第2話 ハルトヴィヒ・アルベルト
「こんばんは、エリシア・リヴェール嬢」
聞き慣れぬ低い声音にぱっと顔を上げると、エリシアの目の前には長身の見目麗しい青年が立っていた。
青年はにっこりと人好きのする笑みを浮かべ、胸に手を当て一礼した。その拍子に金色の艶のある髪がさらりと揺れる。
思わぬ人物にエリシアはぱちぱちと目を瞬かせたが、すぐさまドレスをちょんとつまみ頭を下げた。
「……アルベルト公爵閣下。ごきげんよう」
エリシアに声をかけてきたのはマルコ――――ではなく、先程までご令嬢方が話題に上げていた『完全無欠の若き公爵』こと、ハルトヴィヒ・アルベルトだった。
ご令嬢方の話ではしばらく姿を消していたようだが、いつの間にか戻ってきていたらしい。
それにしても、噂に違わぬほど人目を引く端正な顔立ちである。そんな時代の寵児である公爵閣下が、一体何用でエリシアに声をかけてきたのか分からずにいると、ハルトヴィヒはエリシアの疑問を見透かしたかのようにくすりと笑った。
「突然声をかけて驚かせてしまったかな。リヴェール嬢とはずっと話をしてみたくてね。エドにはいつも世話になっているよ」
「……兄のお知り合いでしたか」
「友人さ」
エドとはエリシアの兄、エドワード・リヴェールの愛称である。
そんな兄と今をときめく若き公爵閣下が友人だとは知らなかった。兄の意外な交友関係に、エリシアは内心驚いてしまう。
王宮で文官として働いている兄は半年前に結婚したばかりで、現在はリヴェール家の別邸で暮らしている。
本来であれば今日の舞踏会も兄夫婦が参加する予定だったが、義姉の体調が芳しく無いとのことでエリシアが代理として参加することになったのだ。
そして同行した兄といえば――急遽仕事の話があると呼び出されたっきり一向に戻ってこない。
「エドがリヴェール嬢のことを気にかけていたのだけど、まだ仕事が終わりそうになくてね。僕が様子を見に来たわけなんだが……。何か困ったことはなかったかな?」
「……ええ。問題ありません」
おかげさまで、と心の中で付け足しておく。実際、困ったことが起こる寸前ではあったが、運良くハルトヴィヒが現れてくれたおかげで事なきを得た。
ちらりとハルトヴィヒの後ろに視線を向けると、そこにマルコの姿はなかった。さすがのマルコでも、アルベルト公爵の話を遮ってまで声をかける真似はしなかったらしい。エリシアはほっと胸を撫で下ろした。
「……間に合ったか」
「今、何か――?」
ぼそりとこぼしたハルトヴィヒの呟きは、エリシアには届かなかった。
「いいや、何も」
ハルトヴィヒは首を横に振ると、はぐらかすように話を変えた。
「それにしても、まさかリヴェール嬢が僕のことを知ってくれていたとはね。光栄だよ」
いくら引きこもりで社交界が苦手なエリシアでも、新聞くらいは読んでいる。新聞の一面には、アルベルト公爵の絵姿が頻繁に載っているため、悪い言い方をしてしまえば興味がなくても目に入るのだ。嫌でも特徴は覚えてしまうものだろう。それに……エリシアも美しいものは嫌いではない。
「有名人ですからね」
だが、余計なことは言うまいと、エリシアは端的に答える。
「いやまあ、そうなんだけど。あのエドが、君が受け取る情報を遮断しなかったんだなあと思ってね」
「どういうことです?」
「エドはね、君のことが心配でたまらないんだよ。僕が屋敷に行きたいと言っても、『妹の害になるから』って一蹴されてるんだよ? 彼は妹に興味を持つ男は皆、害虫だと思ってる節があるから」
「はあ……」
それは一体どこのエドの話なのだろう。
ハルトヴィヒは心配性なエドが頭に浮かんだのか、くくっと飾り気のない笑みを浮かべた。無防備すぎる。実力もさることながら、一躍時の人となった一因はこの気を許した者にだけみせる笑みもあるのかもしれない。
だが、ハルトヴィヒのいうエドワードははたして本当にエリシアの兄であるエドワードなのか、いささか疑問が残る。
別に兄とは仲が悪いわけではないが、特別仲が良いというわけでもない。顔を合わせれば挨拶くらいはするが、会話が弾むようなこともない。ゆえに、エリシアのことが心配でたまらないという兄の姿がまったく想像できないのだ。
唯一考えられるのは、兄は結婚したばかりのいわば新婚だ。それも貴族にしては珍しく、恋愛結婚なのだ。つまり、最愛の妻を盾にするわけにはいかないので、妹を盾にして面倒ごとを回避したかっただけではないだろうか。そのほうが兄の性格からしてもしっくりくる。仮に本当にエリシアを心配した言葉だとしても、それはこれ以上リヴェール家の悪名を広めないためだろう。
エリシアは自分の心の中で、うんうんと頷いた。
「でも改めてリヴェール嬢と会って、僕もエドが心配する気持ちがよく分かったよ」
「それは、どういう意味です?」
「その……君はあまりにも…………美しいから」
エリシアの問いかけに、ハルトヴィヒは口元を隠すように押さえ、目を逸らした。
耳を赤く染め、まるで恥じらっているかのような彼の言葉と仕草に、エリシアはぱちぱちと目を瞬かせる。
何やらエリシアには縁遠い言葉をかけられた気がするが――。
(……ああ、そういうこと)
少しの沈黙の末、エリシアは心の中で納得した。
ハルトヴィヒは恐らく、友人の妹ということで気を遣ってくれたのだろう。つまりこれはお世辞である。完全無欠の公爵閣下は女性への気遣いも出来るようだ。なるほど確かに、噂以上のお方だ。ただ、この美しい顔から世辞を紡がれたのなら、頬を赤く染める程度では済まないだろう。エリシアはともかく、彼に恋する乙女ならば卒倒するかもしれない。罪作りな男だ、と思う。
エリシアが色々感心していると、ハルトヴィヒはいつの間にか訝しげな表情を浮かべていた。
「なんだか誤解されてそうな気がするけど……」
「いいえ、分かっております」
エリシアは胸に手を当て、碧の瞳をまっすぐ見つめる。
(勘違いするな――ということですよね)
「お褒めの言葉、ありがとうございます」
世辞は受け入れよう。けれど。
(大丈夫です。弁えておりますから――)
そう伝えるように、こくりと頷いてみせた。
ハルトヴィヒはなぜか苦笑いを浮かべていたが、気を取り直したようにひとつ咳払いをした。
「ええと……そうだ、リヴェール嬢。少しだけ時間はある?」
「ええ、まあ……」
あるかないかと聞かれれば、時間はある。今すぐ帰りたい気持ちでいっぱいだが、義姉の代打で来ているのだ。せめて兄が戻るまでは会場にいた方がいいだろう。
エリシアの返事に、ハルトヴィヒは含みのある笑みを浮かべた。
なぜかその笑みに嫌な予感がする。返答を間違えたかもしれないと思ったとて、後の祭りである。
「なら、僕と――――――」
ハルトヴィヒは右手を胸に添え、頭を下げた。
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