Sewing Birds

Blue

第1話 スリーズと桜


 日差しの強い夏がようやく過ぎた灰色の街並みと石畳を歩く。

 せっかくの優雅な朝食後だというのに、どんよりと重い雲が日光を遮っていた。

 四角いガソリン車と蹄の音を立てる馬車が道路を行き交い、紳士淑女の名前を着た厳めしい面の男や不機嫌そうな顔の女が街を通る。店先のテーブルまでコードを伸ばして数人が耳を寄せ合うラジオから聞こえるのは、雑音の入り混じった近隣諸国の情勢であった。

 未だ、世界中で戦火が舞っている。世界中を巻き込んだ終わりの見えない戦争に唇を噛むしかできない。

 まだ一日が始まったばかりの道端に転がった酒瓶を見つけ、スリーズは整った眉をしかめた。気分最悪。

 招集がかかったとはいえ、イタズラに人が多いチューブに乗ってまで見たい物ではない。

 これから行く場所も思って小さいため息を吐いたところで、ふと顔を上げた。

 母国より見栄えのしない街の一角。鉢植えに咲く可憐な黄色いマリーゴールドを見つけて自然と足取りが軽くなる。

 曇り空は相変わらずだが日が直接肌に当たらないことは暑くなく、灰色の街並みだってよく見れば細い茎にピンクや白い花弁を咲かせるコスモスがあった。紳士淑女の名を借りてはいるものの、太ったちょび髭の男はにこやかであるし、隣のシンプルなワンピースの女は小さなバスケットを携え、隣の男に相槌を打っている。

(なかなかいい朝じゃない)

 すぐに気持ちが切り替えられる気分屋の部分を自慢に思う。

 母国からは持って来られず、街を半日選び歩きながらようやく買ったバスケットを持ち替えなおしたところだった。

「よお、暇かね」

 突然後ろから肩を掴まれ、ギョッとして手を払いながら振り返ると汚れたスーツの男が立っていた。

 見知らぬ男だ。

 鼻腔に入った臭いにとっさに手で鼻を覆う。酒臭い。文字通り朝まで飲んで道端で寝たのだろう。「忙しいの」と再び歩き出せば赤い鼻の男は真正面に回って来た。

「そんなこと言わずにさ」

「他を当たって、と言っているの」

 ニヤニヤと笑う寄った顔を真っすぐねめつけた。男の横を通り過ぎるとさらに強い力で肩を掴まれる。

「離して!」

 埒が明かないと大声で抵抗するスリーズに周囲の人間がぎょっと振り返った。「この野郎」数人の若者が駆け寄って来ると同時に男が腕を振り上げた。

 ――ぶたれる。

 咄嗟に腕で顔を庇って身を固くする。

 しかし、予想していた衝撃は訪れなかった。

『女性に手を上げるなんて、男児の風上にも置けません』

「なんだあ、お前は」

 恐る恐る目を開けると、男とスリーズの間に入った小柄な女性が男の腕を掴み上げていた。手首に巻かれた銀のブレスレットが彼女の細さを印象立たせている。

 こげ茶のつば帽子にカフェオレ色のトレンチコート。男から一歩距離を取り、アイリスの瞳でスリーズは何度も瞬いた。彼女が何と言ったか分からないが、凛と張った声は紛れもなくソプラノで、背丈は男よりはるかに小さい。スリーズの頭ひとつ分は小さいのだ。

(こんなに小さい人が助けてくれたなんて)

「あにしやがる!」

 驚きは一瞬だった。

 乱暴に振り払った太い腕が女性のつば帽子を跳ね上げたのだ。あ、とスリーズは息をのむ。

 音もなく地面に落ちたつば帽子。曇天の少ない日光でも艶を出すシニヨンでまとめられた後ろ髪と、隠れていた黒い前髪がさらりと揺れる。細い眉の下では異国色の瞳が一歩も引かぬ様子で男を射抜いていた。驚いたのは男も同じだったのか、周囲の人間同様にピタリと動きを止めた。

 欧州とは異なる黄色味の強い肌色と、堀が浅く幼い顔立ち。戦時報告を雑音交じりで流すラジオがよく口にする紛れもない敵国の人種。色を全て混ぜたような、見慣れぬ黒い瞳がちらりとスリーズに視線を移した。吸い込まれるほど真っ黒だった。

 そこで我に返ったのか、絡み酒の男は鋭く舌を打つと濃い酒息で怒鳴った。

「とっとと国へ帰れ!お前らがいていい場所じゃねえーぞ」

「……そうですか、では失礼いたします。私、用事があるので」

 大声に怯みもせず、返された言語はちゃんと聞き取れる。周囲から飛ぶ罵声と声なき忌避の視線に一切の反応をしない表情は仮面のようだ。落ちたつば帽子を淡々と拾い上げた女性は、小さな黒靴でサッと踵を返すと、バスケットを抱えて小走りに立ち去っていった。

 赤い鼻の男は既にスリーズには興味を失くしたのか、別の通行人に絡んでいる。しかしすぐに迷惑そうな顔のポリスが悪絡みの酔っ払いを取り押さえた。誰かが呼んできたのだろう。

 また日常の通り動き出した雑踏の中、放心していたスリーズは心配顔の若者たちに肩を叩かれる。

「ええ、大丈夫。ありがとう」

 笑顔を返して歩き出す。ようやく吹き返した日常は、何事もなかったように再び人と馬車とガソリン車が街の音を立て始めていた。走り去った女性が手にする四角く編まれたバスケットの趣味がよく、それがやけに印象的だった。



 〇―〇―〇―



 由緒正しく礼節を重んじ、歴史と伝統と共に歩む。創立六百数年を迎えた荘厳な門前にて、送り付けられた招待状という名の呼出し状を差し出してチェックを貰う。修復と補強を繰り返し、入口の壁から廊下の窓まで意匠をこらした景色が規律を支配しているようだ。

 授業なのか学生の姿は見えない。スリーズは、誰もいない渡り廊下で立ち止まった。丸くカットされたコニファーやマサキの低木が並ぶ中庭へ、煩わしい曇天の隙間から日光が注いでいる。

 当初の予想に反して長引く不況と終息しない戦争。毎日世話しなく喋るラジオに一喜一憂する人々は、言い表せぬ憂慮を多く抱えている。そのせいか人々は他者を思いやる一方で常に隔てられ、行き場のない不安と恐怖が影のように浮き出てそこら中に立っていた。

 街では多くの慈悲と疎外がしこりのように生まれ、ギリギリのラインで生活を送る者のほとんどが苦境に立たされている。母国の弟とは頻繁に連絡を取ってはいるものの、状況が一変する可能性も馬鹿にできない。

 人間の事情を何も知らない植物たちはのどかな陽に当たって静かに揺れている。目に優しい緑を纏った常緑樹たちは人間がどうなろうと何年先もその姿を変えないだろう。人間の手によって、焼け枯れない限りは。

 明日の心配ばかりが積もるが、誰もが明日を見通せない。小さなため息をついたが「遅い」と聞き慣れた声がかき消した。腰に当てられた偉そうな両手と金色のツインテールは変わらない。学生時代からよく知る口喧嘩相手が整った眉を顰めた。

「スリーズ、九時からと言ったでしょう。あなたいつもじゃない。それとも、あなたの周りは常にストライキでも起こってるわけ?」

 度の低い眼鏡から覗く神経質な瞳は昔のまま、いっそシンプルを通り越し越して質素と言いたくなるようなワイン色を基調としたドレスワンピースは全く味気ない。伝統的な職人が作るオーダーメイドだろうがスリーズからしてみれば圧倒的に華が不足している。

 卒業してからも王立学校に顔を出しているとは聞いていたが今日ここで出会うなど誰が思っただろう。

「ちょっとアクシデントに巻き込まれただけよ。リズこそ一分一秒に気を取られすぎじゃないのかしら。カリカリしてるとあっという間に老けちゃうんだから」

「時間にルーズなのは性別以前に人としてどうかって言ってるの。その高い鼻に似合うお高い時計でも持ったらどうかしら。きっと似合うと思うわよ」

「腕時計が普及し始めてるのに、未だ懐中時計専門のあなたこそ腕時計を買ったらどう?わたしが選んであげるから。もちろんあなたの財布で」

「い、や、よ! だいたい、これはカートレット家に代々伝わる時計なのよ! 手放せるわけないじゃない!」

「おやめなさい。淑女がみっともない」

 突如響いた厳かな声に振り返った二人は上官を前にした軍人のように足を揃えた。規則的な靴音とステッキが目の前で止まる。銀髪を固くシニヨンでまとめた背は低く、何本もしわが刻まれた顔で光る双眼は下手をすると警官より厳しい。飾り気のない深い青のドレスワンピースを纏う真っすぐ伸びた背筋は年齢を感じさせず、齢六十の老婆とはとても思えない。

「失礼致しました。アンリ会長」

 さっと礼をしたリズが顔を上げる。

「リズ、もうソーイングの開始時刻でしょう。今日は参加人数が少ないはず。予定通り軍服の配給が遅れては戦地に支障が出ます。早急に取り掛かるように」

「会長。スリーズは遅刻ですが、あと一人が来ていません」

「構いません。始めていなさい」

 遠ざかる杖音に二人はようやく肩の力を抜いた。王立学校会長、[[rb:裁縫の魔女 > ソーイングウィッチ]]。規律と伝統を重んじる厳格な貴族の家柄にあるというのに職人並みに腕が立つ。作った服は全て寄付しているアンリは広く民衆に知られている貴族の一人だ。学生の頃は――怒られた生徒が何人いるか分からないが――皆アンリの雷を恐れた。姿が見えなくなったところで隣の生意気娘をこづく。

「遅刻じゃなくてアクシデントって言ってるでしょ」

「もういいから早く行きなさいよ。会長に怒られたくないでしょ?あなたに構うほど暇じゃないの。私、今からあなた以上に遅刻している相手を迎えに行かなきゃいけないのよ、信じられる?」

 煩そうに振り返ったリズは懐中時計を手に会長を追って行く。分かってるわよ。でも裁縫なんてしたくないの。小さくなった背中に踵を返す。誰だって、アンリのように好きで服を作る環境があるわけではない。昔は好んで針を持ちミシンを走らせていた指を無意識に擦り合わせたスリーズは、伝統と意匠を凝らした扉を何年振りかに開けた。


 

 リズの言っていた通り、教室は既に人で溢れていた。適当にまだ空いている場所を見つけたスリーズは世間話に花を咲かせる婦人たちの間をぬって席に座る。特に指定は無かったためか、温かな窓際は既に開いていなかった。冬が近いとはいえ、日の当たる窓際だろうと小金持ち中心の輪に進んで寄りたくはない。

 見知った顔なじみに今朝の災難を離しながらバスケットから針道具を取り出した。海峡を越えた先で知り合った人々は優しいが、時折り齟齬が生じる価値観を無視して集まっている。母国には帰りたくないがずっと留まりたくはない。戦地へ軍服を配給するという婦人会の招待状を断れるはずもなく、貢献している姿勢を見せに来たがそれが正しかったのか分からない。不毛な思考を断つようにミシンに布を滑らせる。ソーイングは慣れているが楽しくはない。

 今日の作業内容を横目で確認する。ボタン付けにほつれ直し。シャツはミシンと手縫いで形にする。期限は本日17時。

 短いため息をついて戦地へ送る服をそっと撫でた。決して上質ではないが良い生地だ。

 ぼんやり考えていたとき、後ろ扉が開いた。一瞬止まった講堂の話し声を不思議に思って振り向いたスリーズは「あっ」と叫び出しそうな声をすんでのところで飲み込んだ。

 カフェオレ色のコートに背筋を伸ばした美しい姿勢。帽子を取って現れるシニヨンでまとめた髪はどこまでも黒い。

 見間違いようがなかった。今朝会ったカフェオレコートの女性。

 見かける一般人より小さい体は学生に見えるが、婦人会に呼ばれるのは二十歳以上のはずだ。その先を考える間もなく、リズが後ろに付いているのが見えた。

 先ほどまで講堂を占めていた華やかな会話に代わって陰口とささやかな嘲笑が広がって行く。生地一式を受けとった女性は一言も口を開かず、黙々と作業し始めた。

 嘘でしょ、とすぐ隣から上がる笑い声を無視して手元の生地に集中する。それでも億劫な裁縫がさらに退屈になったあげく、指を針で刺してしまったスリーズは小さくため息をついた。



 直進、右、左。

(こっちは中庭の方ね)

 少女が曲がればタイミングを見計らって追いかける。昼休憩に一人で席を立った他人をこっそりつける自分の姿を過去のスリーズは想像もしなかっただろう。対象の後をつけるなんて推理小説のようだ。

 それでも、どうしても声をかけたかった。かといって講堂内で声をかけるのは憚られた。ひそひそ話す目がある場所は、彼女にとって良くない気がした。

 講堂から少し離れた中庭のベンチに少女が腰かけたのを見て、小走りで近寄り「失礼するわね」と一言入れて隣に腰かける。

「いい場所ね、ここ。昼食を食べるにはぴったりだわ」

 木陰のベンチに座った彼女は酷く驚いて、固まったままスリーズを凝視していた。

「ねえ、あなた今朝私を助けてくれた人でしょう? お礼を言いに来たの。本当に助かったわ」

 大きな黒い目をぱちくり、一拍開けて女性はようやく思い出したようだ。まさかこんな場所で再開するとは思わなかったのだろう。

「いえ、大したことではありません」

 にこっと口角だけで微笑む黒髪の女性に、笑みを返すと何も言わず隣へ近づく。黒い目をさらに丸くして驚く彼女に構わず、ズイと身を乗り出した。

「スリーズよ」

 ぱちぱち瞬く睫毛は黒く長い。母国で一度見た東洋美術の絵画とはあまり似ていなかった。つるりとしたたまご肌に大きな黒目。意外に可愛い顔をしているじゃない、という感想は横に置いて先を促す。

「名前よ。あなたは?」

 驚きで丸く固まっていた目が徐々に力を抜いてゆく。迷ったように視線を手元に落とした後、細く小さな声が聞こえた。

「桜、と言います」

 サクラ、とスリーズは形の良い唇で音をなぞる。

 その横顔に、なんて綺麗な人だろうと桜は息をのんだ。透き通る白肌に、スッと通る鼻筋。長い金色の睫毛が木漏れ日に光る。亜麻色の髪をアップでまとめ、横へ流した前髪の毛先は緩いウェーブを描いていた。肌触りのよさそうな白シャツに紺色を基調としたAラインのスカートを身に着ける姿勢は目を奪う。細いリボンタイさえ完璧な美しさだった。

 仕草一つ一つが滑らかで、いつか見た彫刻のように完成されている。ふわり香ったのはローズの匂い。唇に引かれた赤いルージュにおかしな動機を覚えてパッと目を逸らした。

「わたしの国では、木と同じ名前の意味なんです。桜の木。春にピンクの花弁が咲きますよ」

「ん……ああ、フルール・ド・スリジェね。素敵」

「えと、チェリーブロッサムではないのですか」

「ノン、どっちも同じだけど同じじゃないのよ」

 チッチッチと指を振る。ええと、と桜は少し眉を寄せた。口ごもる姿に、困らせるつもりじゃないのよ、と言いかけたところで声がかかる。

「スリーズ!」

 見れば付き合いのある婦人たちが柱の陰から顔を出していた。誰にも話すつもりはないが、渡り廊下からはみ出した趣味の合わないドレスは相変わらずだ。代わりにドレスを仕立てて送りつけてやりたいくらいだった。

「ごめんなさい。ちょっと呼ばれちゃったみたい」

 またね、と手を振ると桜はカクンと頭を下げた後、慌てたように小さく手を振り返した。雲の隙間から差す日光がまた遮られる。中庭から渡り廊下へ繋がる三段程度の階段の前で止まると、グイと腕を引かれ、あっという間に背中に廊下の壁が当たるよう囲まれてしまった。

「なによ」

「ダメよ、スリーズ」

「なにが」

「あの子、色んな噂が付いて回ってるのよ。知らないの?」

 オレンジのスカートが似合う女性が思いきり眉を潜める。

 桜はどうやら、この世界中を巻き込んだ戦争が始まる前にこの国へ来たらしい。

 夫と共に引っ越して来たが、軍人である夫が本国から一時帰国を命ぜられて帰りを待っているとか、そのまま置き去りにされたとか。男を引っ掛けるためにいつも一人でいるという話や、実は夫ではなく愛人で、異国に捨てられたとか、散らばった裁縫道具のような様々な種類の話が飛ぶ。

 だから近づかない方がいいわよ、と締めくくった人々に、スリーズは終始適当に頷いていた。

 さあさあ、と掴まれた腕と押される背中を振り払えず、木漏れ日が揺れる静かな中庭を後にすれば、連れて行かれた付近のカフェで昼食が終わる。再び戻った講堂で、桜はまた一人軍服を縫っていた。

 この国ではティータイムを重んじるために作業時間は限られる。よって、午後で作業は終わるが与えられたノルマは残る。

 できた者から帰ってよろしい。会長が言い残して出て行ったあと、誰よりも早く、そして多く針を進めた桜は真っ先に帰ったらしく、久しぶりの針仕事に三回糸を引き抜いていたスリーズがやっと上着を仕上げた頃には既にいなかった。

「二時間で完成させなさいと言ったでしょう」といつもの懐中時計を手に呆れるリズと、「軍服に趣味の刺繍を入れ始めて怒られたのは誰だったかしら」から始まった言い争いに、騒ぎを聞きつけ飛んできたアンリの雷が落ちる羽目になったのである。

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