第21話 夜会

「ああ、エリシアが可愛すぎて辛い。例えレオンだろうと、他の男の目に映したくない……」


 謁見を待つ控室で、ハルトヴィヒはうなだれていた。


(これで何度目だろう……)


 エリシアは静かにため息を吐いた。彼はずっとこの調子で、感情を持て余すようにして苦悩している。


 今日は王太子主催の夜会当日。

 エリシアは、あの日――ハルトヴィヒとのデートで仕立てたドレスを身に纏っていた。

 夜の帳を思わせる深い紺のベルベット地に、金糸で緻密な模様の刺繍が施されている。まるで星を抱いた夜空のように輝き、そして彼の髪のように美しかった。

 白銀の髪はやわらかなウェーブを描き、うなじのあたりでふんわりとまとめ上げられている。


 エリシアは鏡で見たとき、思わず息を呑んだ。

 自分ではないような気がして――どこか現実味がなかったのだ。

 仕上げてくれたチェルシーは、誇らしげに胸を張っていたが、鼻からつーっと血が垂れていた。

 

 支度を終え、ハルトヴィヒにこの姿を見せた瞬間――。

 ハルトヴィヒは砂糖菓子のような甘い視線と言葉で、目を細めて褒めちぎった。

 

「なんて、美しいんだ……。いや、エリシアはもともと美しいが、今日はひときわ美しい。こんなにも優美で可憐な人は他にいないだろう。ああ、僕の婚約者だと自慢して回りたい気持ちもあるが、こんなにも愛らしい君を見つけられてしまったら、誰かに攫われてしまうかもしれない」


 顔がみるみるうちに熱を帯びていく。

 本当に砂糖菓子だったなら、とっくに溶けていたかもしれない。

 とくとくと心臓が高鳴り、心がざわめいて落ち着かなかったが――――。

 ずっとこの調子のハルトヴィヒに呆れ始めていた。


「変なことを仰らないでください」

「だって、あの日作ったドレスがこんなにも似合うなんて……! 想像以上だ。まるで夜の女神のようだ」

「……言いすぎです」


 できるだけ冷静な声を保ったつもりだったが、指先に熱がにじむ。

 視線を合わせれば、何かが崩れてしまいそうで、思わずそっぽを向いた。


 だが――そんな事を言うハルトヴィヒもまた、いつも以上に魅力に溢れていた。


 ハルトヴィヒもまた、エリシアと同じ紺地のベルベットの上着を纏っていた。その襟元や袖口、胸元には細やかな銀糸の刺繍が施されおり、装飾は控えめながらも威厳を漂わせている。光の加減で銀糸がきらめき、。


 ハルトヴィヒもエリシアと同じ紺地のベルベットの上着を纏い、その襟元や袖口、胸元には細やかな銀糸の刺繍が施されていた。

 装飾は控えめながらも威厳を漂わせており、光の加減で銀糸がきらめいている。

 エリシアの金の刺繍と、ハルトヴィヒの銀の刺繍。

 それはまるで、お互いの色を纏うように仕立てられていた。


 ハルトヴィヒの登場に、ほんの一瞬、空気が張り詰めたように感じたのを覚えている。

 会場に入った瞬間から思っていた。やはり彼は、老若男女問わず視線を攫ってしまう。

 しかも、それはただの興味や礼儀ではない――熱のこもった視線だ。


 だからこそ、言いたくなる。

 その視線はエリシアに向けられたものではなく、ハルトヴィヒに向けられたものだと。

 

「やっぱ帰ろう。こんな姿、僕以外の目に入れてほしくない」

「誰も私なんて見ていません。それにもう呼ばれました」


 ちょうどそのとき、謁見の順番が告げられた。

 エリシアは立ち上がり、軽く裾を整える。


「そうだ、レオンに目隠しを――」

「…………」


 珍しく往生際の悪いハルトヴィヒに、エリシアは思わず冷ややかな視線を向けてしまった。














「やあ、ハルト。よく来てくれたね」

「ご無沙汰しております、殿下」


 謁見の間に入室したハルトヴィヒは、慇懃深く頭を下げる。エリシアもハルトヴィヒに倣って頭を下げた。

 イベルタ王国の王太子――レオナルド・ルイス・イベルタは、笑顔で迎え入れた。

 レオナルドは控えめに手を挙げると、側近を部屋の外に促した。


「ほら、下がらせたから、いつも通りにしてくれて構わないよ」

「……じゃあ、帰っていいだろうか?」

「駄目だ。紹介してくれ」


 遠慮なく率直に言うハルトヴィヒの言葉を、にっこりと笑みを浮かべて一蹴する。


「こちらはエリシア・リヴェール嬢。リヴェール伯爵のご令嬢で、僕の婚約者だ」

「……お初にお目にかかります。エリシア・リヴェールと申します」


 ”婚約者”の言葉にわずかに心が揺れたが、エリシアは静かに頭を下げた。


 ハルトヴィヒとは再従兄弟にあたると聞いていたが、その美しい金色の髪を見れば一目瞭然だった。

 後ろで丁寧に撫でつけられたその髪は、まるで光を宿しているかのように輝いている。


「やあ、エリシア。会いたかったよ。エドから君の話は聞いていたのだけど、会ったことはなかったからね」


 まさか王太子から兄の名前が出るとは思わず、しかも名前ではなく愛称で呼ばれているなんて、エリシアは想像にも及ばなかった。心のなかで驚きが広がる。


「ちょっと待って。僕はエドからエリシアの話なんて、ほとんど聞いたことないけど?」

「そりゃあ、俺は”無害だから”だろう。お前と違って」

「くっ……」


 言葉の応酬は、妙な方向へと進んでいた。

 どうやら兄の中では、ハルトヴィヒよりも王太子のほうが“話しても差し支えない相手”として認識されているらしい。

 それはそれでどうなのだろう。エリシアは二人のやり取りに口を挟まず、静かに様子をうかがっていた。


 ふと、王太子の視線がエリシアに向けられた。


「ところでご生家は落ち着いたかい? エドには落ち着くまで休むよう言ってるんだけど、どうかなと思って」

「何のことでしょう?」

「何って、リヴェール家が何者かに襲撃を受けたじゃないか……」


 そんな話、聞いていない。

 自然と視線はハルトヴィヒに向かった。


「ハルト、様?」

「……まさか、言ってなかったのか?」


 その言葉とともに、ハルトヴィヒの顔から笑みが消えた。

 ハルトヴィヒは知っていたのだ。

 知った上で、エリシアには明かさなかった。


 その事実に、エリシアの胸の内に嫌なざわめきが広がる。


「……これは話しておくべきだろう。部屋を用意させよう。少し二人で話をしたほうがいい」


 王太子はハルトヴィヒを咎めるような視線を向けた後、側近を呼び戻し、話し合いができる部屋を用意させた。













 二人は案内を受け、静かな空き部屋に足を踏み入れた。

 重厚な扉が閉じられ、外の喧騒から切り離された空間には緊張が漂っていた。


「どういうことですか」

「……リヴェール家に何者かが侵入した形跡が見つかった。だが、リヴェール伯爵とエドとサラ、それから使用人も皆無事だ」


 ハルトヴィヒは淡々と事実だけを告げた。

 犯行は深夜。屋敷全体を狙ったものではなく、侵入されたのは父の執務室だけだったという。窓の鍵に細工された跡があり、犯人は外部でかつ巧妙な手口から、犯人は外部の者であることは間違いない。しかも、その手口は明らかに素人の仕業ではなく、素人ではなく本職の腕利きの可能性が高いらしい。


「ハルト様はこのこと、ご存知だったのですね。どうして教えてくださらなかったのですか?」


 エリシアの声には戸惑いと苛立ちが混じっていた。真実を知らされなかったことへの不信感が、心の奥で波立つ。


「教えてどうなる? 仮に教えてたら、君はどうしてた?」

「そんなの決まっています。帰ります」


 迷いなく言いきったエリシアに、ハルトヴィヒは呆れたように息をつく。


「何者かが侵入した場所にか? 犯人もまだ見つかっていないのに?」


 ハルトヴィヒは眉を顰め、冷ややかな視線を向けた。

 いつもは穏やかで柔らかな表情を浮かべていたのに、初めて向けられたその視線にエリシアは思わず胸を締めつけられた。


「君が帰って何ができる?」

「…………」


 エリシアは返す言葉を失った。ハルトヴィヒの率直すぎる問いに、答えが見つけられなかった。

 だが、ハルトヴィヒは容赦なく言葉を重ねる。


「敵の目的もわからないのに? もしかしたら君を連れ去ろうとしたのかもしれない。その状況で君が帰ってしまえば、相手の罠にみすみす嵌まりに行くようなものだろう」

「そんなことありえな――」

「なぜ、そう言い切れる?」


 遮られた一言が、喉の奥に押し戻される。

 心の奥を鋭くなぞられるようだった。

 エリシアは思わず息を詰め、視線を落とす。反論の言葉は、どこにも見つからなかった。


「君は何も知らない。だから、自らを危険に晒すような行動を取ろうとする」


 ハルトヴィヒの声には、呆れか苛立ちか――それに似た何かがにじんでいた。

 けれど、そう言われて黙ってはいられなかった。


「ええ、知りません。だって、ハルト様が教えてくださらないのですから。私には知る由もありません。……そういえば、新聞もずっと届いていませんでした。私が情報を得ないよう、意図的に遮っていたのですね?」


 悲しみと怒りがないまぜになった感情が、胸の奥からせり上がる。

 けれど――その奥底では、どこかで“違う”と言ってほしかった。

 真意は別にあるのだと、否定してほしかった。

 だが、その願いはあっけなく砕かれた。


「そうだ」

「どうして……」

「全てが終わるまでは、余計な情報を与えて、混乱を招きたくなかった」


 全てとは何だろう。

 何を隠しているのだろう。

 なぜ、エリシアには言えないのだろう。


 もう、胸の中だけで抑えることはできなかった。


「何を隠しているのですか? どうして、私には言えないのですか? この婚約も、何か別の理由があるのではないですか?」


 ずっと思っていたことが、堰を切ったように溢れ出る。

 ハルトヴィヒは一瞬驚いたような表情を見せたが、答えを拒むかのように視線を逸らした。


「今はまだ……話せない」


 その言葉を聞いた瞬間、エリシアの胸の中で何かが冷たく崩れ落ちる音がした。

 答えを待ち続けた時間が、一瞬で遠のいていくようだった。

 言葉が詰まり、ハルトヴィヒの青い目を見ることもできず、視線は床へと沈んでいく。

 

「……少し、一人にしてください」


 エリシアは絞り出すように、震える声で告げると踵を返して部屋を後にした。

 後ろからエリシアの名を呟く声が聞こえたが、振り返ることはしなかった。

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