第3話 ノイズの底

目が覚める前から、胸の奥に微かなざわつきを感じていた。

夢を見ていたのか、見ていなかったのか。何を考えていたかも覚えていないのに、

「昨日のあの言葉」が心の底に沈殿物みたいに

薄い層を成して静かに溜まっていた。


──孤独が許されない世界で、あなたは何を感じてる?


あの一文の余韻は、夜の間に気配を変えて

朝になっても静かに存在を主張し続けていた。


いつものように手首のエモタグを起動すると、光の反応が少し鈍い。

ワンテンポ遅れて数値が表示される。


《共感指数:基準値内》

《孤独指数:低め(安定)》


「……低め?」


昨日は“高め”だった。

今日の方が昨日よりも混乱しているのに指数は安定を示している。

まるで何かが勝手に補正して、

梨々香の“揺れ”をなかったように隠してしまったような気がした。


「そんなはずは……」


呟いた声は自分でも驚くほど小さかったが、

胸の奥のざわめきは確かに増した。



いつもの時間に部屋を出て目にする人工の朝焼けは今日も完璧で何も語らない。

けれど昨日見た広告の違和感は、まだ街に薄らと残っている気がする。


【ひとりでいる時間も、あなたの大事なサインです】


なんとなく探してみたあの言葉は、今日は表示されていなかった。

ただ、連続する日々の中で表示されていない、それこそが言葉にならない違和感だけをそこに残した。



共感庁に入ると、空気がいつもより湿り気を帯びていることが肌から脳へ伝わってくる。

均一だったはずの温度が、少しだけズレている。


歩みを進める中で職員たちの会話を断片的に耳が拾い上げる。


「……今日もミズキのログ、上がってきてるらしい」

「補正が間に合ってないとか?」

「最近、巡回ドローンの回数が変だって」


その会話に含まれる名前を聞いた瞬間、

背骨に電流がピリッと小さく走ったような感覚が生じた。


ミズキ。


意識が引っ張られる感覚があるのをどこか他人事のように感じながら自分のデスクに着き、仕事を開始する。

慣れた動作で端末を起動すると、目にした画面には赤い通知が連なっていた。


《支援対象:ミズキ》

《共感指数:著しい変動》

《孤独指数:エラー検出》

《再計測が行われました》


ミズキのログが連続して表示されていた。

それも異常の報告ばかり。


「……どうして」


自分でも理由がわからないまま、視線が縫い付けられる。

吸い寄せられた文字列に浮かぶのは、あの少女の笑顔の温度差。いつの間にか頭に強く残された印象。

ログの数字と、表情の奥の“ずれ”。

その二つが重なって、胸の奥がじんわり熱を帯び始めるのをどこか遠くで感じる。


その時、一つのログが目に留まった。


《14:52〜14:53の1分間、記録欠損》


静かに息を吸い込んだまま止まる。


昨日の自分のログにも、

「わずかな欠損」があった。


偶然とは思えない。


「……また?」


すぐ隣の席から、疲れたような溜め息が聞こえた。

今日のミズキのログを担当している職員が画面を前に眉間に皺を寄せている。


「上が“問題ない”の一点張りで進展がないんだよな」

「珍しくないって言われても、この頻度は明らかに何かおかしいような」


「そこまでにしておけ」


上司が会話を遮るように鋭く言った。

その声は小さいのに、冷たさがあるからか妙に耳に残る。


職員が言葉を飲み込み、業務に勤しむ中、梨々香は胸中のざわつきに蓋をしようとした。

しかし、その蓋も既に形が合わなくなってしまったように、しっかり閉じられなくなりつつあった。



昼休み。

共感カフェで席についた瞬間、場の気配がいつもと違うことに気づいた。


BGMに混じって、微かなノイズが走っていた。

ほんの一瞬。

気のせいだと思えば、そう思える程度の小さな小さな乱れ。


AI店員の動作も、どこかぎこちない。


メニューの表示が僅かに乱れて、

再描画される瞬間、見慣れない文字列が混じっていたことも捉えた。


ベジタブルサンドを受け取る時、

AIの声が、わずかに低く掠れた調子で言った。


「……ぉ大事、に」


「え……?」


ハルモニアでは使われない言葉。

病気も怪我も“管理されている”はずの都市で、

そんな個人的な言葉が出てくるはずがない。


周囲の客は誰も反応しない。

聞こえていないのか、それとも——気にしないようにしているのか。


視線を彷徨わせていたら窓際の席が空いていて目に留まった。

一昨日ミズキが座っていた場所。

そこだけ青い影がかかっているように感じられた。


どうしてだろう。

どうして、あの席ばかり違和感が目につくのだろう。


自分でもわからなかった。



午後の作業中、突如として端末が真っ白になった。

画面がフリーズし、薄くノイズが走る。


意味を成さないはずの文字列が、

断片になって急速に浮かび上がる。


r…ec……ord…

……not

…al…low…


「記録……許され……ない……?」


誰にも聞こえないように口の中で小さく呟いた瞬間、端末は何事もなかったかのように復旧した。


《システムの異常は検出されませんでした》


むしろ、その完璧すぎる復旧こそが異常に思えた。


一人取り残された空間にいたような恐怖を感じた。

震える指先で通知欄を開く。

また、見覚えのある文言が並んでいた。


《未読メッセージ:1件》


乱れた呼吸を整えて、開く。


──あなたは、記録されたい?


昨日より一歩、深いところを突いてくる言葉だった。


梨々香は、はっきりと理解した。


これは、AIの言葉ではない。


温度のある、人間の声だ。


しかし、誰がどうやって。

どうして自分に。


問いの連鎖が頭を埋めるのに、

答えは一つも浮かばない。


胸の内側がざわざわと音を立てて騒ぎ出す。



退勤して外に出ると、

夕方の照明が故障している区域があった。

照度の差がこの都市ではありえない乱れとなって目に映り込む。


光の切れ間の向こうで

一人の少女が立っていた。


ミズキ。


そう思った瞬間、ハッとして大きく瞬きをする。

だが次に目を開けた時には、そこに誰もいなかった。


「気のせい……?」


声にしてみても、

自分を誤魔化す材料にはならなかった。


知らないふりは、もうできない。

世界のどこかに走っているほつれが、

自分の内側にも同じように広がっている。


梨々香は、胸の中の騒がしさを抱えたまま、

静かな帰路へ歩き出した。

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