第27話 7-3:崩れゆく大結界

王太子の焦りは、当然のものだった。

その日、アステル王国の王城では、かつてないほどの緊張感に包まれた緊急の御前会議が開かれていた。

玉座に座る国王陛下は、普段の威厳ある姿はどこへやら、青ざめた顔で次々と飛び込んでくる絶望的な報告に、ただ震える指でこめかみを押さえている。

「……辺境領より、緊急報告!」

玉座の間の重い扉が乱暴に開け放たれ、伝令の騎士が甲冑を泥だらけにしたまま転がり込むように入ってくる。

その姿だけで事態の深刻さが伝わってきた。

「魔獣の活動が先月の三倍に増大しております! 特に、角や甲殻を持つ『末期段階』の出現が激増し、砦の防衛線がもはや限界です!」

「馬鹿な!」

宰相が苦々しく吐き捨てる。

「例年ならば冬になれば魔獣の動きは鈍るはずだろうが! 寒さで瘴気も弱まるのではないのか!」

「そ、それが……まるで瘴気そのものがこの二ヶ月で急激に濃くなっているかのように……!」

騎士は絶望的な声で続けた。

「それに、例年ならば王都から送られる『聖水』で土地を清めればなんとか春の種蒔きはできたものが……今送られてくる『聖水』は、もはやただの水と変わらず、瘴気を浄化する力を完全に失っております!」

「……聖水」

会議の末席に座る王太子の脳裏に、わたくしが管理していた花壇のハーブを浸した水が、定期的に「聖女レティシアが清めた水」として辺境領に送られていた光景が浮かんだ。

(まさか、あの水にも意味が……? いや、そんなはずは……)

王太子は、その不吉な予感を頭を振って必死にかき消した。

「次! 内陸部の穀倉地帯は、どうなっておる!」

国王が震える声で問う。

「はっ……それが、原因不明の『奇病』が……」

報告書を読み上げる農務を司る文官の声も、恐怖に強張っていた。

「王国で最も安全とされていた我が国の穀倉地帯で、小麦の穂が収穫前に黒く変色し枯死する現象が多発しております! すでに、来年の収穫の三割は絶望的かと……! さらに、家畜が次々と衰弱し乳が出なくなるなどの被害が……!」

「な……なんだと……!」

どよめきが広間を包む。

辺境が「常に厳しい」のは、いつものことだった。彼らは「防波堤」だ。

王都は「大結界」で守られている。

だが、最も安全だったはずの、国の生命線である穀倉地帯が瘴気の影響を受け始めている。

それは、アステル王国という国家の土台そのものが腐り始めたことを意味していた。

王都の食料が、途絶えるのだ。

「聖女レティシア様は、まだなのか!」

「彼女の『浄化』の儀式はどうなっておるのだ!」

貴族の一人が叫ぶ。

「そ、それが……先ほどからあの花壇で懸命に祈りを捧げておられますが……」

側仕えが弱々しく答える。

ヴァイス様が知っていた「真実」――レティシアに浄化の力はない――を、この国の誰もまだ知らなかった。彼らは、レティシアがただ「不調」なだけだとまだ信じようとしていた。

まさに、その時だった。

ゴゴゴゴゴゴ……!

玉座の間が、地震でもないのに不気味な低い振動に包まれた。

床の白い大理石がビリビリと震える。

シャンデリアが恐ろしい音を立てて揺れ、天井から埃が舞い落ちた。

「な、何事だ!」

「総員、構えよ!」

近衛の騎士たちが慌てて国王の前に出る。

「外だ! 外を見ろ!」

一人の貴族がテラスへと続く窓を指差した。

王太子は、青ざめた顔で誰よりも早くテラスへと駆け出した。

そして、彼らは見た。

アステル王国の、建国以来一度も破られたことのなかった、王都の上空を覆う「大結界」。

その、普段は目に見えないはずの魔力の壁が、今、目に見えるほどの凄まじいエネルギーを放って明滅している。

まるで冬の薄氷のように、いつ砕けてもおかしくないほどに。

「……結界が!」

王太子が呆然と呟いた。

レティシアが、わたくしの花壇から搾取していたマナの「貯金」が、ついにこの瞬間、底をついたのだ。

ピシイイイイイッ!

空気を切り裂くような甲高い音。

それは、空そのものが割れる音だった。

「あ……」

テラスにいた誰もが声も出せず空を見上げた。

王都の真上の、青かったはずの空に巨大な「ひび割れ」が走った。

まるで神が振るった鞭のように。

「ひ、ひび割れから……何かが……!」

一人の貴族が震える指で空を指差し、悲鳴を上げた。

結界の最も大きなひび割れから、まるで墨を流したかのように、あの、アステル王国の人間が歴史上ただの一度も王都内で見たことのなかった、

「……瘴気だ」

王太子が、絶望に染まった声で呟いた。

紫色の、絶望の霧が、ついに王都アステルへと流れ込み始めていた。

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