第20話 5-4:過去を洗い流す
わたくしは、コハクを抱いたまま、侍女長のセレスという女性の後に続いて玉座の間を後にした。
あのギデオンという竜人族の男の、敵意に満ちた視線が背中に突き刺さるのを感じたが、わたくしはただ前だけを向いて歩いた。
(わたくしは、『賓客』なのだから)
わたくしは自分にそう言い聞かせ、背筋を伸ばす。
魔王城の廊下は、玉座の間と同じくすべてが黒曜石でできていた。
冷たく、厳かで、一切の装飾がない。
王宮の、無駄に絵画や彫刻が飾られた廊下とはまったく違う。
ここは、まぎれもなく「要塞」なのだ。
窓の外は相変わらず紫色の瘴気が渦巻いており、それを見ているだけで胸が苦しくなる。
(……この城の人々は、ずっと、この景色の中で……)
わたくしは、魔王アビスのあの深い「疲労」の色の意味を、少しだけ理解した気がした。
「こちらでございます」
セレスが重厚な扉の一つを開ける。
連れてこられたのは、城の一室にある巨大な浴室だった。
王宮の、白い大理石でできた華美な浴室とは違う。
黒い石造りの、シンプルで機能的な、しかしとてつもなく広い空間。
部屋の中央には、わたくしが拠点にしていた小川よりも大きな湯船があり、そこから魔道具で熱せられたのだろう、清浄な湯気がもうもうと立ち上っていた。
この瘴気の城で、これだけの「清浄な湯」を沸かし続けることがどれほどの贅沢か。わたくしには想像もつかなかった。
「エリアーナ様。お召し物はこちらに」
セレスが脇に置かれた寝台を指し示す。そこには清潔そうなタオルと、着替えが置かれていた。
「……その聖獣様は、わたくしどもがお預かりし、綺麗にいたしますが」
セレスが、わたくしが抱きしめているコハクにその冷たい視線を向けた。
「いえ!」
わたくしは思わず強い声で遮っていた。
この城に来て、魔王の次にわたくしが自分の意思をはっきりと示した瞬間だった。
「コハクは、わたくしが自分で洗います。どうか、この子をわたくしから離さないでくださいまし」
玉座の間でのあの二人の視線。
わたくしは、この城でコハクだけがわたくしの唯一の「家族」であり、わたくしを無条件で守ってくれる存在だと本能で理解していた。
「……」
セレスは、わたくしの必死な様子と、わたくしの腕の中で彼女に向かって「キュ!」と牙を剥くコハクを見て、一瞬、その冷たい仮面のような表情を崩した。
(……あら)
彼女の口元に初めて、値踏みではない、面白がるような笑みが浮かんだ。
「……承知いたしました。王の『賓客』が、そこまでおっしゃるのなら。それに、聖獣様ご自身がわたくしたちの手を拒絶なさっているようですし」
彼女は、わたくしがコハクから引き離されることを何よりも恐れていると察したのだろう。
わたくしに新しいタオルと、見たこともない黒い液体の入った石鹸(のようなもの)の瓶を渡すと、静かに扉を閉めてくれた。
「何かご入用でしたら、そちらの鈴を」
わたくしは重い扉が閉まる音を聞くと、まず扉に重い閂(かんぬき)がかけられることを確認した。
(……これで、大丈夫)
わたくしはコハクを床に降ろし、ようやく、この二ヶ月間わたくしの体の一部だった、泥と魚の皮で補強した作業着を脱ぎ捨てた。
ボロボロの衣服が黒曜石の床に落ちる。
エプロン、スカート、ブラウス……。
二ヶ月分の、わたくしの「生」の痕跡。
王宮のレティシア様が「不快」だと蔑んだ、この姿。
わたくしは、その抜け殻をしばし見つめていた。
わたくしは自分の体を見下ろした。
土と煤に汚れ、無数の擦り傷と、豆の蔓で切った切り傷だらけだ。
これが、わたくしが生き延びた証。
わたくしは、コハクと一緒にその熱い湯船に足を踏み入れた。
「……っ、あ……」
声が、漏れた。
(……温かい)
熱い湯が、わたくしの冷え切った体の芯まで染み込んでくる。
わたくしが「白亜の間」で断罪されてから、ずっと張り詰めていた緊張の糸が、プツリ、と音を立てて切れた。
王宮の衛兵に腕を掴まれた痛み。
荷馬車で揺られた三日間の寒さ。
瘴気の森で初めて火を起こした夜の恐怖。
魔獣の咆哮に怯え、イモを掘り続けた日々。
コハクを失いかけた、あの瘴気の澱みでの必死の戦い。
そして、魔王との邂逅。
そのすべてが、この、熱い、熱い湯の中に溶けていくようだった。
わたくしは夢中で自分の体を洗い清めた。
セレスが置いていった、薬草の香りがする黒い石鹸は驚くほど泡立った。
二ヶ月分の汚れと、汗と、泥。
それらが洗い流されていくたびに、わたくしの心も一枚、また一枚と軽く、清らかになっていくのを感じた。
(……わたくしは、生き延びた)
涙が、湯気の中で熱い湯に混じって止まらなくなった。
それは兵士のパンで流した「感謝」の涙でも、コハクを助けた「安堵」の涙でもない。
わたくし自身がこの過酷な森で生き抜き、そして今こうして人間としての尊厳を取り戻していることへの、「解放」の涙だった。
王宮でわたくしを縛り付けていた伯爵令嬢という「体裁」も、「毒草師」という「汚名」も、すべてが今この湯で洗い流されていく。
「キュ?」
コハクが、わたくしの足元で不思議そうにわたくしを見上げている。
「ごめんなさい、コハク。あなたも、綺麗になりましょうね」
わたくしはコハクの体を、今度はわたくしの浄化の力ではなく、温かい湯と石鹸で優しく洗ってやった。
瘴気の泥が完全に落ちたコハクの毛並みは、信じられないほど柔らかく、クリーム色に輝いていた。
「キュイ!」
コハクは温かい湯が気に入ったのか、気持ちよさそうに目を細めている。
わたくしが湯気の中でぼんやりするほど長い時間、湯船に浸かった後、浴室から出ると。
わたくしが脱ぎ捨てた、あの泥だらけの作業着はいつの間にか消えていた。
そして、代わりに寝台の上には清潔な下着と、新しい衣服が畳まれて置かれていた。
それは、わたくしが予想していたような、貴族の令嬢が着る動きにくいドレスではなかった。
濃い藍色の、厚手で丈夫な木綿の生地。
ロングスカートではあるが、裾には深いスリットが入っており、明らかに「動きやすさ」を重視している。
上着もシンプルだが保温性の高い、機能的なデザインだった。
(……これは)
わたくしは、その服を手に取った。
(わたくしを、「お飾り」の賓客としてではなく、きちんと「仕事」をする専門家として、見てくれている……?)
セレスが、あるいは魔王アビスが、わたくしのあのボロボロの作業着を見てこれを選んだのだ。
その事実に、わたくしの心は温かい湯で満たされたのとはまた違う、じんわりとした熱を持った。
王宮では「不快」だと侮辱されたわたくしの「仕事着」。
魔王領では、それがわたくしの「正装」として認められたのだ。
わたくしは、その清潔な服に袖を通した。
肌触りが心地よい。
髪を、持参した手帳の麻紐で結び直す。
湯上がりで火照った頬。清潔な衣服。
鏡はなかったが、わたくしは自分が「追放された毒草師」でも「森の原始人」でもなく、一人の「エリアーナ」という人間に戻れたことを実感していた。
わたくしは、すっかり温まって寝台の上でうとうとと船を漕いでいる、モフモフのコハクを抱き上げた。
コン、コン。
再び、セレスが扉をノックした。
「エリアーナ様。王が、夕食の席でお待ちかねでございます」
「……はい。今、参ります」
わたくしは、コハクを抱きしめ、深呼吸を一つした。
わたくしの、魔王領での新しい生活が、今、始まる。
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