真・黒瀬智哉の奇妙な田舎暮らし
黒瀬智哉(くろせともや)
プロローグ 運命の交通事故と、最高の娯楽(たのしみ)
広々とした湯舟に浸かった後の、全身を包むシトラスの香り。その安堵の中で、黒瀬智哉は数分前に書き上げたばかりの、彼の内なる闇が産み落としたワンシーンを反芻する。
清らかな口調で語っていた彼女――清子。その虚像が崩れる瞬間を、彼は紙の上で再現した。彼女が喉の奥で押し殺したような、奇妙で、湿った音を漏らす。
「ふふ」
その音は、彼の退屈な日常を打ち破る、歓喜の序曲だ。
「え?」男の驚きを嘲笑うかのように、「クス…クス…」と、清子の顔が、まるで緻密な細工の能面が一枚、音もなく剥がれ落ちるように変貌する。清潔なシトラスの香りが漂っていたはずの清子から、黒瀬にはどこか甘く、澱んだ、獣じみた匂いが立ち上るように感じられた。それは、善の皮を被った悪の匂いだ。
最後に、清子は優しく見開かれていた瞳を、獲物をいたぶるようなねっとりとした視線に変え、宣告する。
「おい。ガキ、いつまで私に夢を見ている気だよ。そのうぬぼれた顔をぐちゃぐちゃにするのが、私の**最ッ高の娯楽(たのしみ)**なんだよ」
黒瀬はキーボードから手を離し、満足げに微笑んだ。この描写は、この平和な世界に悪魔が仕掛けた最初の伏線だ。彼の創作の根源は、まさに**『黒瀬智哉の悪魔的日常』**のテーマそのもの――日常を覆す、歪んだ真実への愛にある。
(あの頃の俺は、死んでいた)
深い呼吸と共に、熱気が身体から逃げていく。今の快適な自宅の風呂と、故郷である大阪の田舎町で暮らしていた頃の、狭く、冷えやすいシャワールームを比較する。
約四年前。彼は都会の荒波から逃れ、静謐な環境を求めて大阪の田舎町に流れ着いた。元2DKをリノベーションした、広々として家賃の安いワンルーム。生活に何の不満もない、**順風満帆な「平和」**があった。
しかし、その平和こそが、荒波を知る黒瀬にとっては**「退屈」という名の地獄**だった。心の中の何かは常に、次の嵐、次のスリルを求めて飢えていた。
そんな凪の地獄の日々、彼は何の気なしに「小説の執筆」という、静かなる爆弾を自らの人生に投下した。
最初は遊びのつもりだった。だが、一度筆を執ると、もう止まらない。純粋な楽しさが、彼の内に秘められていた狂気を解き放った。
「よし、アレも書こう」「これも書いちゃえ」
夢中になって狂ったように小説を執筆していった黒瀬は、次第に奇妙な感覚に襲われる。それは、**『黒瀬智哉の悪魔的日常』**で描かれる、運命の裏側を覗き見ているかのような、不思議な現象だった。
彼は、現実の出来事や、自分の内側から湧き出すアイデアが、まるで**「神の力」によるインスピレーションのように感じられる一方で、それを逆転させる「悪魔の力」の存在も感じ始めていた。彼の人生は、静かに摩訶不思議な日常ミステリー**へと変貌し始めていたのだ。
そして、その感覚の絶頂期、「黒瀬智哉の悪魔的日常」を執筆していた最中、唐突に、天啓のように、「奈良に移住してみよう」という、彼の人生を決定づける衝動が頭に浮かんだ。
(今思えば、あれは確実に、悪魔のしもべたちが仕掛けた巧妙な伏線だったのかも知れない)
現実の日常を小説の内容として脚色していく過程で、この移住への衝動は抑えられないものとなった。彼は、自身の人生を、自らが書く小説の壮大なプロットとして捉え始めたのだ。
黒瀬は、25年の夏、まるで運命との勝負を仕掛けるように「奈良移住計画」をスタートさせた。目標は、世間の夏休みが終わるまでに移住を済ませること。彼の内なる声が命じたのだ。「突き進め」と。
原付バイクで頻繁に奈良へ赴くようになり、その風景や空気は、彼の創作欲を激しく刺激した。その足取りは、もはや観光ではない。作家としての魂の居場所を探す、真剣な探索だった。
だが、現実は小説のようにスムーズには進まなかった。
「金ならある、なぜすんなり決まらない?」
保証会社の審査は通る。社会的信用に瑕疵はない。にもかかわらず、奈良の色んな物件を見て回るたびに、謎の力によって審査が落ちる。それはまるで、彼の周りを取り巻く**「悪魔のしもべたち」**が、彼の選ぶ道を意図的に遮断しているかのようだった。
焦燥感が砂嵐のように彼の心に吹き荒れる。この理不尽な状況は、まさに彼が書いている**『黒瀬智哉の悪魔的日常』の冒頭の「非理」そのものだった。しかし、彼は知っていた。この「非理」は、やがて最良の「理」へと転じる巧妙な伏線**に過ぎないのだと。
最終的に、彼は二件の物件に狙いを絞った。それは、ワンルーム暮らしだった彼にとって信じられない規模の、5LDKの一戸建てだった。
「5LDKの家賃がなぜこんなに安い?」
その破格の価格は、甘美な悪魔の囁きのようだったが、黒瀬の心は騒めきながらも、その二件に傾倒していた。「今度こそ行けるだろう。」
ところが、その二件の内見当日、予期せぬクライマックスが訪れる。案内を務めるはずだった仲介業者の車が、待ち合わせ場所に向かう途中で、交通事故に遭うというのだ。
「マジかよ」
黒瀬は思わず笑った。これほど劇的な妨害は、彼の小説でも滅多に書かない。この事故は、自然の偶然ではなく、運命の舵を無理やり切るための、悪魔的な介入だと彼は直感した。
急遽、別のスタッフが代役として現れた。その彼こそが、運命の導き手だった。
彼は5LDKに意識が行っていた黒瀬に、まるで秘密の宝の地図を見せるように言った。
「とっておきの物件がありますが?見ていきますか?」
本来、彼は興味を持つはずがなかった。しかし、これまでの全ての出来事――審査の連続落ち、内見担当者の事故、そしてこの代役のスタッフとの出会い――これらが全て、一つの結末へと収束していく確信が、彼にはあった。
念のためにと見に行ったのが、今、彼が暮らしているこの家だった。
この家は、元々は彼の選択肢に存在しなかった。しかし、四つの偶然の連鎖――審査の不合格、担当者の事故、代役スタッフとの出会い、そしてその彼からの誘い――この全てをクリアして初めて、彼はこの家と巡り合うことができた。
黒瀬は悟った。これらは全て、彼の**「退屈な日常」を打ち破り、「奇妙なひらめき」**を育むために、神と悪魔が仕掛けた最ッ高の演出だったのだと。
ワンルームから3LDKの一戸建てへ。今のこの家は、彼にとってただの住居ではない。それは、運命の逆転劇の果てに与えられた、創作のための特別な舞台だった。
黒瀬は今のこの家に移住した。運命の逆転劇の末に手に入れた、彼の**「奇妙なひらめき」**を育むための城だ。
しかし、悪魔の試練は、移住後も彼を容赦なく襲った。
当初、すぐに開通するはずだった光回線の工事が、二か月以上も先延ばしになるという、現代社会における静かなる地獄が彼を待っていた。携帯の貧弱な電波だけを頼りに、情報という血液が途絶えた生活。それはまるで、彼が自ら望んだ**「文明の音を捨てる」**という、究極の修行を強制されたかのようだった。
その時、彼はこの不便を嘆く代わりに、それをそのまま創作の舞台に変えた。執筆していたのが、まさに**『黒瀬智哉の奇妙な田舎暮らし』**だった。
この圧倒的な孤独と静寂。生活の足は馬力不足の原付バイクのみ。唯一の話し相手は、なぜかベランダから部屋に入ってくるミツバチや、自作ゲージで飼っていたキリギリス。彼は、家中の掃除を儀式のようにこなすことで、この不便な生活と、自らの精神を律した。
あの頃の体験と、この作品の執筆こそが、彼を作家として急成長させてくれた。大阪にいた頃の自分よりも、何倍も鋭利な刃物へと磨き上げられた実感がある。
元々は大阪の田舎町のワンルームで静かに暮らしていた男が、今は奈良の山間、この立派な一戸建てで暮らしている。この飛躍は、彼にとって今でも信じがたい運命の軌跡だ。
そして、この家で暮らすこと。『この家に移住したこと』が、彼の創作のすべてを決定づけた。この土地が持つ土着的な霊気、広々とした空間、窓から見える雄大な景色。他の奈良の家に移住していたら、決して得られなかったであろう**「奇妙なひらめき」**が、次々と彼の内側から沸き上がってくる。
この家は、不便益という名の哲学を与え、彼の孤独を深め、そしてその孤独を純粋な創造力に変えるための、最高の実験場だった。
広々とした湯舟にゆっくり浸かりながら、彼は決意を新たにする。水面から立ち上る湯気が、かつての狭いシャワールームの記憶を優しく洗い流していく。
彼は、一応は小説家志望ではある。だが、プロの作家という世間的な肩書きは、もはやどうでも良かった。彼は、自分の人生という物語の主人公であり、その脚本家なのだ。
彼が本当にやりたいことは、作家になることではない。**『小説を執筆すること』**だ。
金は別のもので稼ぐ。彼は個人事業主として、自らの生活の基盤を築いている。だからこそ、彼は誰にも媚びず、誰にも従わず、この**「小説を執筆する道」**だけを、純粋に極めることができる。
「アマなのに文豪クラスとか面白い」
彼の口元に浮かぶのは、清子のような恐ろしい形相ではない。運命の裏側を知り、それを自らの物語へと昇華させた者だけが持つ、純粋な愉悦に満ちた笑みだ。
きっかけは、何の気なしに始めてみた「小説の執筆」という、ささやかな行為だった。あの時、ペンを握らなければ、今のこの**『黒瀬智哉の奇妙な田舎暮らし』も、『黒瀬智哉の悪魔的日常』も生まれず、彼は今頃まだ、あの大阪のワンルームで、「退屈な日常」という名の地獄**に囚われていたはずだ。
黒瀬智哉の、奇妙で痛快な物語は、今、この奈良の静寂の中で、まさに始まろうとしていた。
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