ひだまりの音がする頃に

第1話 はじめて恋が動いた日

朝6時。安アパートの薄いカーテン越しに、ぼんやりと光が差し込む。

  佐伯悠真(30) は、眠たい目をこすりながら起き上がった。隣では、息子の 陽斗(はると・8) がうつ伏せになって布団を蹴飛ばしている。


「おいおい、また布団が旅に出てるぞ」

「ん〜……パパ、今日の朝ごはん何?」

「……昨日の残りのカレー」

「やった!最高!」


 そんな何気ない会話が、悠真の一日の活力だった。


 五年前、妻の 沙耶 を病気で失ってから、悠真はずっと仕事と育児の両立に必死だった。大工の仕事は不定期で収入は安定しない。贅沢なんてできないけれど、陽斗の笑顔だけは絶やすまいと決めていた。



 その日、悠真は現場帰りにスーパーへ寄った。財布に残っているのは三千円。値引きシールが貼られた惣菜を選んでいると、軽やかな声が聞こえた。


「すみません、そこ……落としましたよ」


 振り向くと、白いワンピースに明るい笑顔。

 テレビで見慣れた顔—— 人気アナウンサーランキング1位、朝倉梨香(27) が立っていた。


「え? ……あ、あの……テレビの……?」

「はい。朝倉です。オフの日は、ただの食いしん坊なので気にしないでくださいね」


 梨香は落ちていた悠真の“買い物メモ”を差し出した。


 その瞬間、悠真は“テレビの中の人”が、こんなに近くで笑うことに言葉を失ってしまった。


「お子さんのためのお買い物ですか?」

「え、あ、はい……。一人で育ててて。あ、いや、そんな話どうでもいいですね」

「……素敵ですね」

「え?」

「大切な誰かのために頑張ってる人って、すごく素敵だと思います」


 梨香の目は、ただの社交辞令ではなく、本当にそう思っているような優しさがあった。



 その後、惣菜コーナーで何度も鉢合わせし、気まずいくらいに同じ商品を手に取る。


「あっ、また会いましたね」

「いや、こっちのセリフです……」


 気がつけば二人は小さく笑っていた。


「よかったら、一緒に選びませんか? 私、料理番組担当なのに、こう見えて料理はそんなに得意じゃなくて」

「……え、俺なんかでよければ」


 まさか自分が“あの朝倉梨香”と一緒に惣菜の山で悩む日が来るとは思わなかった。



 レジ前、梨香が言った。


「今日、会えて良かったです。なんだか、心がふっと軽くなりました」

「俺も……久しぶりに……」


 言いかけてやめた。

 ——“異性の前で、こんな気持ちになったのは、いつ以来だろう”。


「これ、よかったら……」

 梨香が取り出したのは、自身が企画した“地域イベントのお知らせカード”。


「明日ここで、小さな読み聞かせ会をするんです。お子さん、良かったら……。無理なら気にしないでくださいね!」


 そう言って笑う梨香は、テレビよりずっと人間らしく、温かかった。



 帰宅後。陽斗がカードを見るなり目を輝かせた。


「パパ!行きたい!」

「……行くか?」

「うん!」


 その夜、陽斗が寝静まったあと。

 悠真はカードを見つめながら、胸の奥で長い間動かなかった何かが、小さく震えているのを感じていた。


 ——これはきっと、恋なんて呼べない。

 ——でも、忘れていた“ときめき”の音だけは、たしかにした。



 翌日、イベント会場。

 陽斗の手を引きながら入ると、梨香が気づいて手を振った。


「来てくれたんですね!」

「……はい。息子がどうしてもって」


 梨香は陽斗に膝を合わせ、柔らかく微笑む。


「来てくれてありがとう、陽斗くん」

「テレビの人ほんものだ!」

「ふふ、ほんものだよ」


 その光景を見て、悠真の胸は不思議なほどあたたかくなった。


 イベントが終わる頃、陽斗はすっかり梨香に懐いていた。

 帰り際、梨香はそっと言った。


「また……会えたら嬉しいです」


 悠真は、胸の奥に落ちていく言葉の重みを感じて、ただ小さく頷いた。



 こうして——

 “二度と恋なんてしない”と思っていた男と、

 “誰からも好かれる完璧なアナウンサー”の現実離れしたような出会いは、

 そっと始まった。


 まだ誰も知らない。

 これが、三人で過ごす未来へ続く道になることを。

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