第25話 第7章:傾き始める王国 7-1:わたくしだけの「研究室」
わたくしの、魔王城での本当の「仕事」が始まった。
アビス様から「贈り物」としていただいた、城の最上階に近い、ガラス張りの巨大な中庭(パティオ)。
そこは、わたくしが森で築いた「聖域」よりも、さらに広く、そして過酷な「研究室」だった。
重厚な黒曜石の扉を開けた瞬間、わたくしは息をのんだ。
そこは、広大な空間だった。天井も壁もすべてが分厚い魔力ガラスで覆われている。
だが、そこにあるのは光ではない。
ガラスの向こう側にはアステル王国のような青い空はなく、ただ煮詰まったインクのような紫色の瘴気の霧が常にゆっくりと渦を巻いているだけ。
その不気味な紫の光が、ガラスを通してこの中庭全体を青白く、まるで水底のように照らしていた。
(……ひどい土)
わたくしは、藍色の新しい仕事着のまま、その荒廃した中庭の中央に膝をついた。
そこにあるのは、何十年も瘴気にさらされ、完全に「死んだ」土だった。
水分は一滴も残っておらず、乾燥してひび割れ、まるで陶器のようにカチカチに固まった黒い塊。
わたくしが森の拠点で見てきた、あの生命力あふれる茶色い土とは似ても似つかない。
植物の「声」など、もちろん聞こえない。
わたくしが耳を澄ませても、聞こえるのはガラス壁の向こう側で「ゴウウ」と唸る瘴気の低い風切り音と、この大地そのものが発する、か細い「無音の悲鳴」だけだった。
アビス様は、ここを「先代が何かを育てようとした場所」だと言った。
その痕跡が、端の方にかろうじて残っていた。
黒く炭化した、植物だったものの残骸。おそらくは瘴気に耐性のある魔界の植物だったのだろうが、それさえもこの凝縮された「死」の中では生き永らえられなかったのだ。
(……光が、足りない。土が、死んでいる。水も、ない)
光源は壁に設置された青白い魔道具の光だけ。これでは光合成もままならないだろう。
これほど絶望的な環境は、わたくしの園芸師としての知識の中でも初めてだった。
「キュイ!」
わたくしの足元で、コハクがこの新しい「庭」に最初は興奮したように駆け回った。
だがすぐに、その足元の感触に気づいたらしい。
カチカチの黒い土の塊に前足を乗せ、その鋭い爪でガリガリと引っ掻いてみせたが、硬い石を引っ掻くような音しかしない。
コハクは不満そうに「キュ?」と鳴き、わたくしの顔を見上げた。
(ふふ、そうね。これではあなたの好きな泥遊びもできないわね)
わたくしは、そのモフモフの頭を撫でた。
「あなたの毛皮も、これなら汚れなくて済みそうだわ」
「でも、見ていてちょうだい、コハク」
わたくしは立ち上がり、この広大な「死」を見渡した。
そして、笑みを浮かべた。
この状況は、絶望ではない。
わたくしにとっては、これ以上ない「挑戦」だった。
王宮の庭園は、すでに完成された「美」を維持する場所だった。わたくしが手を入れなくても植物たちは美しく咲いた。
森の「聖域」は、清浄な水というかけがえのない「恵み」があった。
だが、ここは違う。
ここは、何もない、「ゼロ」の場所。
わたくしの力だけで、この「死」を「生」に変えるのだ。
(……燃えてきたわ)
わたくしの胸が、研究者としての探求心に熱く高鳴る。
王太子殿下やレティシア様に「不快」だと蔑まれた、この土に汚れる手が、今これほどまでにうずいている。
王宮の誰でもできる「管理」ではない。
魔王領の誰もできなかった、「開拓」を。
このわたくしが、成し遂げるのだ。
「まずは、土起こしね」
わたくしは、セレス様に頼んで持ってきてもらった頑丈な農具――その中から一番わたくしの手に馴染みそうな、鋼鉄製の立派な鍬を握りしめた。
そして、その刃を固い大地にわたくしのありったけの体重を乗せて力任に突き立てる。
ガキンッ、と耳障りな音が響き、鍬の柄を通して腕が痺れるほどの衝撃が走った。
「……っ!」
(……想像以上に、硬い)
まるで岩盤を掘っているかのようだ。
だが、わたくしは諦めない。
「ふっ……!」
二度、三度と鍬を振り下ろし、瘴気で固まった土の塊を一つ、また一つと砕いていく。
すぐに全身が汗だくになり、呼吸が荒くなる。藍色の仕事着の背中が汗で張り付く。
森でのサバイバル生活でついた体力がなければ、一日も持たなかっただろう。
王宮の令嬢だった頃の、か弱い自分はもうどこにもいなかった。
コハクが、わたくしの周りを心配そうに「キュー、キュー」と鳴きながら見守っている。
「大丈夫よ、コハク。わたくし、今、とても楽しいの」
わたくしは汗を拭い、笑いかけた。
土を掘るたびに瘴気の残り香がツンと鼻をつく。
だが、それさえもわたくしにとっては「浄化すべき対象」として愛おしくさえ思えた。
半日かけて中庭の四分の一ほどの土を掘り起こし、硬い塊を砕いた。
わたくしは、その場にへたり込み、水袋の水を飲む。
「……はぁ。次は、あなたの出番よ、コハク」
「キュイ!」
わたくしは掘り起こした黒い土の前に座り込み、目を閉じた。
そして、わたくしの内なる金色の光を呼び起こす。
コハクがわたくしの膝に飛び乗り、額の宝石を輝かせ、わたくしの力にその清浄なマナを上乗せしてくれた。
(お願い、目覚めてちょうだい。この子たちに、わたくしの声を聴かせて……!)
わたくしとコハクの力が合わさった増幅された金色の光が、太陽のように中庭に満ち溢れる。
光が黒い土の塊に降り注いだ。
ジジジジジ……!
森で聞いた音よりもさらに激しい瘴気の蒸発する音が響き渡る。
黒い土が、まるで高熱に浮かされたかのように震え、その内側から凝縮された紫色の瘴気が煙となって立ち上り、魔力ガラスの天井にぶつかって消えていく。
その光景は、まさに「浄化」という名の「戦い」だった。
わたくしの体力がごっそりと奪われていくのが分かる。
だが、それと同時にわたくしの魂が歓喜に打ち震えていた。
どれほどの時間そうしていただろうか。
わたくしの体力が尽き果てる寸前、瘴気の煙が止み、土の震えが収まった。
「……はぁ、はぁ……」
わたくしが目を開けると、目の前には信じられない光景が広がっていた。
あれほど死んでいた黒い土が、すべて湯気を立てるほどふかふかの、豊かな「茶色い土」へと生まれ変わっていたのだ。
「……できたわ」
わたくしは、その温かい土を愛おしそうに両手ですくった。
(……生きてる)
土が、喜んでいる「声」が聞こえる。
もう「悲鳴」ではない。
(ありがとう……温かい……! 水が、欲しい……!)
わたくしは、魔王城のこの「死」の中心で、新しい「生命」を生み出したのだ。
「キュ!」
コハクが、待ちきれないとばかりにそのふかふかの土に飛び込み、嬉しそうに転げ回っている。
その真っ白な毛並みがすぐに泥だらけになるが、そんなことはどうでもよかった。
その姿を見て、わたくしは深い幸福感に包まれた。
わたくしは、この場所を魔王領の希望の「苗床」にしてみせると固く誓った。
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