外伝 黎明の翼 ―紫華―
夢を見ていた。
柔らかな光が視界を満たし、磨かれた木机の感触と薬草の香りが漂う。
かすかに聞こえる魔力炉の唸り、子供たちの笑い声。
――どこか懐かしく、けれどもう戻れない時間。
まだ探索者ではなかった頃。
クーデリア・リーフィスは、ただの付与師だった。
教導課で理論を教え、災害時には救助班に加わり、地盤や壁面を一時的に強化する。都市施設の魔導回路が不安定になれば、修復班に同行して応急での安定化を施す。
付与とは、永遠を与える術ではない。
その素材が持つ在り方や魔力の流れに干渉し、
その性質を一時的に書き換えるための手段だ。
魔力の流れを整える――それが彼女の仕事だった。
それでも、彼女にとっては十分だった。
誰かの暮らしを守り、明日へ橋をかける。
その小さな誇りが、彼女の生き方だった。
──その日までは。
「クーデリア・リーフィス――君で間違いないな」
夕刻、作業を終えて帳簿を片づけていた工房に、低く落ち着いた声が響いた。
振り返ると、濃紺の髪と琥珀の瞳を持つ男が立っていた。
軽装の防具を纏い、背筋の伸びた姿。
名は――エルド・フェルナー。
当時、既に赤位の探索者で、少人数制限のダンジョンを単独で攻略することで知られていた。
「街の修復任務で名を見た。
魔導回路の応急処置、地盤強化……君の付与術は、補助に留まらない」
「私は探索者ではありません。現場対応の付与師です」
「それでも構わない」
エルドは、工房に並ぶ修理部品を眺めながら続けた。
「俺は今、新しい隊を作っている。
名は『光焼く翼』。――定員制の中で最も高密度な連携を目指す、
精鋭単位のチームだ」
「光焼く翼……?」
「イカロスの翼の話を知っているか?」
「太陽に近づきすぎて墜ちた――過ぎた望みは身を滅ぼすという教訓ですね」
「だが俺は、少し違うと思っている」
エルドは小さく息をつき、穏やかに微笑んだ。
「もし彼の翼がもっと強靭だったなら、太陽に触れられた。
足る強さがあれば、願いは叶う。
それを証明したくて、この名をつけた」
静かな熱を帯びた言葉。
その真っ直ぐさに、クーデリアは目を逸らせなかった。
「君のような付与師がいれば、俺たちの翼は溶けずにすむ。
一度でいい、共に来てほしい」
誘いは唐突だった。
けれど、偽りがないのは分かった。
「……危険ですよ。ダンジョンは、理屈が通じない場所です」
「だからこそ、理屈を超えた技が要る」
胸の奥で、何かがわずかに震えた。
「……分かりました。一度だけ、です」
エルドの目がわずかに和らいだ。
「それで十分だ」
──その一言が、彼女を<
国家探索者登録の日。彼女は緑位からスタートした。通常は黒位からの始まりだが、今までの活動実績とエルドの推薦が評価されたのだ。
しかし最初の探索は、惨憺たるものだった。
詠唱は遅れ、配置も遅れ、魔力の流れを見誤った。
それでも誰も責めなかった。
「上出来だ。次はきっともっと上手くいく」
エルドはただ、穏やかに笑った。
その一言で、彼女の中に小さな火が灯った。
彼女は戦場を観察した。
仲間の魔力の癖を覚え、武具の導線を把握し、呼吸を合わせた。
やがて、彼女の付与は戦闘の起点として機能し始める。
一撃を支え、一瞬を繋ぐ。
誰かが振るう刃の、その一閃を通すために。
二年後、彼女は金位に昇格。
更に一年後、紫位への推薦が提出された。
国家報告書にはこう記されている。
『現存する全属性での付与を確認。
意志なき魔力に対し、上書きと調和を両立。
実戦下での運用において他の追随を許さず。』
それは、付与師としての到達点のひとつだった。
聖遺物級のように、意志を持つ魔力に干渉はできない。
だが、それ以外のすべて――物理でも、魔法でも、対極となる属性でさえ――
彼女は一時的に上書きし、整えることができた。
任命式典の日、国王陛下が宣言する。
「クーデリア・リーフィス。
その才と献身を讃え、<紫華>の名を授く」
「……紫華、で御座いますか」
「汝の力はあらゆる属性を束ね、色を咲かせる。
若くしてそれを成したこと、まさに華の如し。
この名をもって、栄誉を示す。」
言葉とともに、控えていた侍従が一歩前へ進み出る。
両手に掲げられた台座の上には、
華の意匠をあしらった紫色のブローチが載せられていた。
中央には淡く輝く魔力結晶。
照明の魔導灯が反射し、花弁の縁をきらめかせる。
「――これが、<紫華>の証である」
王が静かに告げると、侍従は
台座を私に向けてそっと留め、手に取るように促した。
ブローチに手に触れた瞬間、
ひんやりとした金属の感触とともに、
小さな温もりが心の奥まで伝わっていく。
それは、努力と日々の証そのもののように感じられた。
拍手の中、彼女は深く頭を垂れた。
華――それは力ではなく、積み重ねた歩みを咲かせる象徴。
その象徴は、やがて日常の髪飾りとして、彼女の傍に在り続けることになる。
* * *
目を覚ますと
昨夜の祝勝会の名残が、まだ部屋の空気に漂っている。
夢の余韻が、静かに胸をくすぐった。
「……昔のこと、か」
ふっと笑みがこぼれる。
八回もお留守番をしたけれど、
それでも仲間の笑顔に囲まれている。
あの頃の自分が見たら、きっと驚くだろう。
「……ほんと、幸せ者だね」
窓を開けると、朝陽が街路を白く染めていた。
淡い日光が、窓辺から差し込む。
私は寝台の脇に置かれた小箱に視線を落とした。
そこには、あの時授けられた紫華のブローチが静かに光を宿している。
指先でそっと触れる。
冷たい金属の感触が、まるで昔日の誇りを思い出させるようだった。
髪を整えながら、それを留め具に掛ける。
鏡の中の髪飾りが、紫の華のように揺れていた。
クーデリア・リーフィス――<紫華>。
私の翼は、今も光を焼いている。
===
〇挿絵
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