第36話 アラブラハム・レイグレン④

 脱出の為の手掛かりとして、まず最初に広間を詳しく調べている間、リディアが短く杖を回しながら疑問ともつかない感想を口にした。


「分身も残響も……消えおったな。思ったよりあっけないのう」


「でも、終わったって感じはしないね」


 私は柱の根元へ近づき、先ほどの戦闘中「じぃ……」と音を立てて光りかけた呪具を見下ろした。円形の金属片。表面に細い線刻が走り、中心だけが黒く濁っている。


 ――結局、何も起きなかった。


 発動の直前で分身が消えたからなのか、あるいは最初から攻撃目的じゃなかったのか。


(……判断がつかない)


 呪具の周囲には、爆ぜた跡のような焦げ目も、魔力の残滓もない。

 ただこれから何かをしようとした痕跡だけが残っている。


「クーデリア」


 ヴァルクがしゃがみ込み、金属片に手をかざした。

 彼の周囲の呪具反応がわずかに揺れる。


「これは攻撃じゃない。構造も、術式の流れも、攻撃行動の形じゃない」


「観測……?」

「か、もしくは。位相のずれた領域を広く読み取るための仕掛けだ……ただ、機能の詳細までは分からん」


「じゃあ――やっぱり攻撃しなかったってこと?」


 ヴァルクは顎に指を添えたまま、少し考えるように目を細めた。


「……攻撃する気がなかった、という可能性は高いな。

 ここまでの干渉の仕方からして」


「やっぱり……」


 レイグレンは、あれだけ好き放題喋り続けていたのに、こちらへ直接的な害意を向けてくることは一度もなかった。挑発だけは何度もしてきたけど、それも何をどう使うかを観察しているようにしか見えなかった。


(実験台……)


 その単語が、胸の奥に重く沈む。


 私は顔を上げ、機能停止した黒い柱を見渡した。一部崩れた柱の内部は中空で、細い管のような構造が複雑に絡み合っていたらしい。瘴気と潮の境界を作り、鐘の音を生んでいた装置。それらはすべて今、沈黙している。


「……帰ろう。まずはここから出ないと」



 ◆◇◆


 レイグレンの視座が揺らぐ。潮底拠点の分身が崩壊した瞬間、遅れて戻ってきた観測ログが、盤面の光として立ち上がる。


 彼は椅子にも座らず、盤の前に立ったまま、淡々と指先を滑らせた。


「ふむ……」


 光が三つの層に分かれる。

 紫華、呪具師、大魔導士――三名の反応が、別々の線として記録されていた。


 彼はまず、最も関心の大きい者へと視線を落とす。


 クーデリア・リーフィス。《紫華》。

 位相ずれ領域に対する干渉が、予想より深い。


 位相ずれ直後の斬属性付与による攻撃――

 あの一撃で、境界面の振幅が三割ほど沈んでいる。


 レイグレンは小さく顎を撫でた。


「想定よりも押すのではなく、均す方向に働きますか。

 これは研究対象として秀逸でございますねえ」


 彼の声に、喜悦よりも純粋な観察者の熱が滲む。


「それに二属性同時の付与!

 古代期の束ね文字ですねえ……触媒を消費しているあたり間違い無いでしょう」


 呪具には意志が宿り、その意思が付与を拒絶する。だというのに、だ。他二人の補助があり、不安定になっていたとはいえ、分身の維持線は上書きされ、断ち切られてしまった。


「まあ呪具など、所詮はただの表層の揺らぎです。

 それこそ掃いて捨てる程の……ねえ。

 呪具師として極めた先は、案外つまらないものですなあ」


 次に指先が滑ったのは、ヴァルクの反応線だ。


 呪具師ヴァルク・ゼノス。

 媒介層を即座に切断した手腕、呪具の知識・観察眼、どれを取っても他の金位級と比較して十分に高い。やはり有望、目を付けていた介がある。


「これは本国の基準でも上位に入るでしょうねえ」


 淡々としながらも、確かな興味と狂気が宿るその眼はギラギラと輝く。



 そして最後に、大魔導士リディア・グレイス。


 彼は盤に映る赤熱の揺れを見て、息を吸った。


「酸欠型の高位火魔法に、分身の外殻を焼き尽くした圧倒的な熱量……あれは希少です。炎熱系に特化した聖遺物装備の力もあるでしょうが、こちらもまた金位としては非常に優秀ですねえ」


 分身越しに観測した限りでも、あの炎は特筆すべきと断じるものがある。


 レイグレンは頷く。


「――実りある観測でしたとも」


 盤の表層が沈み、次に潮瘴収束帯のデータ層が開く。

 リューグー周辺の海域を覆っていた流れが、可視化されていた。


 魔物の集積位置。潮と瘴気の反転圧。

 境界の反応閾値。呪具の介入による流入量の偏り。


 それらすべてが、分身経由の観測で鮮明になった。


「よろしい……これにて潮底拠点での観測は完了でございます。

 早々に廃棄で良いでしょう。はい、さようなら。」


 先ほどまでの観測対象のことなどは微塵も気にせず、拠点を廃棄するための起爆装置を一切の躊躇いなく起動させるあたり、この男はやはりどこかが狂っているのだろう。


 ――しかし、装置に反応はない。


「ああ……これは、先ほどの戦闘で起爆装置が破壊されてますねえ

 物理的に距離は離していた筈なんですがあ、これは付与の影響ですかねえ?

 ……仕方がない、後で呪具だけでも遠隔で壊しておきますか」


 レイグレンは棚に置かれていた筒状呪具を手に取る。

 分身の残した記録は、既に全てこちらに退避済みだ。


 筒から光が瞬き――飛び出した粒子が盤に染み込んでいく。

 潮底拠点の記録がすべて吐き出されると、筒の光はゆっくりと収束して消えていった。


「……本命の模倣呪具は起動の直後に停止しましたか」

 相変わらず衝撃に弱いと漏らしながらその完遂率を見やる。


「外観データは完遂、それ以外が20%……これでは戦力としては使い道がありませんねえ、本気の敵意が起動条件なのでまず完遂しない」


「まあ、それでも有名人のには需要がある。金というものは異端者には有用ですからねえ……裏で捌かせて頂きましょう。……ついでに残りの方々も、外観データだけでも集めておきましょうか」


 クーデリアとリディアを思い浮かべてからもう一度盤をいじる。

 今度は新たな映像が立ち上がった。


 リューグー外縁。

 鐘の音こそ無いが、乱潮、押し寄せる魔物。

 その中で、前衛の三人が並び立っている。


 レイグレンは、僅かに目を細めた。


「……おお」


 まるで玩具の箱を開けた子どものような、静かな愉悦が頬に滲む。


「これはこれは。《紫煌》エルド・フェルナー殿ではありませんかあ。

 いつ見てもお見事ですなあ……あの弓さばき」


 群れの突進を正確に撃ち抜き、

 海面すれすれの軌道で矢が滑るように走る。


 その軌跡の揺らぎは――

 潮流と瘴気の反転を読む動き。


 レイグレンは感嘆のように息を漏らした。


「環境の流れをここまで読む前衛は、滅多におりませんよお。

 さすが紫位――星の揺らぎの端を感じ取れる。

 実に興味深い……」


 つい、と指先が別の線へ移る。


 盾を構え、砲弾のような魔物の突撃を真正面から受け止めている男。


「そして、《紫嶺》トゥリオ・ハルヴァ殿……

 あれは堅牢などという次元ではありませんなあ」


 一撃の受けを、彼は寸分違わず正しい角度に落とし込む。

 盾の縁、足の重心、肩の回転、装甲の軋み――

 あらゆる要素が揺らぎを吸収する向きに整えられている。


「……ふむ、こちらもまた面白い。

 肉体でを受け流す技術ですか。

 理層の波形に沿う動き……これは、珍しい。」


 まるで研究対象そのものだ。


 レイグレンは映像から視線を外さないまま、口元を歪ませる。


「紫位は、やはり逸材ですなあ……

 これではあ、分身体ごときが敵うはずもありませんとも」


 だが彼の視線は、そこでは終わらなかった。


 魔物の群れの影をかき分けるように、

 きらり、と斜めに走る銀光。


 海面の乱反射でもない、幻でもない。剣そのものの軌跡。


 レイグレンは、その一閃が持つを、見逃さなかった。



「……ラナ・シエル。【神剣ラグナ】」



 嗤いが収まり、深くゆっくりと霧散する。



「神器の適合者……そう、それだ。

 核層の断片を弾くような見事な剣筋……

 本当に、美しい、そして……」





 興味はラナ本人ではない。

 彼女の剣――神器そのものに向けられていた。


 掌を軽く合わせる。


 その一音が、なぜか戦場の喧騒に混じって響くようにさえ感じられた。


「……さて。

 面白い駒が、ずいぶん揃ってきましたなあ」


 嗤い声が、盤面の光にゆっくりと滲んだ。


「星の揺らぎも……神器も……紫位の探索者も……」


「すべて、整えるべき方向が見えてまいりましたとも――」


 光がわずかに明滅する。

 嗤いが暗く沈み込む。

 その視座は、まだ見ぬ次の局面へ向いていた。

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