第17話

「またあしたね、優人君」

 放課後、ひなたちゃんを見送ったあとで僕は図書室へと向かう。

 今日一日は鹿島さんの鋭い視線にタジタジだった。

 図書室ならば鹿島さんと顔を合わせることもない。部活もないし、自習をしてから帰ろう。

 そのつもりで目的の場所へ向かい、席を確保してからノートを取り出そうとした、まさにその時だった。

「あっ、英語のノート!」

 うかつだった。

 今日は七時間授業でノートの数が半端ない。よりによって、英語のノートを置いてくるなんて……不覚だ。

 教室へ戻ろう。そうと決まれば、カバンを持って二年二組の教室へ一直線だ。

 引き戸を開けて外へ出ると、吹奏楽部が甲子園の定番ソングを演奏している。

 それだけにとどまらず、グラウンドからは野球部のバット音やサッカー部のかけ声などが響く。まさに部活動の大合唱だ。

 青春交響曲に身を任せていると、いつの間にか二年二組の教室へとたどり着く。

「失礼します」

 誰かに遠慮するように引き戸を開いて、教室の中へと入った。

 グラウンドに面しているだけあって、野球部などが練習している様子がこちらにも響く。

「誰もいない……よな」

 辺りを見回してから自分の机へと向かい、物入れに手を忍ばせてノートを探す。しかし、物入れには何も入っていない。

「おかしいな、机の中に入れたはずなのに……」

 一瞬にして心臓が縮まる。もしかして、誰かが持って行ったのでは?

「あれ、優人。どうしたの?」

 背後から落ち着いた声が聞こえる。

「誰?」

 後ろを振り返ると、鹿島さんが表紙に「English Communication」と書かれているノートを持って机の上に座っていた。

 いつものだらしない格好に、バッチリと整ったメイク。広瀬が見たら「化粧を落とせ、身だしなみを整えろ」と言い出しそうだ。

「鹿島さん、どうして僕のノートを持ってるんだ?」

「今日は掃除当番だったのよ。机を運んでたらコトコトって音がしてね、それで見つけたの。うっかり置いてくなんて不用心よ」

 そう話しながら、鹿島さんは意味深な笑みを浮かべていた。何を考えているのか気になる。

「ありがとう」

「お礼なんていらないから。ところで……」

 少し間を置いて、鹿島さんは足を組み直した。

 その太ももはたるんでいるのか、引き締まっているのか判別がつかない。

 気を取られていると、鹿島さんが改めて口を開く。

「昨日のメッセージは見た?」

 一瞬だけ心臓が縮む。そこに話が向かうのか。

「見たよ。ひな……秋山さんとのことか?」

「席替えをしてからずっと親しくしてるじゃない? どういうことか、教えてよ」

 興味深そうな目で、鹿島さんが僕の顔をじっと見つめる。

「席が隣同士だから仲良くしてるだけだよ」

「ふーん」

 つまらなそうに答える鹿島さん。

「私にはそう見えないけどなぁ。正直なところ、私から逃れてホッとしてるんでしょ?」

「決してそんなことはないよ」

「嘘をつかないで。優人、目が泳いでるわよ」

「うっ……」

 言葉に詰まる。

 確かに、ホッとした部分はある。

 ラノベを読んでいたら冷たい視線で見られ、文芸小説を読んでいたら何も言わない。

 国語の授業が終わったらあれこれ話してきて、英語の授業が終わったら質問攻めだ。

 積極的な鹿島さんの態度についていけず、何度もパニックになった。

 だからといって、彼女を嫌いになったわけではない。席替えをした今となっては、ひなたちゃんと過ごす時間が楽しい。

「答えられないなら、ノートは返さないけど?」

「うっ、それは……」

「どうなの?」

 また言葉に詰まる。

 ノートを人質に取られたままではさすがに厳しい。ここは素直に答えた方が良いだろう。

「確かに、席替えをしてホッとしたところはあるさ。だけど、鹿島さんのことは嫌いじゃないよ」

「本当?」

 不機嫌そうな顔をしながら鹿島さんが問いかける。

「天地神明に誓って本当さ。後ろの席に座ってたときは何度も助けられたからね」

 確かに、目の前にいる鹿島さんのおかげで苦手だった国語もある程度は克服できた。今はひなたちゃんにもこっそりとノートの取り方を伝授している。

 僕の言いたいことが伝わったのか、鹿島さんはため息をついてノートを僕に差し出す。

「あなたがそこまで言うなら返してあげるわ。今度から気をつけなさいよ」

「ありがとう」

 鹿島さんからノートを受け取ると、すぐにカバンの中にしまった。一時はどうなるかと思ったよ。

「ところで……」

 鹿島さんが図書室へ向かおうとする僕を呼び止める。まだ聞きたいことがあるのだろうか。

「昨日チア部を見学したそうだけど、どうなの?」

 また、一瞬にして心臓が縮みそうになった。どうしてチア部の見学について知っているのだろうか。

「どうしてそのことを?」

「おとといのお昼休みの会話、バッチリ聞いたのよ」

 得意げな顔で答える鹿島さん。やはり、僕たちの会話を聞いていたのか。

 騒がしい中でよく聞き取れるなと感心する一方で、これはただで済まないという不安な気持ちが入り交じる。

「それで、どうだった?」

 鹿島さんが身を乗り出しながら尋ねる。

 ムスクの香りだけでなく、胸の谷間が否応なく目に映る。これ以上は目の毒だ。

「……もしかして、鹿島さんってチア部に興味があるの?」

 視線をそらすようにして、今度は僕が鹿島さんに尋ねる。

 いつもの彼女だとごまかすか、もしくは曖昧なままで話を打ち切るはずだ。

 早く解放してくれ、そう心の中で願いながら図書室へ戻る準備を始めた、そのときだった。

「あるわよ」

 鹿島さんがはっきりと答えた。

 いつもならばからかい半分で答えるのに、今日に限っては真剣な目をしている。

 二人だけだから、遠慮はしないということだろうか。

「実はね、中学校の頃までバレエをやって……」

 もう一歩前に身を乗り出した、次の瞬間だった。

「きゃっ!」

 鹿島さんが足を滑らせてしまった。

「うわっ!」

 慌てて支えようとしたものの、ドスン! という音とともに床にぶつかった。

「大丈夫、鹿島さん?」

「大丈夫よ……」

 気がつくと、鹿島さんが僕の上に覆いかぶさっていた。あと一歩でキスしてしまうところだ。

 鹿島さんの柔らかい髪が僕の頬にかかり、ムスクの香りが一段と強く香る。

「あっ、あの……、鹿島さん?」

「えっ? あっ……」

 お互いに顔を見合わせると、あっという間に顔が真っ赤に染まる。

 声を上げそうになった、まさにその瞬間……。

「お前ら、何やってるんだ。出来の悪い青春ラブコメ小説のマネか?」

 教室の入り口から、聞き覚えのあるイケボが聞こえる。

「ひ、広瀬!」

 鹿島さんの肩越しに覗くと、そこにはあきれた表情の広瀬がこちらを見ていた。

 何も知らない人が見たら、鹿島さんに襲われたと捉えるだろう。

 言い訳ができないな、これは……。

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