第3話 朝と通学路と残念な噂


 翌朝。


 目覚ましが鳴るより早く、私は目を覚ました。


 理由は簡単だ。

 うるさいからである。


「レイナ! 起きろ、レイナ! あと五分じゃない、すでにマイナス十五分だ!」

「……うう。世界の終焉の夢を見ていたのに……」

「その終焉、今ここで来るから。遅刻の形で」


 ベッドの上では、まどか先輩がレイナの布団を容赦なくはぎ取っていた。

 レイナは、くるまっていた黒い毛布からずるりと転がり出る。


「やめろ、闇を剥ぎ取るな……。光が眩しい……」

「起きて五秒でポエム言わないの」


 隣では、ほのかがまだ半分寝ぼけながら、ぬいぐるみたちを一体ずつ起こしている。


「みんな、おはよう……。今日は新しいお友達もいるんだよ……」

「ぬいぐるみに朝礼しないでいいから」


 私は、布団の中で天井を見上げた。


 ――静かな朝とは。


 人はそれを、遠い幻想と呼ぶ。


「ひかげちゃーん、起きてる?」

「一応起きてます」

「えらい。じゃあ、そのまま五分で準備して。あと二十分で出るから」

「え、二十分!?」


 時計を見ると、登校十五分前を知らせる謎の時間だった。


「あの、普通、余裕持って出ません?」

「大丈夫大丈夫。ダッシュで行けば間に合うから」

「私、初日からダッシュ登校なんですか……?」


 と、文句を言いつつ、私は素早く制服に着替える。

 寮生活一日目にして悟ったが、この部屋では「のんびり準備」などという概念は存在しない。

 寝坊の常習犯と、朝からぬいぐるみと語り合う人と、時間ギリギリまで副業メールをチェックする人がいるのだ。カオスである。



 ◆



 ダッシュの結果、なんとか遅刻ギリギリで校門をくぐった。


「はー……しんど……」

「若いんだからこれくらい余裕でしょ」

「まどか先輩、全然息上がってないのが逆に憎いです」

「節約のために徒歩移動を極めた結果だね」


 そこに何の誇りを持っているのか。


「レイナちゃん、大丈夫? 顔真っ青だよ?」

「……私の魂はもう半分くらい、まだ布団の中に置いてきた」

「それ、放っておくと夜寝る時に足りなくならない?」


 ほのかとレイナが、ぐだぐだと話しながら昇降口へ向かっていく。

 私は、自分の下駄箱を探して名前のラベルを確認した。


 ――日影ひかげ。


 うん、ちゃんとある。

 当たり前だが、自分の名前がそこにあるのを見て、少しだけ「新生活」感が増した。


「じゃ、私は職員室寄ってから教室行くから。ひかげちゃん、教室分かる?」

「クラス、1−Cですよね。たぶん大丈夫です」

「迷ったら人に聞きなー。ひかげちゃんなら、変なやつに絡まれてもたぶん大丈夫だろうし」

「今なんか失礼なこと言いました?」

「褒めてる褒めてる。じゃ、また放課後ねー」


 手をひらひら振って、まどか先輩は去っていった。

 ほのかとレイナもそれぞれの階へ散っていき、私はひとりで一年のフロアを歩く。


 廊下には、既に何人もの生徒が行き交っていた。

 友達同士でわいわい話しながら歩く子。

 イヤホンをつけてひとりで歩く子。

 教室の前で、窓から中を覗き込んでいる子。


 どこか他人事のようにそれを眺めながら、私は自分の教室――1−Cの前で足を止めた。


(……よし)


 深呼吸一回。

 緊張を隠しながら、私はドアを開けた。



 ◆



 教室の中は、まだざわざわしていた。


 既に席についている子、立ち話している子、スマホをいじっている子。

 私をちらっと見る視線もあったが、誰も特に何か言ってくる訳ではない。


 黒板に貼られた座席表を確認すると、私の席は窓側から二列目の真ん中あたりだった。

 ……こういう時に限って、一番前の真ん中とかじゃないだけまだマシである。


 自分の席にカバンを置き、椅子に座ろうとした時。


「あのー」


 声をかけられて、振り向いた。


「日影さん? だよね」


 短めのポニーテールにヘアピンをいくつもつけた女の子が、にこにこと立っていた。

 ぱっちりした目に元気そうな雰囲気。いかにもクラスの中心部にいそうなタイプだ。


「うん、日影ひかげです」

「よかったー。あたし、椎名あかり。よろしくね」

「よろしく」


 あかりは、私の机の前に腰掛けるようにして座る。


「ひかげちゃん、今日転校? ってわけでもないよね。新入生だし」

「あ、うん。昨日のうちに引っ越してきてて」

「ふーん。どこから来たの?」

「市内だけど、ちょっと遠くて。寮から通うことになって」

「あ、寮なんだ! もしかして、ひだまり女子寮?」


 ズバッと核心を突かれた。


「え。なんで分かるの」

「ここら辺で女子寮ってそこくらいだし。それに――」


 あかりは、妙に意味ありげな顔をした。


「……なんか、その寮の話、ちょいちょい聞くから」

「嫌な予感しかしないんだけど」


 その瞬間、「女子寮」の単語に釣られたのか、周りにいた何人かの女子がひそひそとこちらを見た。


「ねえ、ひだまりってさ、あの……」

「夜中に謎の笑い声が聞こえるとか」

「部屋に知らないぬいぐるみが増えてくとか」

「謎の黒い影が廊下を徘徊してるとか」


 なんか、ホラー方面の噂に進化している。


「えっと、ぬいぐるみは増えますけど。全部住人の私物です」

「そこは否定しないんだ」

「黒い影は分からないけど、多分レイナ先輩だと思います」

「誰それ」


 説明が面倒なので、「ポエム担当の人」とだけ付け足しておいた。


「でもさー。あの寮って、変わった子多いって有名だよ?」

「有名なの?」

「うん。前にうちのクラスにいた子も、『寮の子は濃い』って言ってたし」

「やめて、なんかじわじわ精神に来る表現」


 濃いって何だ。

 実際会って一日で分かったけど、確かに濃いけど。


「でもさ、面白そうでいいな。あたし、家近いからさ、ちょっと羨ましいもん」

「え、どこが」

「女子だけで、ごちゃごちゃ暮らすの楽しそうじゃん。映画とか夜通し見たり、怖い話したり、恋バナしたり」

「あー……」


 さっきも似たような話を寮で聞いた気がする。

 現実は、家計簿ともやし炒めである。


「現実はもっと、貧しいですよ」

「それはそれでネタになりそう」


 あかりはケラケラと笑った。

 この子、たぶん残念さの方向性が違うタイプだ。

 陽キャ寄りの、良くも悪くも距離感の近い子。


「じゃ、またあとでね、ひかげちゃん」

「うん」


 あかりが席に戻ると、私は心の中で小さく息を吐いた。


(……クラスにも、個性強そうなのいっぱいいそうだな)


 静かな新生活の夢は、どうやらいろんな方向から壊されていくらしい。



 ◆



 放課後。


 授業をなんとか乗り切った私は、教室から出ようとしたところで、再びあかりに捕まった。


「ねーねー、今日ヒマ?」

「え、まあ、寮に帰るだけなら」

「じゃあさ、駅前のパン屋寄ってかない? 新作出てるって聞いたんだよね」

「パン屋……」


 頭の中で、寮の家計簿に書かれていた「今月残り3200円」が浮かぶ。


「財布が悲鳴を上げてる気がする」

「大丈夫大丈夫、見るだけ見るだけ」

「絶対そのパターンのやつ買う流れですよね」


 ああでも、新しい街の探索も兼ねてなら悪くないか。

 どうせ寮に帰っても、もやし炒め第二弾が待っているだけだろうし。


「まあ、ちょっとだけなら」

「やった。じゃ、行こ」


 あかりは私の腕を引っ張って、スタスタと廊下を歩き出した。


 と、その背中に。


「あー! ひかげちゃーん!」


 やけに聞き慣れた声が飛んできた。


 振り向くと、階段のところでほのかが手をぶんぶん振っている。

 横には、レイナが半分くらい魂が抜けた顔で立っていた。


「今、寮帰るところ?」

「いや、ちょっと駅前まで」

「パン屋だって」

「……ほう。パン。粉と糖分の共謀体」

「言い換えないで」


 ほのかはぱっと目を輝かせた。


「わたしも行きたい!」

「私も行こう。闇には、時に炭水化物という慰めが必要だ」

「レイナちゃん、さっきまで宿題やるって言ってたのに」

「現実逃避という名の旅だ」


 あれよあれよという間に、人数が倍になった。


「あ、あの、人数増えてますけど」

「いいじゃんいいじゃん。みんなで行こうよ」

「だよねー」


 気づけば、私の静かな寄り道は、謎の女子四人パンツアーになっていた。



 ◆



 駅前のパン屋は、想像以上にオシャレだった。


 ガラス張りのショーケースに、焼きたてのパンがずらりと並んでいる。

 甘い香りとバターの匂いが鼻をくすぐり、あまりの誘惑に私の財布が震えた。


「うわー、おいしそう……!」

「これ、期間限定のメロンパンだって。クリーム入り」

「このカレーパン、カレー二倍って書いてある」

「私はこの黒いパンに運命を感じる」

「それただの竹炭パンだからね?」


 トレイを持った四人が、ショーケースの前で完全にフリーズした。


「ねえ、ひかげちゃん。予算、どれくらい?」

「できればワンコイン以内でお願いします」

「……学生らしくて好感持てる」


 あかりが、真面目な顔で頷いた。


「よし。ワンコインで最大限の幸せを買う会議を始めます」

「そんな会議あったら参加者多そう」


 結局、全員で相談して、それぞれ一つずつパンを選んだ。

 私は、100円台のシンプルなあんぱんを手に取る。


 会計を済ませて店を出ると、少し離れた公園のベンチに座ってパンを頬張る事になった。


「んー、おいしい!」

「このメロンパン、外カリカリ中ふわふわだよ……しあわせ……」

「私の竹炭パンは、思ったほど闇の味はしなかった」

「闇の味って何」


 あかりはカレーパンをかじりながら、こちらを見た。


「ねえねえ、寮生活ってやっぱ楽しそうだなー」

「どの辺が」

「帰ったら誰か必ずいるって安心するじゃん。あたし、家族いてもみんなバラバラに動いててさ。夜ご飯も一人で食べること多いし」

「それはそれで、気楽そうですけど」

「まあね。でも、たまには誰かと『今日こんなことあってさー』って話したくなるじゃん」


 あかりの言葉に、ほのかがこくこく頷いた。


「分かるかも。わたし、中学の時はほとんど一人でご飯食べてたから……。こうしてみんなで食べられるの、すごくうれしい」

「私は、寮じゃないと夜中に詩を朗読した時に止めてくれる人がいない」

「それは止めてくれる人がいて良かったパターン」


 私は、あんぱんの甘さを味わいながら、ふと思った。


 今朝のあの騒がしい起床も。

 もやし炒め主体の晩ごはんも。

 この、なんとなく集まってパンを食べている時間も。


 全部、ひとり暮らしでは手に入らなかったものだ。


「……悪くないですよ、女子寮」


 ぽつりと漏らした本音に、あかりがニヤッと笑う。


「でしょ? あたし、やっぱ今度泊まりに行こうかな」

「いや、あの部屋にこれ以上人増えると酸素薄くなりますよ?」

「それはそれで面白そう」

「面白そうで選択しないで」


 何だかんだで笑い声が絶えない帰り道。

 私は心のどこかで、自分の「静かな生活」計画が完全に終わったことを認めつつも。


 それを、そこまで悪い終わり方だとは思えなくなっていた。


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