のどの奥が、きゅっと冷たくなる。
反射的に、左手の袖の内側を撫でた。
そこには、細長い和紙の札がいくつも仕込んである。
術式を刻んだ、陰陽師の護符。
わたしは、神薙依凛。
安倍晴明の血筋を薄く引く、ただの女子高生であり──
日本中の怨霊や呪いや妖怪に「好かれやすい体質」の、ややこしい霊媒。
『胸が鳴るねぇ、依凛ちゃん』
背後、首筋に温かい気配が触れる。
甘い女の声が、耳たぶを撫でるように囁いた。
(玉藻さん……今日はおとなしくしてて)
『嫌よ? だって、面白そうな匂いがするもの』
九つの尾を持つ最凶の妖怪、玉藻前。
今は、透けるような金髪の美女の姿で、わたしの影に腰掛けている。
信号が青に変わる。
人の波が横断歩道を渡り始める。
その瞬間──視界の端で、あり得ない“沈み方”をする影があった。
駅前ロータリーの真ん中で、スーツ姿のサラリーマンが立ち止まる。
彼の足元に落ちた影が、すとん、と地面に沈んだのだ。
影の輪郭が、まるで水たまりに足を突っ込んだみたいに、ぐにゃりと歪む。
(……来た)
歓声や話し声の混ざる夕方の雑踏の中で、わたしだけが足を止める。
他の人たちは誰も、気づかない。
サラリーマン本人でさえ、足元を見下ろさない。
彼の影から、黒い“口”が開いた。
影喰は“人の影を喰う”のではない。
影を入口にして、“生者の存在そのもの”を削る。
影に刻まれた形、記憶、時間──
喰われた部分は、生きていた証ごと消えてしまう。
アスファルトの黒よりも、はるかに濃い黒。
そこに、目だけが浮かぶ。真っ白な、感情の欠片もない球体。
「──影喰」
わたしが名を呟いたときには、もう遅かった。
男の影が、靴の形からごそりと削り取られ、脛のあたりまで喰われていた。
本人は、その場で膝から崩れ落ちる。
「危ない!」
近くにいた女性が手を伸ばす。
彼女の影も、ぎょろりと目を向けられる。
ぞわ、と全身の鳥肌が立った。
『行け、依凛』
早良親王の声が、静かに胸の内側を震わせる。
穏やかな、しかし決して逆らえない響き。
『君の足では間に合わぬ。──だからこそ、我らがいる』
(知ってる。けど、最初くらい自分で走らせてよ)
わたしは鞄を投げ捨てて走り出した。
自分の足は遅い。
体育のシャトルランでは、いつも真ん中より少し下。
でも、走るしかない。
本当に、身体能力だけは普通以下だ。
人より霊を相手にしてきたせいで、体育の授業にまともに参加したことも少ない。
太ももが張る。肺が潰れそう。心臓だけが、やけに早くてうるさい。
影喰の“目”が、こちらを向く。
黒い裂け目が、笑ったように歪む。
地面から伸びた影が、わたしの足首を狙って伸びた。
踏み込みが、少し遅れた。
指先が、膝が、悲鳴を上げる。
視界の隅で、女の子が悲鳴を上げた。
転んだサラリーマンに駆け寄った女子高生の影に、“白い目”がかぶさる。
(間に合わない──)
思った瞬間。
『遅いぞ、姫!』
足元から、地響きがした。
わたしの影が破裂し、黒い騎馬の群れが駅前ロータリーのど真ん中に噴き上がる。
鎧武者たちの叫びと蹄の音が、夕暮れの空気を裂いた。
平将門の軍勢だ。
『姫が倒れたら、この国の地図が変わるぞ!』
将門の怒鳴り声とともに、伸びてきた影の触手を、黒い槍が次々と貫いていく。
影喰の“口”が、苦悶するようにうねった。
その後ろで、ふっと空気が静まる。
『依凛君、座標は取った。いつでも撃てるよ』
黒板の上で見ていたはずの学問の神が、今度は電柱の影から顔を出していた。
菅原道真。額に走る青い稲光が眩しい。
『君の式は美しい。……だからこそ、乱させはしない』
(ああもう、ほんと……)
「──仕方ないなぁ」
息を一つ吐く。
袖の中から、札を一本抜いた。
指先に、淡い霊光が集まる。
息を整え、口の中で式を結ぶ。
「五行・雷ノ式──」
駅前ロータリーの空が、ぐらりと傾いたような気配がした。
高層ビルのガラス窓に映る雲が、一瞬だけ反転する。
風が止まり、音が遠のく。
札が、紙のはずなのに、ずしりと重くなった。
わたしは札を握りしめ、足元の黒い“口”を睨みつける。
「──
札を地面に叩きつけた瞬間。
雷鳴が、地面から咲いた。
ドン、と聞こえたかと思うと、世界の色が全部抜け落ちた。
時間が、わたしの指先で固まる。
雷光が、花弁のような形で四方へ広がる。
影喰の黒が、その中心で焼き抜かれる。
──その一瞬だけ、世界の中心に、わたし一人だけが立っていた。
音が追いつくまで、視界は真っ白だった。
路面に刻まれた、細い光の花の模様。
そこから立ち上る焦げた匂い。
影喰の“目”が、ひび割れる。
足元をふと見る。
雷光の余韻の中で、わたしの影の下から、数えきれない手が伸びていた。
わたしの足首、ふくらはぎ、膝の裏──ひとつ残らず、“わたしだけを支えるように”。
その手のすべてに名前があり、物語があり、死があった。
その重さを背負って立つだけで、足が震える。
(強いのはやっぱり、わたしじゃなくて)
自嘲しかけたとき。
雷光の中から、白い手がそっと伸びた。
若い男の手。触れれば切れそうなほど、細くて繊細な指。
明智光秀が、影の裂け目に指を差し入れた。
『人を守るための判断なら、私が背負おう』
静かな声。
指先から、淡い桔梗色の光が零れる。
ひび割れた“目”が、音もなく砕け散った。
影喰は、消えた。
『姫の足が震えている。抱えて帰るぞ』(将門)
『ダメだよ将門。依凛君はこういう時、自分で立とうとするからね』(道真)
『……しかし、倒れたら我らが皆殺しに動くことになる』(光秀)
(ほんとにやめて……)
*
「……何、今の……?」
「雷? 落雷? え、空、晴れてんだけど」
周囲のざわめきが、一気に現実に戻ってくる。
震える声。スマホのシャッター音。誰かが「救急車!」と叫んでいる。
わたしは、少しだけ遅れて膝をついた。
自分の足が、自分のものじゃないみたいに震えている。
雷の反動で神経が焼かれたような感覚。肺が、まだ熱い。
『よくやった、依凛』
背後で、早良親王の声がする。
振り向かなくてもわかる。
わたしの背中に、柔らかな手がそっと触れた。
冷たいのに、安心する温度。
『君の選んだ威力で、この程度の被害なら、許容範囲だ。……誰も死んでいない』
(……うん)
わたしは、影の中に沈んだまま動けないサラリーマンに視線をやる。
影は戻っている。
彼の足元に、妙な歪みはもうなかった。
ただ、彼の胸のあたりに、薄い霊的なもやが残っている。
これはあとで、きちんと祓わなきゃいけないやつだ。
『後処理は、庁が来る』
別の声がした。
穏やかで、ややかすれた男の声。
顔を上げると、ロータリーの向こう側に、黒い車が数台停まっていた。
霊災庁には“魂権保護”という古い規定がある。
人も霊も、存在そのものを勝手に利用してはならない──
本来なら、わたしの力もその対象だ。
パトカーではない。もっと、無言の威圧感のある車列。
ドアが開き、スーツ姿の男女がぞろぞろと降りてくる。
彼らの胸ポケットには、同じバッジが光っていた。
──霊災庁。
この国で、呪い・怨霊・妖怪・霊災を扱う、内閣総理大臣直轄の機関。
その中から、見覚えのある人が歩いてきた。
「神薙依凛!」
聞き慣れた、少し低めの声。
振り向くと、スーツの上着を着ていないシャツ姿の男が、息を切らして走ってきた。
わたしの“付き添い”みたいな人だ。
「大丈夫か。どこか、やられてないか」
「……足が、ちょっと、ビリビリするだけ」
「その“だけ”が怖いんだよ、お前の場合」
槻城さんは、わたしの肩を支えながら、素早く周囲を見渡した。
将門の影の軍勢は、もう消えている。
菅原も、光秀も、玉藻も、わたしの後ろで気配を沈めていた。
彼らが本気で姿を見せたら──庁の人たちが腰を抜かす。
黒いスーツの集団の中から、一人の女性が近づいてきた。
短く切った黒髪に、鋭い目。
霊災庁祓魔特務隊・隊長、
「影喰の残滓はほぼ無し。周囲の霊圧も正常。……やっぱり、神薙さんがやったのね」
鳴海さんはわたしを見下ろし、わざとらしく大きなため息をついた。
「現場に先に着いたのは、ウチじゃなくて“そっち”ってわけか。ほんと、あんたは庁の仕事を減らしてくれる」
「減らしてるんなら、いいことじゃないですか」
「そういう問題じゃないのよ、これは」
鳴海さんの視線は、優しさと苛立ちが半々だった。
わたしが霊災に関わるたびに、庁は出動する。
わたしが霊災を抑えすぎても、庁は困る。
わたしが霊災に巻き込まれて傷ついても、庁は困る。
だから、彼らは常に板挟みだ。
「……また、『使いすぎだ』って怒られる?」
「怒るのは、庁長官じゃなくて……」
鳴海さんはそこで言葉を飲み込んだ。
代わりに、別方向から視線を感じた。
黒いスーツの列の、少し後ろ。
ネクタイを緩めもせず、ただ冷静に現場を見ている男が、一人。
霊災庁研究局長、
白い顔。感情の見えない目。
彼は、わたしと目が合っても、一切表情を変えなかった。
ただ、薄く笑ったように見えた。
その笑みは、怪我人を見る医者のものではなく──
壊れた玩具をどう修理しようか考える技術者の目だった。
まるで、わたしの“部位”を順番に評価しているようで、背筋が凍る。
彼の視線には、善悪も恐怖もなかった。
ただ“機能するかどうか”だけを測る、無機質な技術者の目だけがあった。
(……嫌い)
心の中で即座にラベルを貼る。
黒羽さんは、わたしを「サンプル」と呼ぶ人だ。
わたしの後ろの“彼ら”の力を、分解して、数値化して、兵器にしたがっている人だ。
彼の背後で、将門の霊圧がぐっと跳ねた。
『あの男、気に入らぬ。今ここで──』
(知ってるから、黙ってて)
ここで本気で怒られたら、駅前ロータリーが戦場になる。
黒羽悠真は、わたしを“人間”として見ていない。
彼の瞳には、
『惜しいな、この素材。もっと性能が出るはずだ』
とでも書いてあるようだった。
その目は、祟りよりもよほど恐ろしい。
わたしは、足元の影を踏みしめて息をついた。
*
──その夜。首相官邸。
「……影喰、ね」
書類を閉じる音が、静かな執務室に落ちた。
氷室宗一郎、内閣総理大臣。
霊災対策特例内閣の長。
彼の前の机には、霊災庁からの報告書が積まれている。
「神薙依凛が単独で初期鎮圧。被害は軽傷数名、直接死者ゼロ。……相変わらず、彼女はよくやってくれている」
デスクの向こう側に立つ、鷺沼長官が小さく頷いた。
「総理。やはり、神薙さんの前線投入は──」
「不用意にはしない。もう決めている」
氷室は、窓の外に視線を向けた。
夜の東京。高層ビルの明かりが乱反射している。
「神薙依凛は、兵器ではない。
……彼女の意思を無視して使えば、我々はまず間違いなく全員、死ぬ」
口調は淡々としているのに、その言葉には一切の冗談がなかった。
「三大怨霊。戦国武将。妖怪。七十名以上の“名前持ち”が彼女の背後にいる。
彼女が泣けば、国土が揺れる。怒れば、政は燃える。絶望すれば──この国は、終わる」
鷺沼長官が、息を呑む気配を見せる。
「だからこそ、彼女を“戦力”として見る者は、必ず排除する。」
執務室の空気が、わずかに冷たくなる。
「神薙依凛を利用する政権があれば、
私は総理ではなく、人としてそれを潰す。」
誰もいないはずの室内の片隅で、白い影がふっと揺れた。
『……よく理解しているではないか、人の長よ』
誰にも聞こえない声で、崇徳院の幽影が笑う。
氷室宗一郎には霊感はない。
この声も、この気配も、感じることはできない。
それでも、彼は机の上の写真に視線を落とした。
霊災庁の身分証に写る、神薙依凛の顔。
制服姿で、少しだけ困ったように笑っている。
「……たとえ国が二つに割れようと、
利用派がどれほど暴れようと、
私は神薙依凛の味方でいる。
この国の総理としてではなく──
一人の大人として、だ。」
窓の外で、遠くに雷が光った。
霊か、ただの気象か。
それは、誰にも分からない。
*
膝に貼った湿布が、じんわり冷たかった。
自室のベッドに座って、制服から部屋着に着替えて、ようやく息をつく。
天井を見上げると、そこにも誰かがいる。
畳の部屋の天井の木目に溶け込むように、年配の男の人が横になっていた。
早良親王。静かに、わたしを見下ろしている。
『痛むか、依凛』
「まぁ、ほどほどに。いつものことだし」
『いつもの、で済ませるべきではないのだがね』
苦笑混じりの声。
玉藻が、わたしの枕元で尻尾を丸めて欠伸をした。
『でも、今日は上出来だったじゃない。
庁が来る前に、ちゃんと仕留めたんだもの』
「庁が来る前に、っていう考え方はやめてよ……」
わたしは枕に顔を埋めた。
今日も誰かが、わたしを守ってくれた。
今日もわたしは、誰かの影を救った。
それでも、胸のどこかで、ずっと小さな違和感が燻っている。
──わたしを守ってくれるのは、いつだって“人間じゃない”ほうだ。
友達もいる。家族もいる。
でも、本当にわたしの命を支えているのは、天井の上の人であり、枕元の狐であり、影の中の軍勢だ。
(……不公平だよね)
わたしが少しでも間違えれば。
誰かが彼らを“兵器”として扱おうとしたら。
この国は、きっと、簡単に壊れる。
(ほんとは、怖い)
枕に顔を押し付けたまま、目だけを閉じる。
(わたしを守るために、誰かがまた死ぬかもしれない未来が。
だから、“強く見えるほう”を選んでいるだけなんだ)
息だけで笑う。
「ねぇ、みんな」
天井、床下、枕元、窓の外。
部屋のあらゆる方向から、「ん?」「なんだ?」「どうした、姫?」と返事が返ってくる。
「わたしがさ」
ひとつ息を吸って、言葉を選ぶ。
「……もし、今よりも、もうちょっとだけ、間違えたら。
そのときはさ、ちゃんと止めてね」
一瞬だけ、部屋が静かになった。
次の瞬間、喧嘩腰の声が重なる。
『当たり前だ!』(将門)
『君の誤算は、我々が補う』(三成)
『依凛君が自分を責めるなら、私は全力で否定するよ』(道真)
『そなたが間違うなどと思うこと自体が間違いだ』(崇徳)
玉藻がくすくす笑いながら、わたしの髪を撫でる。
『間違えたって、いいのよ。
そのたびに世界が揺れるの、わりと楽しいもの』
「それは、やめようね?」
笑いながら目を閉じる。
祟りの王女。
霊災庁の特例案件。
内閣総理大臣直轄、国家最高機密。
世間がどう呼ぼうと、わたしはただ──少し足の遅い女子高生だ。
ただ一つだけ、確かなことがある。
このわたしを本気で傷つけようとした瞬間に。
日本という国は、祟りと共に終わる。
ただ“普通でいたい”と願うだけで、世界が揺れる。
そんな女子高生が、わたしだ。
怨霊たちのさざめきの中で眠りに落ちる。
明日もまた、誰かの影が揺れる。
そしてまた、わたしは走る。
守られながら。守りながら。
──祟りの王女として。
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