ひだまりの音がする頃に
旭
第1話 はじめて恋が動いた日
朝6時。安アパートの薄いカーテン越しに、ぼんやりと光が差し込む。
佐伯悠真(30) は、眠たい目をこすりながら起き上がった。隣では、息子の 陽斗(はると・8) がうつ伏せになって布団を蹴飛ばしている。
「おいおい、また布団が旅に出てるぞ」
「ん〜……パパ、今日の朝ごはん何?」
「……昨日の残りのカレー」
「やった!最高!」
そんな何気ない会話が、悠真の一日の活力だった。
五年前、妻の 沙耶 を病気で失ってから、悠真はずっと仕事と育児の両立に必死だった。大工の仕事は不定期で収入は安定しない。贅沢なんてできないけれど、陽斗の笑顔だけは絶やすまいと決めていた。
◆
その日、悠真は現場帰りにスーパーへ寄った。財布に残っているのは三千円。値引きシールが貼られた惣菜を選んでいると、軽やかな声が聞こえた。
「すみません、そこ……落としましたよ」
振り向くと、白いワンピースに明るい笑顔。
テレビで見慣れた顔—— 人気アナウンサーランキング1位、朝倉梨香(27) が立っていた。
「え? ……あ、あの……テレビの……?」
「はい。朝倉です。オフの日は、ただの食いしん坊なので気にしないでくださいね」
梨香は落ちていた悠真の“買い物メモ”を差し出した。
その瞬間、悠真は“テレビの中の人”が、こんなに近くで笑うことに言葉を失ってしまった。
「お子さんのためのお買い物ですか?」
「え、あ、はい……。一人で育ててて。あ、いや、そんな話どうでもいいですね」
「……素敵ですね」
「え?」
「大切な誰かのために頑張ってる人って、すごく素敵だと思います」
梨香の目は、ただの社交辞令ではなく、本当にそう思っているような優しさがあった。
◆
その後、惣菜コーナーで何度も鉢合わせし、気まずいくらいに同じ商品を手に取る。
「あっ、また会いましたね」
「いや、こっちのセリフです……」
気がつけば二人は小さく笑っていた。
「よかったら、一緒に選びませんか? 私、料理番組担当なのに、こう見えて料理はそんなに得意じゃなくて」
「……え、俺なんかでよければ」
まさか自分が“あの朝倉梨香”と一緒に惣菜の山で悩む日が来るとは思わなかった。
◆
レジ前、梨香が言った。
「今日、会えて良かったです。なんだか、心がふっと軽くなりました」
「俺も……久しぶりに……」
言いかけてやめた。
——“異性の前で、こんな気持ちになったのは、いつ以来だろう”。
「これ、よかったら……」
梨香が取り出したのは、自身が企画した“地域イベントのお知らせカード”。
「明日ここで、小さな読み聞かせ会をするんです。お子さん、良かったら……。無理なら気にしないでくださいね!」
そう言って笑う梨香は、テレビよりずっと人間らしく、温かかった。
◆
帰宅後。陽斗がカードを見るなり目を輝かせた。
「パパ!行きたい!」
「……行くか?」
「うん!」
その夜、陽斗が寝静まったあと。
悠真はカードを見つめながら、胸の奥で長い間動かなかった何かが、小さく震えているのを感じていた。
——これはきっと、恋なんて呼べない。
——でも、忘れていた“ときめき”の音だけは、たしかにした。
◆
翌日、イベント会場。
陽斗の手を引きながら入ると、梨香が気づいて手を振った。
「来てくれたんですね!」
「……はい。息子がどうしてもって」
梨香は陽斗に膝を合わせ、柔らかく微笑む。
「来てくれてありがとう、陽斗くん」
「テレビの人ほんものだ!」
「ふふ、ほんものだよ」
その光景を見て、悠真の胸は不思議なほどあたたかくなった。
イベントが終わる頃、陽斗はすっかり梨香に懐いていた。
帰り際、梨香はそっと言った。
「また……会えたら嬉しいです」
悠真は、胸の奥に落ちていく言葉の重みを感じて、ただ小さく頷いた。
◆
こうして——
“二度と恋なんてしない”と思っていた男と、
“誰からも好かれる完璧なアナウンサー”の現実離れしたような出会いは、
そっと始まった。
まだ誰も知らない。
これが、三人で過ごす未来へ続く道になることを。
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