【あなたの部屋で 】
@howoldareyou
第1話 旧友からの久しぶりの連絡って、どうしてちょっぴり怖いんだろう。
手塚さんの部屋はいつも静かだ。
大通りから一本奥に入った路地に、この古いビルはある。昼間でもあまり車は通らない。通る用事などないからだ。土日などはもっと静かだ。このブロックに関して言えば、この界隈の住人しか通らない。
このビルは私の祖父母が建てたもので、ワンフロアにひとつのテナントしか入らない小さなビルだ。五階建てだが、四階と五階は祖父母の居住スペースとして作られたため、貸し出せるのは一階から三階だけだ。最初はひとつの会社がすべて借り上げてくれていたらしいが、その後は税理士事務所や、近くの文房具メーカーの倉庫などとして使われていたこともあると聞いている。
その頃すでに三階は、人が住むスペースとして使われていたようだ。特に用途を限定して貸し出していたわけではなかったようで、コンクリ打ちっぱなし(と言えばカッコいいが、ただ内装工事が施されていない状態)のがらーんとした空間に、男性が二人で暮らしていたそうだ。
現在この三階に住んでいるのが、手塚さんだ。
仕事場兼居住スペースとして利用しているらしい。いつからそうなのかは分からないが、現在そのふたつの空間は壁で仕切られている。居住スペースの玄関を出るとそこが彼の職場であり、職場からドア一枚開ければ自宅へ戻れる。私は居住スペースは見たことがない。私の知っている手塚さんはいつも、仕事場である相変わらずコンクリ打ちっぱなし(と言えばカッコいいが、ただ内装工事が施されていない状態)の空間で、機材やモニターの山に埋もれてキーボードを叩いている。薄暗く、ひんやりしていて、静かで、そしてなぜか居心地がいいこの部屋はまるで――
ガチャっと機械的な音がして私はハッと我に返った。どうぞ、と奥からくぐもった声が聞こえた。
――私は今日も、この部屋のドアをノックしてしまった。
「…大家さんって、勝手に入居者の郵便物取って来ていいんだっけ?」
殺風景な内装にパソコンやモニターなどの機材の山、私はここに来るたびに(犯人が最後に逃げ込む工事中のビルの一室みたいだな)と思う。
「まあまあ。お手伝いだよ。駄目?」
「いや、まあ…いいけどね、別に。」
モニターの山の中から、彼の声だけが返って来た。ごめん忙しかった?と声をかけると、そうでもない、ちょうどひと区切りついたところ、と彼は伸びをして立ち上がった。
「休憩するかー、うるさいのが来たし。」
「そうそう、休憩はしないとね!」
あんたずっと暇でしょうよ、と手塚さんは笑いつつも、事務所のキッチンでコーヒーを淹れて持って来てくれるところは結構優しいと思う。ソファを陣取る私の前にコーヒーの入ったマグカップをはいどうぞと置き、ちょっと詰めて、と言って彼は私の隣に座った。
「なにそれ。」
コーヒーをひとくち飲んだ彼が私に聞いた。ああこれ?と手にした葉書を手塚さんに渡す。
「高校のときの友達から。さっき届いてた。」
手塚さんの郵便物を配達するついでに、自分のポストも覗いてきたのだ。
「ふうん…うん?妊娠の報告?出産じゃなくて?」
そうみたいね、と私も一緒に葉書を覗き込む。
「相変わらず幸せそうだよなあ…久乃っていっつも勝ち組だったもんなあ…。」
ため息交じりに私がそういうと、勝ち組ってと手塚さんは鼻で笑った。
「仲良かった人なの?その、久乃?って人。」
「あー…うーん…まあ。」
「なんだその歯切れの悪い返事は。」
仲が良かったかと問われると、女子はシンプルに回答できないようなところがある。同じグループではあった。でも内部にも細かい分類がある。それで言うと久乃は、えーと。
「あ、結婚式の二次会には行った。」
なるほどわかりやすい、と手塚さんはまた笑った。
「にしても、わざわざ妊娠を知らせて来るんだな、いまどきは。」
ほい、と私に葉書を返して彼が言う。小花を散らしたデザインのその薄桃色の葉書には、隅に手書きのメッセージも書きこまれていた。きちんとした彼女の性格を映したような美しい文字だった。
「おととし、いや三年前だったかな、結婚してね。」
「うん。」
「千葉に家を建ててね。」
「うん。」
「旦那さん、立派な人でね!」
「…うん。」
「子ども、できたんだね!へへ、ほら、つわりで動けないって…。」
「ああもう、悲しくなるなら話さなくていいよ。」
今の大家さんには痛い話でしょうよ、とはっきり言うところは優しくないと思う。別に大丈夫だし全然気にしてないしこれっぽっちも悲しくないしと詰め寄る私を、はいはいと躱した手塚さんは、
「ん?」
と言って、私が握りしめていたその葉書をひょいとつまみ上げた。
「千葉って言った?」
「え?何が?」
「久乃さんが家を建てた場所。」
「うん、そうだよ。差出人の住所にあるでしょ。」
ひらひらと葉書をひっくり返していた手塚さんは、
「妊娠中か…彼女の実家は?」
と聞いた。
「久乃?八王子だけど。」
なんで?と私が聞いても答えない。葉書を手に何かを考え込んでいるようだ。そしてまたひとくちコーヒーを飲むと、
「連絡先知ってる?久乃さんの。」
と言った。
スマートフォンのアドレス帳を見てみたら、久乃のページにはメールだけが登録されていた。電話番号もLINEも知っているようなつもりでいたけど、そういえばやり取りしたことはなかった。それで、かろうじて知っていたそのアドレスにメールを送ってみたが、宛先不明で戻ってきてしまった。
「あれ?もうこのアドレス使ってないみたいだ。」
そう言うと手塚さんはまたしばらく葉書を眺めてから、
「他の人にも聞いてみて。その仲良かったグループの。」
と言った。
「何を?」
「同じような葉書が来たか。」
「うん…なんで?」
そう言う私に、まあいいから結果分かったら教えてと言って彼はモニターの山の中に戻り、また仕事を始めてしまった。それで、面倒だなあと思いつつ私は、連絡がつく限りの旧友たちに連絡してみた。
「手塚さん、手塚さーん。」
なにやら真剣な表情でガチャガチャとキーボードを叩いていた手塚さんは、何度目かの呼びかけでやっと顔を上げた。
「来てる人と来てない人がいた。」
「何が?」
私に何をさせていたかはすっかり忘れているようだ。
「…手塚さんが聞けって言わなかった?」
と答えた私の声色で、あ、ああ、葉書ね!と気づいたようで、誰に届いていたか報告を求めてきた。それで私は、葉書が届いていたメンバー三人の名前を挙げた。
「その人たちは久乃さんとすごく仲が良かったの?」
「うーん、いや、そこまででもないと思う。三人とも私と同じくらいかな。」
ふんふんと頷いた彼に、
「逆に久乃さんが特に仲良くしていたような人には来てなかった?」
と聞かれたのには驚いた。
「うん。そうなんだよねえ。妊娠のことも知らなかったみたい。」
久乃が特に仲良くしていたふたりは、何も知らされていなかった。私から急にこんな連絡が来て驚いていた。
「しかもね、そのうちのひとりはちょっと前に偶然、久乃の旦那さんに会ったらしいのよ。」
会社近くでばったり会ったのだそうだ。旦那さんもその友達を覚えていて、少し立ち話をしたらしい。
「なのに何も聞かされなかった。」
「そうなの。それにね、ちょっと変なこと聞かれたんだって。」
「変なこと?」
「最近、変わったことはなかったですか、とかそんなようなこと。」
私がそう言うと、手塚さんは、なるほどね、とつぶやいて、デスクチェアの背もたれに体を預けた。そして言った。
「ドライブがてら、行ってみるか。」
「え?どこに?」
「千葉。」
彼はソファに戻って来ると、テーブルの上に置きっぱなしだった久乃からの葉書をつまみ上げ、これこれ、と振って見せた。
「明日は土曜日だな。大家さんはこの人の旦那さんと面識ある?」
「え、まあ。結婚式の二次会で会ったけど。確かどっかの省庁に勤めてて…大蔵省?」
「もうないから。」
「し、知ってるけど?」
肩を揺らしながら手塚さんは、
「はいじゃあ明日九時にうちに集合。久乃さんちに行きます。」
と宣言した。はあ!?なんでじゃ!とパニックになっている私の手のひらに、はい、と葉書を乗せて彼は言った。
「那覇だよ、消印が。」
このビルの裏手には、割と広めの駐車スペースがあった。これのお陰でこんなボロビルでも今まで入居者が途切れずにいる、と母が言っていた。そしてそれは今でもそうだ。手塚さんの古いワーゲンもそこに停めてあった。翌朝、彼の車で私たちは千葉方面へ向かっていた。手塚さんの車に乗せてもらうのは初めてだ。
「急に訪ねて大丈夫かな。」
結局、ろくに説明も聞かされずに私は今日という日を迎えていた。さっきから何度も、なぜ行くのか、こんなことして大丈夫なのかと尋ねているが、手塚さんはふふんと笑うばかりだ。挙句こんなことを言いだした。
「旦那さんが出てきたら、久乃の友人です、ずっと連絡が取れないので来てみたんですが、と言って疑り深そうにじろじろ彼を眺めてみて。」
「いやいや!急に押しかけてそれ!?帰れって塩撒かれるよ!」
と手塚さんに掴みかかると、おい運転中だぞと笑って、彼は言った。
「いや、入れてくれると思う。むしろ積極的にね。」
本当かよ!となおも食い下がる私に、本当本当、と手塚さんは何だか楽しそうだった。
私たちの住んでいるビルは、東京の東側の地域にある。もう海に近い、大きな川沿いの街だ。ここからだと千葉方面へのアクセスは割といい。出発前にスマートフォンで地図を見ていた手塚さんは一時間ちょっとだなと言っていたが、大体予想通りの時間に私たちは、その葉書の住所に到着した。
「り、立派な家だなあ。」
だねと言いながら手塚さんは表札を確かめて、ここで間違いない、と頷いた。そしてインターフォンを指差して、ジェスチャーで押せ押せと私に指示してきた。私はボタンへ指を伸ばしながら、わけもわからずここまでついてきて、わけもわからずインターフォンを押そうとしている自分が急におかしくなってしまった。手塚さんと居ると、良くわからないけどまあ大丈夫だろう、という気持ちになってしまう。
家の中で、チャイムが鳴るのが聞こえた。少しして、はい、とスピーカーから応答があった。旦那さんのようだった。ひっくり返りそうになる声を抑えながら練習通り(車の中で練習させられた)、突然すみません、久乃の友人なのですが、と言うと、え?という声がして中で人が歩く気配があり、数秒後にがちゃりと玄関のドアが開いた。
「久乃の…?」
見覚えのある男性が出て来た。数年ぶりに会ったが、確かに久乃の旦那さんだ。向こうは私を覚えてはいないようだった。
「あ、はい、突然すみません。高校時代の友人なのですが。」
引きつる笑顔でそう続ける私を、旦那さんは怪訝な顔で眺め回してきた。
「実は、ですね、あの、数日というか、数週間前からですね、久乃に連絡を取ろうとしているんですが。ちょっと大事な用がありまして。はい。でも全然連絡がつかないものでみんなで心配していまして。それで私が代表で様子を見て来るということになったんですが。」
「…。」
「あのー…。久乃は?」
そう言いながら、私は手塚さんの指示通り、旦那さんをじろじろ眺め回してみた。部屋の奥の方を覗くような素振りもしてみた。こんな感じでどうかな?と後ろにいる手塚さんに視線を送ると、いつの間にかワイヤレスのイヤフォンを耳にはめた手塚さんは、それを右手で押さえながら、はい、ええ、通報してみます…とかなんとかぶつぶつ言っていた。すると突然、久乃の旦那さんが叫んだ。
「通報する!?やめてくださいよ、何もしてないですよ!疑うんならどうぞ調べてください!入って!早く!入って!」
玄関を抜けると広いリビングがあり、見るからに高そうな家具が置かれていた。感嘆の声が漏れそうになるのを我慢しながら、私はちらちらと部屋中を見回した。家の中はきれいに片付いていた。でもなんというか、生活感があまりない感じがした。生活臭がない、というか。それに、片付いているんだけれど、くすんでいるというか。日差しがたっぷり入る明るい部屋なのに、まるで薄い灰色のベールがかかっているように見えた。
玄関では取り乱した旦那さんだったがすぐに落ち着いて、とりあえず座ってください、とこれまた立派なアイランドキッチンで、突然の訪問者にぎこちなくお茶を淹れてくれた。私たちの前にお茶が置かれるのを待って手塚さんが、
「急にお伺いしてすみません。」
と切り出した。
「…はい。」
向かいの席に座った旦那さんは、まだ警戒を解いていないようだ。しかし同時になんだかその表情には、諦めのようなものが浮かんでいる気もした。
「少々お聞きしたいことがありまして。」
「聞きたいこと、ですか。」
「ええ。突然訪ねてきてこんな話、失礼なんですが。」
「…何でしょう。」
「奥さん、出て行かれたんじゃないですか?」
お茶に伸ばした旦那さんの手が止まった。
「え?」
「子どもを欲しがっている奥さんにあなたが、子どもは要らないって言ったんですよね?」
旦那さんは目を見開き、手塚さんを見た。
私も目を見開き、手塚さんを見た。
「な、」
と言いかけたところで私は、素早く手塚さんに肘で小突かれた。
「ああ、そうか…。」
向かい側で旦那さんが両手で顔を覆い、呻くように言った。
「そういうことですか…久乃から聞いたんですね。」
え?と目で訴える私に、しーっと人差し指を立て、ニヤッと手塚さんは笑った。
「忙しくなりまして。役職についたもので。いや、それほどでもないです、でも役職が人を育てるようなところがありますよね。私もやっと様になって来たくらいで。」
しばらくそのままの姿勢でいた旦那さんは、やっと手をほどき、自分の湯呑に手を伸ばした。もうぬるくなっているだろうお茶を一口飲むと、そんなふうに話し出した。
「あの、こちらご主人ですか?失礼ですが、歳も私と同じくらいかと。」
こちら、が手塚さんを差していることに気づいたのは、ええおそらく、と彼が適当に返事をしたあとだった。
「でしたら、分かっていただけると思うんですが。右も左も分からず必死で走り回っていた頃が過ぎて、やっと自分で仕事が出来るようになって来た、というか。仕事が面白くなって来る頃だと思うんですよね、我々くらいの年代は。」
「…ですね。」
かけらも同意していなさそうだったが、久乃の旦那さんはそんな手塚さんを特に気にする様子もなく話を続けた。
「久乃には分かってもらえなかったのかな。ご存じだとは思いますが、彼女、結婚してすぐに仕事を辞めて、家に入ってくれたもので。仕事のことは、あまり…だったのかな。」
「はあ。」
「私の仕事が落ち着いてからでいいだろう、って意味だったんです。私だって子どもが欲しくないって言ったわけじゃないんです。少し待ってくれ、落ち着くまで待ってくれ、ってことだったんです。大事な時期だったので、仕事に集中したかったんですがね。こんな状態で、父親になる準備なんか出来ませんよ。それは久乃にとっても困ることでしょう?」
手塚さんがどうしてこのことを知ったのかは分からなかったが、久乃に何があったのか、はなんとなく分かってきた。旦那さんの話が一段落したのを見て、手塚さんが言った。
「もう、三カ月近くになりますか、久乃さんが出て行ってから。」
三カ月?そんなに経ってるの?今は何も発言しない方がいいことには私も気づいていたので、口には出さなかったが内心驚いた。
「奥さんは、ここからちょっと遠い場所にいるようです。住んでるのが、あ、勤務先かも知れないですが、そのあたりというのはわかっています。」
「勤務先?」
旦那さんが眉間にしわを寄せた。
「もう三か月近く経つんでしょう?ずっとそこにいたのかは分かりませんが、バイトくらいしてるのでは。」
手塚さんはそう答えた。
「どこなんです?そこは。」
「僕の口からは。」
首を振った手塚さんを、旦那さんはそれ以上問い詰めなかった。
「…最初のうちは、連絡も取れたんです。」
しばらくして、そう旦那さんは話し始めた。ひとりで考えたいから放っておいてくれと久乃には言われたのだそうだ。実家にいて、両親とも話し合っているから、と。両親もすごく怒っているので今は来ない方がいい、とも言われたそうだ。
「…それで本当に放っておいたんですか?」
思わず責めるような口調でそう聞いてしまった私に、
「だって、こじらせてもいけないと思って。それに、忙しかったんです。昇進早々にしくじるわけにもいかないと、私も必死だったんですよ。」
と旦那さんはちょっと声を荒げた。でもさすがに気になって、しばらくしてからそっと八王子の実家を覗きに行ってみたらしい。でも人の気配がなかった。通りかかった近所の人に聞いてみると、旅行中と聞いていると教えてくれた。
「よく教えてくれましたね。泥棒かも知れないのに。」
「名刺を出したら教えてくれました。」
当たり前でしょう?とでも言いたげな顔だ。
「それでまた久乃に連絡を取ってみましたが、その頃にはもう返信もくれなくて…。私もなんていうか、疲れてしまったんですかね。それに、夫の大事なときにこんなに長期間家を空けるなんて無責任でしょう。そんな久乃に苛立ってもいました。何度も言ったんですよ、私の立場も考えてくれ、とにかく話し合いの席についてくれ、と。このままでは心証が悪い、それでは君も困るだろうと、」
まくし立てる旦那さんに、
「落ち着く日なんて来るんでしょうか。」
と静かに手塚さんは言った。
「子どもは仕事が落ち着いてからでいいだろう、と先ほどおっしゃいましたが。」
「はい?」
「僕たちが久乃さんから話を聞いてやって来たとあなたは思った。それなのに、久乃は元気ですか?どんな様子なんですか?という類のことは一切聞いてません。」
「いや、だからそれは、私が何か疑われているのかと驚いたからで。」
何を言い出すんですか、と身を乗り出す旦那さんを見ようともせず、テーブルの上で組んだ手に視線を向けたまま手塚さんは続けた。
「久乃さんが居る場所を知っている、と僕が言うまで、久乃は今どこに居るんですか、ということすら聞かなかった。」
「いや、だから、それは…。」
「そのあとあなたの口から出て来るのは、自分の話ばかりです。自分の、仕事の話ばかりです。」
睨みつけるように手塚さんを見ていた久乃の旦那さんの目から、みるみる力が消えて行くのが分かった。
「父親も、同じなのでは。」
「…え。」
「役職が人を育てるって言いましたよね。」
手塚さんは顔を上げた。そして言った。
「父親になったから、父親になっていくのでは。」
そう言ってから、まあ、僕にも子どもは居ないので分かりませんが、と聞こえるか聞こえないかくらいの小さい声でそう付け足した。久乃の旦那さんは何かを言いかけて、やめた。しばらく待ってみたが、もう何も言うことは、言えることは、なさそうだった。手塚さんが腕時計をちらりと見た。それから私を見て、小さく頷いた。それで私たちは席を立った。
それでも久乃の旦那さんは立ち上がり、私たちを玄関先まで見送ってくれた。そして、突然訪ねて来て失礼いたしました、おおや…いや、妻が気にしていたもので、と手塚さんが詫びて頭を下げると、いいんです、と力なく答えた。その顔には、深い疲労や悲しみが浮かんでいるように見えた。
パーキングへ向かって歩き出した手塚さんに、
「あ、手塚さん、ちょっと待って。」
と私は声をかけた。そして、まだ立ち尽くたままの旦那さんに言った。
「私が久乃に連絡してみます。」
「…え?」
「あなたと話すことは出来ないか、聞いてみます。応えてくれるか、約束は出来ないけど。」
そう言うと、驚いたように私を見つめていた旦那さんはかすかな笑顔を見せ、ありがとうございます、と小さく言って、頭を下げた。
手塚さんのところへ戻ると、もういい?と彼が聞いた。私は、うん、と答えた。じゃあ帰ろう、と手塚さんは言った。
「どうして分かったの?」
車に乗り込み、シートベルトをするのもそこそこに私がそう切り出すと、何が?と言って手塚さんは車のエンジンをかけた。
「いろいろ!順番に説明して!」
と迫ると、お、やる気だねえ、と手塚さんは笑った。
「じゃあ、うん、何から話せばいい?」
「まず今、久乃さんはどうやら那覇に居るようなので、つわりで動けないってのは嘘らしい。妊娠初期の妊婦がつわりを我慢して旅行しないだろうし、沖縄に実家があるわけでもないし。普通、安定期までは大人しくしてるんじゃないかな。少なくとも飛行機に乗ろうとは思わないだろうね。」
「なるほど。で、妊娠自体が嘘なのかも、ってことか。」
そうそう、と運転しながら手塚さんが続けた。
「で、大家さん、あの葉書もらって、それからどうするつもりだった?」
どうするつもり?そりゃあ、
「返事の葉書を書くよね?メールも変わってたし。」
私の答えに満足げに頷いた手塚さんは、
「葉書をもらった他の人たちも同じだと思う。そしたらどうなる?」
と言った。
「どうって?葉書が届くよね、あの家に。」
「そしたら?久乃さんは沖縄だよ。」
「ってことは読むのは旦那さん…あ。」
どきっとした。わかった?と手塚さんはちらりと私を見て、言った。
「旦那さんは驚く。妊娠おめでとうって書いてあるからね。」
久乃から届いた、あの葉書が目に浮かんだ。可愛いイラストが散りばめられた薄いピンク色の世界に、丁寧な字で妊娠を知らせる文面が綴られていた。
「妊娠おめでとう、って書いてある葉書を旦那さんに読ませたかった。それはどうしてか、って考えたってこと。」
どんな思いで久乃は、あのひと文字ひと文字を書いたのだろう。
「そんな葉書を旦那さんが見たらどうなるか。俺だったら、責められたような気持ちになるな。それが久乃さんの目的なんだとしたら、旦那さんはその文面を見て責められてるような気持ちになるシチュエーションにいるんだろうって思った。」
手塚さんの言う通りなのだろう。これは追いつめられた久乃が必死に考えた、どうにかして自分の気持ちを旦那さんに伝えるために仕組んだ狂言だったのかも知れない。でも。
「なんか…サプライズだった、とかないかな。妊娠も本当で、自分が妊娠したことを知らせるいたずらだった、とか。」
と苦しい抵抗をしてみた私だったが、
「彼らは三カ月会ってない。」
という手塚さんのひとことに、だよね、と力なく引き下がった。
「まあそんなわけで、メールやLINEなんかであまり連絡を取ってない人を選んだんだろう。その人たちなら返事の葉書を書くだろうから。」
次々と届く、妊娠おめでとう、の葉書を読んでいたら、あの旦那さんはどう思っただろう。想像すると、ちょっと怖くなった。葉書一枚だけれど、もし本当にそれが狙いなのだとしたら、地味に効く作戦だなと思った。葉書を出してしまう前に手塚さんが気づいてくれて良かった、と思った。
「それにしても、三カ月ってね。」
家出にしては長い。そして今も戻っていない。今久乃はどんな思いで居るのだろうか。
「長過ぎるよな。でも男の俺でも、あの旦那と一緒に暮らすのは大変そうだなって思う。」
と言った手塚さんに、思わず深く頷いてしまう。でも、と思った。突然現れた私たちにも、久乃の友人だからと礼儀を持って対応してくれた。最後は私にありがとうとまで言っていた。あの旦那さんも悪い人ではないのだろう。言い方は違えど、彼も久乃を心配していたと思う。あの人のためにも、つてをたどってどうにか久乃に連絡を取ろう!と思ったところで、最後の疑問を思い出した。
「そうだ、その久乃が居なくなって三カ月っていうのは?」
「ああ、それは当てずっぽうだけど、省庁の人事異動は四月一日付が多いだろうから。そこから三カ月経っているなってこと。転勤でもしたのかなって最初は思ったんだけどね。」
転勤が原因なのだったら、また少し話は違ったのかも知れないなと思った。
「久乃は本当に頑張り屋さんだったからね。真面目だし。ずいぶんと我慢しちゃったんじゃないかな。」
「分からない、夫婦っていうのは。」
手塚さんは大袈裟に頭を振って見せた。
「キラキラした葉書一枚で、すべて分かった気になったらいけないね。」
そうつぶやいた私に、まあね、と応じて、
「でも、怒ったり責めたりするのは、その状況を変えたいって思うからなんじゃない?もうどうでもいいならそんな手の込んだ葉書じゃなくて、離婚届を送り付ければいいんだし。」
と手塚さんは言った。
「案外今は、沖縄で羽を広げて楽しんでるのかもよ。それでいつの間にか三カ月も経っていた、っていうのが本当のとこかも。浦島太郎だな。」
そして、あんまり心配しないで大丈夫だと思うよ、とノールックで私の頭をちょっとつついた。
このところ雨模様が続いていたが、今日はやっとカラッとした晴天になっていた。こんなふうに誰かと車で出掛けるのなんて、久しぶりだった。特に男の人とは。運転している手塚さんを盗み見る。そう言えば彼の車に乗せてもらうのは初めてじゃないか。突然千葉に行く、と言い出してびっくりしたけれど、帰り道の今、この時間がもう少し続いてくれればいいのにな、と思っている。
「ん?どうした?」
手塚さんの声がして、はっと我に返った。ううん、何でも、と窓を全開にして私はとっさに、
「結婚を決めたときは、ただただ幸せだったんだろうにねえ。」
なんていかにも久乃のことを考えていた振りをした。言ってから、胸がチクリとした。そんな私に気づくことなく、ああ、久乃さんたちね、と手塚さんは、
「まあ…恋してたってことなのかな。」
と言ったので、私は驚いてしまった。
「え!」
「何?」
「手塚さんから、恋って単語が出るなんて。」
という私に、はあ?と不満気な声を出した彼は、
「何だよ、俺が恋愛語っちゃいけないの?そのときは恋に落ちて、見境なくなってたんだろうな、ってことくらいは分かるよ。」
なんてまた柄にもないことを言ったので、笑ってしまった。
「…いや、ごめん、よく考えたらそんな偉そうに言うほどのことでもなかった。」
そんな私を見てしおらしく彼が言った。いつも彼にからかわれている私はここぞとばかりに突っ込んでみた。
「恋愛の達人なのかと思った。」
「おい、からかうなって。」
「どんだけラブプロフェッショナルなんだ、って思った。」
「だから悪かったって。何だよラブプロフェッショナルって。」
と言って手塚さんは笑った。赤信号で車を停止させた彼はちょっと伸びをしてから、
「まあ、恋愛に限らずなんだろうけど、上手く行くときっていうのは、何ていうかこう、すごくシンプルに簡単に進んだりするもんじゃないかなって俺は思ってる。追い風で進む船みたいな。」
と言った。
「追い風でねえ。」
「この仕事始めたときがそうだった。自分で会社作るべきかどうか迷っていたけど、知り合いに相談したら、仕事発注してくれそうな会社を紹介されて。そこからはもう、紹介に紹介で、迷ったり悩んだりするヒマもなく、気がついたら今の状態になってた。」
それは何だかすごく分かる気がした。
旧友は、向かい風の中、必死で前に進もうとしているのかも知れない。そんな海に漕ぎ出さねばならなかった久乃の気持ちを思うと、もうあまり付き合いのない友人とはいえ、やっぱりつらかった。いつも自信満々で、弱さなど人に一切見せないような人だった。そんな彼女が手に入れたこの結婚だって、みんなが羨むような結婚だったはずだ。そんな船でも、時には風向きが変わる。
「ただ…まあ、そんなどさくさに紛れて当時の彼女は居なくなってた。」
「げ!」
「だから言っただろ。ラブプロフェッショナルじゃないって。」
「ほんとだよ。二度と偉そうなこと言うな。」
そう言う私を手塚さんは、生意気な大家さんだなあ、と笑って、信号が青になるとまた車を発進させた。それから、まあ、つまり何が言いたいかと言うと、と私を見て、
「いい風が吹かないときは、のんびり浮かんでいればいいんじゃない?大家さんみたいに。」
と言った。
「あ。さりげなく失礼なこと言った?」
「ああ、腹減ったな。何か食べて行こうぜ。」
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