第5話 引っ越しはお祭り
出会った日の翌日。土曜日。
雲一つない青空が、二人の門出を祝福しているかのようだった。
リリアとみるくは、昨日契約したばかりの「メゾン・ド・ソレイユ 701号室」の前に立っていた。
リリアが、詩乃からすでに受け取っていた鍵を差し込み、回す。
カチャリ、という軽い金属音。
「「…………」」
ドアを開けると、昨日見たばかりの、まだ何もない空間が広がっている。
がらんとしたフローリング。壁一面の大きな窓。
だが、昨日と決定的に違うことが一つあった。
それは、リリアの隣に、みるくが当然のように立っていること。そして、ここが今日から、二人の「家」になるということだ。
「入りましょうか、みるくさん」
「うん!」
二人が一歩足を踏み入れた、その瞬間。
ピンポーン、と、エントランスのインターホンが鳴った。
「早いですわね」
リリアがモニターを見ると、そこには複数の作業服の男たちと、その中心で見事に彼らを統率しているメイド・詩乃の姿が映っていた。
『お嬢様。お荷物、第一便のお届けに上がりました』
「ありがとう。よろしくお願いしますわ」
リリアがオートロックを解除すると、まるで訓練された特殊部隊のように、男たちが次々と段ボールや、厳重に梱包された家具を運び込み始めた。
「えっ、えっ!?」
みるくが目を白黒させている。
「リリアちゃん、これ……全部、私たちの?」
「ええ。昨日のうちに、わたくしの生活必需品と、みるくさんが必要になりそうなものを、詩乃にリストアップさせて全て発注しておきましたの。家電も、家具も、食器も、全て最高級品ですわ。私たちの甘やかし生活に、何か足りないものがあったら教えてくださいませ」
巨大な冷蔵庫。ドラム式洗濯乾燥機。大型テレビ。デザイナーズソファ。そして、寝室には、当然のようにキングサイズのベッドフレームと最高級のマットレスが運び込まれていく。
リリアは、その中心で、お人形のように優雅に、しかし的確に指示を飛ばす。
「ソファはリビングの窓際に。テレビは対面。冷蔵庫はキッチンの奥。……ああ、そのベッドは、寝室の真ん中へお願いしますわ」
みるくは最初驚き、その次に納得し、最後に喜びを覚える。
私の
まさに、リリアの「インフラ担当」としての能力が爆発している。
物質的な生活の土台が、ものの1時間ほどで瞬時に形成されていく。
みるくは、その光景に圧倒されていたが、やがて、自分の役割を理解して瞳を輝かせた。
(すごい…リリアちゃんが、「生活の器」を全部用意してくれた)
(だったら、私は、この器に「命」を吹き込んで、完璧な甘やかし空間にしてあげる!)
興奮が、みるくの胸を満たしていく。
早く、あの完璧なキッチンに立ちたい。
早く、あのソファでリリアを撫で回したい。
早く、あのベッドでリリアを抱きしめてあげたい。
***
午後になると、嵐のようだった業者たちは、段ボールの山を残して綺麗に撤収していった。
詩乃だけが残り、リリアに深々と頭を下げる。
「お嬢様。家具・家電の設置、インフラ(電気・ガス・水道・ネット)の開通、全て完了いたしました。こちらが、予備の鍵一式と、各保証書でございます」
「ご苦労さま、詩乃。完璧な仕事ですわ」
「……桜庭様」
詩乃は、みるくに向き直った。
「お嬢様のことを、どうぞよろしくお願いいたします。あの方の弱みは、依存体質(良性)であること。あの方の強みもまた、依存体質(良性)であることです」
「はい。わかっています」
みるくは、まっすぐに詩乃の目を見て頷いた。
「私、リリアちゃんを世界で一番幸せにします。私が、リリアちゃんを甘やかし尽くしますから」
その言葉に、詩乃はふっと、ごく微かに微笑んだ。
「……お嬢様がはじめて見初められた方。信頼申し上げております。では、わたくしはこれにて。何か困ったことや必要なものがありましたら、直接にでもお嬢様を通してでも、ご連絡ください」
詩乃は、静かに退室した。
シーン、と静まり返った部屋。
残されたのは、リリアとみるく、そして、これから開梱される無数の段ボールの山。
二人の、本当の新生活が、今、始まる。
「さあて…」
みるくは、腕まくりした。いつの間にかジーンズ生地のエプロンまでつけている。
「どこから片付けようかな。…まずは、やっぱりキッチンだね!」
「(わくわく)わたくしは、何をすればよろしいです?」
「リリアちゃんは、私のそばにいて、私を応援しててくれる?」
「(ぱああっ)はいっ! お任せください!」
みるくは、まずキッチンの段ボールを開け始めた。
中から出てくるのは、リリアが「なんとなく」で選んだ最高級の鍋、フライパン、包丁セット、そして、二人で使うには多すぎるほどの美しい食器類。
みるくは、それらを、まるでパズルを組むかのように、完璧な生活導線を計算しながら、ほいほいとシステムキッチンの棚に収めていく。
「お砂糖と塩はこっちね。お皿は、リリアちゃんでも取りやすい、この高さにしよう」
「フライパンはコンロの下…うん、使いやすい!」
リリアは、そのテキパキとした、しかし、どこまでも優雅で楽しそうな、みるくの背中を、ソファの上からうっとりと眺めていた。
(すごい…みるくさんが、あっという間に、この部屋に「生活」という新しい匂いを吹き込んでいく……。やはり見込んだ通り、いえそれ以上の逸材。私と同い年で、その能力、詩乃に匹敵するのでは?)
もう、新築特有の、あの無機質な匂いは薄れていた。
みるくが持ち込んだ、荷物(彼女の私服や、愛用のエプロンなど)から漂う、柔らかく甘い石鹸のような匂いが、部屋の空気に溶け始めている。
「みるくさん……すごいですわ。まるで魔法使いみたい」
「(振り返り)えー? そうかな。でも、楽しいよ。リリアちゃんと、ここで毎日ご飯食べるの想像しながら片付けてるから」
「毎日…」
「うん。…あ、そうだ。リリアちゃん、ちょっとこっち来て」
リリアがソファから降りて、みるくのそばに駆け寄る。
「これ、どっちがいいと思う? 今夜使うマグカップ」
みるくが、白くて丸いのと、水色で少し背が高いのを見せる。
「わたくしは…みるくさんとお揃いがいいですわ」
「(にこっ)だと思った。じゃあ、これ。ペアの、この白いのを、二人の『いつもの』にしちゃおう」
「はい!」
「二人のいつもの」。
その言葉の響きだけで、リリアは幸福のあまり溶けてしまいそうだった。
みるくが棚に手を伸ばす。
リリアは、気づけば、その背中にそっと抱きついていた。
「…わっ」
みるくの体が、優しく跳ねる。
「……みるくさん。応援、してますわ」
「(くすくす)…うん。ありがとう。あったかい。でも、これじゃあ片付かないかな?」
「(首をふるふる)…もうちょっとだけ。充電、ですわ」
「はいはい。充電、最優先」
みるくは、作業の手を止め、リリアの頭を優しく撫でた。
「ふわあああ」
(なんですの、この手は!)
「ふふふ」
「……はっ!一瞬、意識を持って行かれました。みるくさんに、みみっともない姿を」
「うん。リリアちゃんの緩みきった顔、私にはたくさん見せてね(なでなで)」
「ふわあああ(ま、また!)」
これが、二人の「生活」の基本形。
甘やかしたいみるくと、甘えたいリリア。その土台が、この瞬間に完成した。
***
みるくの最適化された段取りと動作によって、夕方になる頃には、あれほどあった段ボールの山は、嘘のように片付いていた。
リビングにはふかふかのソファが置かれ、キッチンは完璧な状態になった。
最後に残ったのは、寝室。
二人は、キングサイズのベッドに、真新しいシーツを広げる。
「うわあ…ふかふか…」
「最高級のものですから」
二人でシーツの角を合わせ、掛け布団にカバーをかける。
共同作業。その全てが、まるで祝祭のダンスのように楽しい。
そして、最後に、二人はリビングの大きな窓に向かった。
詩乃が用意していた、遮光性の高いミルクティー色のカーテンだ。
フックをレールにかけ、二人で両端を持つ。
「「せーのっ」」
サー、という静かな音を立てて、カーテンが閉まる。
窓の外の景色が隠れ、部屋の光が、室内の柔らかな間接照明だけになる。
世界から切り離された、「二人の巣」の完成だった。
幸福安定の空気が、部屋を満たす。
二人はどちらともなく、完成したばかりのソファに腰掛けた。
自然と、みるくがリリアの肩を抱き寄せ、リリアがみるくの肩に頭を乗せる。
完璧な、パズルのピースがハマる音。
「…ふう。終わったね。リリアちゃん、お疲れ様」
「ほとんど、みるくさんが片付けてしまいましたが」
「えへへ。これも、リリアちゃんを甘やかす一環だから、ね」
みるくは、リリアのサラサラの髪を優しく撫でた。
「これからよろしくね、リリアちゃん」
「(うっとりと目を閉じ)…はい。わたくしのほうこそ」
「うん」
「あの、みるくさん…」
「ん?」
「わたくしたち…」
「私たち?」
「幸せにしましょうね、お互いをお互いに」
「!…うん。世界で一番、幸せになろうね」
リリアは、もう、言葉が出なかった。
ただ、みるくの豊かな胸に顔をうずめる。
みるくは、その小さな体を、優しく抱きしめた。
新居の、新しい匂いの中で、二人の「甘やかし生活」の、本当の初夜が、静かに始まろうとしていた。
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