第40話 潮風の午後、水着の秘密

 昼下がりのリューグーは、潮の匂いを含んだ風が穏やかに吹いていた。

 復旧に必要な作業は午前でほぼ終わり、午後は自由時間。

 街の人たちが気を利かせて、海沿い区画を丸ごと貸し切ってくれている。


(昨日のあの地獄みたいな戦場から一日でこうなるんだから……人の生活って強いなぁ)


 そんなことを考えながら、私は砂浜へ続く階段を降りた。

 波打ち際が光っていて、夏の名残みたいに眩しい。


 そして――明け方の氷雨との会話を思い出す。


(『ラナは―――今から―――――みたいでね』……あれを聞いたときの衝撃は忘れられない)


 海が初めてで、水着まで準備して、ずっと楽しみにしていた。

 あのうわつきの理由が、それ。


 真面目に悩んで損した、という気持ちが半分。

 可愛すぎて笑ったのが半分。


(さて……そろそろ来るはずだけど)


 砂浜へ足を踏み入れた瞬間――


「クー子ーっ!!」


 元気すぎる声が波音を突き破った。

 私は反射的に顔を上げ――そして固まった。


「どうどう!? どう!? 見て見てっ!」


 ラナが、満面の笑みで両腕を広げながら走ってきた。


 青紺のビキニ。腰には軽い布スカート。

 肩を揺らしながら 「見て!」と近づいてくるのが、もう……なんというか。


(わ……思ったより似合ってる……というか……眩しい……)


 視線を逸らすと、背後で氷雨が小さく笑った。


「クー子……顔が赤いよ」

「赤くないわよ!」

「赤いよ……日の反射じゃないし」


「ちょ、ちょっと! なんで氷雨が煽るのよ!」

「だって……言いたくなっただけ、かな」

 氷雨が目を細める。

 普段の静けさと違い、ほぼ確信犯の顔だ。


 そんな私たちに、ラナは満面の笑みのままキラキラ近寄ってくる。


「クー子、どう!? 似合う!? ほらっ! ほらっ!」


「近い近い! 分かったから落ち着きなさい!」


 私は両手でラナの肩を押し戻す。

 ……が、彼女は全く引かない。むしろ迫ってくる。


「ねえねえ、氷雨! どう!? 変じゃない!? これ変じゃないよね!?」


「ううん。ラナ、すごく可愛いよ」

「ほんとっ!? やったぁ!!」


 あまりにも素直に喜ぶので、からかいがいがあるどころか、なんかもう……微笑ましさが勝つ。


(……初めての海で水着。まあ、これくらい浮かれるよね)


「しかし……陽気じゃのう」


 リディアが日傘を差しながらゆっくり近づいてきた。

 白い軽装に薄布の羽織り。落ち着いた色合いなのに、妙に艶っぽい。


「お主、その胸……海に浮くのではあるまいか」

「浮かないよ!? 浮かないからね!?」


 ラナが慌てて胸元を押さえる。

 氷雨は小さく肩を揺らして笑った。


「僕、その……ラナが浮いたらラナごと拾うよ」

「どんな状況よそれ!」


 私は突っ込みつつ、砂浜の中央へと歩き出す。


「まぁ……楽しむなら今のうちよ。夕方には街へ戻らないといけないし」


「分かってるってば!」


「では、まずは泳ぐかのう」

「いや、リディアさん絶対泳げないでしょう」

「何を根拠に申すかえ!?」


 わちゃわちゃしながら歩いていると――視界の端で、砂浜の入り口に三つの影が見えた。


 エルド、オーリス、そしてトゥリオ。


「あ、来た」


 私は手を振る。


 エルドは軽装で、外套を脱いでいるぶん爽やかに見えた。

 オーリスは珍しく肩を出した簡易術衣で、見慣れない格好だが似合っている。

 トゥリオは……いつもどおりの鎧に近いが、砂浜仕様なのか膝周りが軽い。


 エルドは近づいてくると、私たちを順に見回し――


「……なんというか、賑やかだな」


「隊長! 見て見て! 水着!!」


「ラナ。落ち着け。いや、落ち着いても無理か……今日は」


 エルドがほんの少し笑った。

 その柔らかさに、私は胸が温かくなる。


「任務は終わった。しばらくは休め。……全員、だ」


 それを聞いたラナが、ぽんっと跳ねた。


「じゃあじゃあ、遊ぶよ! 泳ぐよ! 氷雨! クー子! リディアも!」


「ワシは泳ぐとは言っとらんぞ!」


「逃がさない! リディア! ほらっ、行こう!!」


「ひゃ、ちょ、ちょっと待ていラナ!? 痛い痛い、腕を引くでない!!」


 氷雨が肩を震わせて笑う横で、私は思わずため息をつく。


(相変わらず、騒がしい……でも、これくらいがちょうどいい)


「ほらクー子も行こうってばー!」

「はいはい、今行くから……!」


 波音と笑い声が混ざり合って、

 昨日の緊迫がまるで嘘みたいに遠のいていく。


(今日は……この時間を、ちゃんと楽しもう)


 私は杖を砂に置き、波打ち際へ駆け出した。


 潮風の下――みんなの笑顔が並ぶ風景は、

 戦場よりもずっと、ずっと眩しかった。



 波打ち際は、午後の光を受けてきらきらと揺れていた。

 海風が頬を撫で、足元にはひんやりした波が寄せては返す。


「よーし! 泳ぐよ!」

「ラナ、ちょっと待っ――」


 言い終わる前に、ラナは砂浜を蹴って海へ駆け出した。

 勢いそのままに、ばしゃん、と盛大に水しぶきが上がる。


(……嫌な予感)


 ちょうど次の瞬間。


「ひっ……冷たっ!? わ、わ……あれ……あれ……?」


 ラナの足が、するり、と沈んだ。

 波が強いわけではない。ただ単純に――


「ラナ、泳げないの!?」


「お、泳げると思ってたの!!」


(思ってただけかー……)


 私は額を押さえるが、もう遅い。

 ラナはばしゃばしゃ手足を動かして必死に海面を掴もうとしている。


「まったく……」


 横でトゥリオがため息をついた。

 普段の鎧を外していた分、動きが軽い。ざぶざぶ海へ入り――


「……ほら、掴まれ」


「た、助かったぁ……ありがとう、トゥリオ……!」


 ラナがしがみつくと、トゥリオは微かに眉を下げた。


「『できる』と『できると思ってる』は別物だぞ」


「う……耳が痛い……」


 氷雨は、足首あたりまで海水に浸かりながら静かに言う。


「ラナ、僕が言ってた『陽気すぎるのは困る』って……こういうこと」


「うっ……それも耳が痛い……!」


 ラナはトゥリオに引かれながら砂浜へ戻り、私の前でどさっと座り込んだ。


 その顔が、なんとも情けなくて可愛い。


「……まぁ、慣れればすぐよ。深追いしなかったのは賢明だったわね」


「クー子ぉ……なんか慰め方が雑……」


「事実だから仕方ないでしょ」


 ラナがほっぺたを膨らませていると、

 オーリスが控えめに距離を保ちながら近づいてきた。


「……ええと。ラナさん。泳ぎを覚えたい場合は、呼吸の整え方から――」


「えっ!? オーリスが教えてくれるの!?」


「え、ええ……まあ……」


 オーリスが少しだけ頬を赤らめる。

 リディアが袖で口元を隠しながら、くつくつ笑った。


「儂は海水を飲まぬよう祈っておるぞえ」

「縁起でもない!」


 私は小さく息を吐き、砂浜に腰を下ろした。


(みんな元気だ。……本当に、よかった)


 昨日の戦場での緊迫感が嘘のようで、胸の奥がほんのり温かくなる。


「クー子、入らないの?」


 氷雨が影を落として覗き込んできた。


「……入るわよ。ちょっとだけ休んでただけ」


 私は立ち上がり、海へ向かって歩き出す。


 波はゆるやかで、足に触れる水は冷たくて心地いい。


「それじゃあ、いくよ」


 私は軽く跳ね――波の中へ飛び込んだ。


 水の感触が一瞬全身を包み込み、耳の中で静かな泡の音が弾ける。


(……気持ちいい)


 顔を上げると、氷雨がすぐ隣に立っていた。


「クー子、泳ぐの上手だね」


「子どもの頃に少しだけね。久しぶりにやったけど……案外覚えてるものよ」


「ふふ……僕は見てるだけでも充分かな」


 一歩下がって水を蹴る氷雨。水面が静かに波紋を描く。


 その奥で、ラナがまたはしゃぎ始めた。


「オーリスさん! そこそこ! そっち行くと深い!」

「落ち着いてください、ラナさん……! まずは立ち姿勢を――」

「立てなーい!!」


 トゥリオがまた助けに行き、リディアが杖で海面を突きながら見守る。


 笑い声と波音が混ざり合い、穏やかで賑やかな午後が続いていく。


(……みんな無事で、笑っていられて。

 本当に、それだけで十分だと思う)


 私は青い海を眺めながら、胸の奥でそっと息をついた。



 海で散々はしゃいだあと、私たちは砂浜へ戻って一息つくことにした。


 敷いてもらった布の上に座ると、午後の日差しと潮風が心地よく肌に触れる。

 ラナは早々に寝転んで、濡れた髪をバサバサ振りながらもご機嫌そのもの。


「ふへへ……海っていいね……楽しいね……最高だね……」


「語彙力どこ行ったの……」


 呆れ半分で言うと、氷雨が微笑んで私の隣に腰を下ろした。


「クー子も楽しそうだったよ。……少し、子どもみたいで」


「ちょっと、それどういう意味?」


「褒め言葉だよ。僕の中での」


 氷雨のこういう言い回しは、時々反則だと思う。


 ひとしきり休憩したあと、ラナが勢いよく起き上がった。


「ねえ! 遊ぼ遊ぼ! なんかのやりたい!」


「ざっくりね……」


 何が海っぽいのかは分からないが、とりあえず何かはしたいらしい。

 するとトゥリオが黙って立ち上がり、適当な大きさの岩を拾ってきた。


「……これでどうだ」


「なにそれ、スイカ割り?」


「重すぎるだろう」


 ラナは棒を構えて真剣な顔をするが、その岩はどう見ても硬すぎる。

 リディアがため息を漏らし、杖を肩に当てる。


「儂が焼けば柔らかくなるぞえ?」


「焼き石割りは違うでしょう!」


 結局、競技はもう少し穏当な方向に落ち着いた。

 氷雨が海風を軽く操り、布玉を風で浮かせて――


「これを落とさないように回すゲーム、かな」


「わ、面白そう……!」


 布玉はふわりふわりと揺れながら、私たちの間を回る。

 ラナが追いかけ、トゥリオが無言で受け取り、リディアが足で軽く蹴り返し、氷雨は風で絶妙に軌道を変える。


(……なんだかんだで、みんな楽しんでる)


 布玉が飛んできたので、私は軽く両手で受け――その勢いのまま返そうとしたところで。


「っ――!」


 布玉が、思ったよりも高く浮いた。


 次の瞬間、しゅっ、と矢のように飛ぶ影。


 エルドだ。


 片手で布玉を掴み、そのまま無理のない体勢で着地する。

 動作は静かだが、無駄のない綺麗な軌跡だった。


「……驚かせたな。返すぞ」


 そう言って布玉を軽く投げて寄越す。


「もう……驚くに決まってるよ。なんでそんなに滑らかに動けるの?」


「落とさないように、という条件を決めて、最短経路で取る」


 それは、言われてみればそうなんだけど。


「……そういう問題じゃないのよね」


 ラナが感心したように見上げる。


「隊長、なんか今日ちょっと優しめじゃない?」


「そうか?」


「うん。なんか……安心した、みたいな」


 エルドは一瞬だけ私を見る。

 その視線は短く、けれど柔らかかった。


 そしてごく自然に、言った。


「――よく、無事で戻ったな」


 私は一瞬言葉を失った。


 淡々としているのに、どうしようもなく温かい。

 それを隠すように、エルドが砂を払った。


「……すまない。今のは、少し不器用だった」


「ううん。今ので十分よ」


 本当に、十分すぎる。


 日が傾き始め、空が橙色に染まっていく。

 海は風の動きに合わせてゆるく色を変え、波間で光が小さく揺れていた。


 皆、それぞれの場所から夕焼けを眺めている。


 ラナは砂浜に座り込んだまま、ほうっと息を漏らしていた。


「ね……海って、こんなに綺麗なんだね」


「うん。思ったより静か」


 氷雨が隣で目を細め、リディアは少し離れたところで杖に寄りかかって海風を浴びている。遊びの輪には参加しなかったヴァルクが、沈む陽の方向をじっと見ていた。


 その背中は穏やかで、いつもより少しだけ柔らかく見える。


(……やっと、日常が戻ってきたみたい)


 私は砂浜に座り、膝を抱えて夕陽を見つめた。


 金色に染まる海の向こうには、まだ未知の揺らぎや脅威がある。

 レイグレンの影も、完全に消えたわけじゃない。


 それでも――


 今は、この時間を大切にしたい。


「……明日も、ちゃんと前に進めるといいわね」


 潮風がそれをさらっていく。

 戻ってきたのは、静かで、穏やかな波音だけだった。

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