第18話 5-2:賓客の招待

男のその言葉に、わたくしは息をのんだ。

(この人、わたくしの力を見ていた……!?)

わたくしが土を浄化し、植物を育てる、あの金色の光。

わたくし自身、まだよく分かっていないこの力の根源。

わたくしが剪定ばさみを握り直し身構えるよりも早く、男はわたくしたちの結界からそっと一歩後ずさった。

それは、わたくしたちに対する「敵意がない」という明確な意思表示だった。

ただの力押しではない理知的な行動に、わたくしの警戒心がわずかに揺らぐ。

「……わたくしの名は、アビス。この『魔王領』を統べる者だ」

「魔王領……」

やはり、とわたくしは思った。

アステル王国が、あの瘴気の森の向こう側にあると恐れる敵国。

そして、彼こそが、その頂点に立つ「魔王」。

(わたくし、魔王様に、剪定ばさみを向けて……)

わたくしの血の気が、今度は別の理由でさあっと引いていく。

恐怖が背筋を駆け上がった。

アステル王国のお伽噺に出てくる魔王は、角を生やし炎を吐く怪物のような姿だった。

だが、目の前の彼はあまりにも美しく、そして「人間」に近い姿をしている。

そのアンバランスさが余計に恐ろしかった。

相手は、あの末期段階の魔獣を一撃で屠る存在。わたくしが逆らったところで、この結界ごと、わたくしの小さな庭ごと、一瞬で消し去られるだろう。

だが、アビスと名乗った魔王は、わたくしの恐怖を意にも介さず、意外にも静かな声で続けた。

「お前は、人間だな。名は?」

「……エリアーナ、と申します」

わたくしは、震える声でかろうじて答えた。

「エリアーナ」

彼は、わたくしの名を、まるで貴重な鉱石でも検分するかのように静かに反芻した。

「人間が、瘴気の森で二月も生き延びている。それだけでも異常だが……お前は、この地で『暮らして』いる」

彼の視線が、わたくしの育てた豆畑、燻製にするために干してある魚、そして洞窟の入り口にある焚き火の跡へとゆっくりと注がれる。

それは、ただ見ているのではない。

わたくしが、ここで何を考え、どう行動し、どうやって「生活」を確立したのか、そのすべてを分析している「王」の目だった。

「この清浄な『庭』を作り、聖獣まで従えている」

「キュ!」

その言葉に、わたくしの足元でコハクが「従えてなどいない!」とでも言うように抗議の声を上げた。

わたくしは慌ててコハクの頭を撫でる。

「こら、コハク。……申し訳ありません、この子は、わたくしの……」

「……失礼。相棒、か」

魔王は、コハクの抗議の意図を正確に理解したかのように淡々と訂正した。

(この人、コハクの言葉が……?)

彼もまた、聖獣の「声」が分かるというのだろうか。

「エリアーナ。お前のその力、その知識……」

魔王アビスは、わたくしから視線を外し、再びわたくしが浄化した「庭」を見つめた。

「このような森の辺境で、一人、生き延びるためだけに使うには、あまりにも惜しい」

「……どういう、意味ですの?」

「わたくしの民が、苦しんでいる」

彼の声に、それまでの冷たさとは違う、深い「疲労」と「苦悩」の色が滲んだ。

その瞬間、彼の紅い瞳が、アステル王国の誰よりも深く絶望しているように見えた。

「お前が浄化した、この土地の瘴気。わたくしの領地は、その呪いに何百年も蝕まれ続けている。わたくしは、この身に宿す魔力で瘴気を『押し返す』ことしかできん。『癒す』ことができないのだ」

彼は、まるで自分自身に言い聞かせるかのように苦々しく続けた。

「わたくしの魔力が強ければ強いほど、瘴気は反発し、より濃く悪質になる。だが、お前の力は違う。瘴気を『滅する』のではなく、『無害なものへと変質』させている。……そうだろう?」

(……!)

わたくしは息をのんだ。

その通りだった。わたくしは自分の力をそこまで深く分析したことはなかった。

だが、言われてみれば、わたくしの力は瘴気を焼き払うのではなく、黒い土を命育む茶色い土へと「変えて」いた。

この魔王は、それをほんのわずかな時間見ただけで、完璧に見抜いたのだ。

彼は、わたくしをまっすぐに見つめた。

その紅い瞳は、王としての絶対的な力強さと、一人の男としての切実な「渇望」で、危ういほどに揺らめいていた。

「わたくしは、お前を力ずくで城へ連れて行くこともできる。だが、それでは意味がない」

彼の視線が、わたくしの背後にある青々とした薬草畑に向けられる。

「その力は、お前の『意思』によってのみ発動するもののようだ。……コハクが、お前の意思に従い守っているようにな」

彼は、わたくしとコハクの絆の本質まで見抜いているようだった。

「ならば、わたくしは、王として、お前に請う」

彼は、その美しい顔をわずかに伏せ、魔王という存在にあるまじき「請願」の形を取った。

この、強大な力を持つ王が、泥だけの追放された人間の女に、頭を下げている。

その光景が、あまりにも現実離れしていて、わたくしは瞬きもできなかった。

「エリアーナ。わたくしの城へ来てほしい。お前のその『浄化の力』を、わたくしの民のために貸してはくれまいか」

「……!」

「わたくしは、お前を罪人や奴隷として扱うつもりは毛頭ない。アステル王国がお前にどのような仕打ちをしたかは知らんが……わたくしは、お前を、この魔王領の『賓客』として、最大限の敬意と待遇を約束する」

賓客――。

「毒草師」として追放されたわたくしが、今、敵国の王から「賓客」として招かれている。

王太子殿下とレティシア様の、あの侮蔑に満ちた顔が脳裏をよぎる。

彼らが「不快」だと切り捨てた、わたくしのこの土に汚れた手と、この力を。

目の前の魔王は、「民のために必要だ」と頭を下げて請うている。

あまりのことに、わたくしの頭は混乱していた。

(この人の、お城へ……)

わたくしは目の前の魔王と、自分の足元の「聖域」を見比べた。

ここでコハクと二人、静かに暮らしていくことはできるだろう。わたくしはこのささやかだが完璧な庭に満足していた。

だが、この広大な瘴気の森をわたくし一人で浄化することなどできはしない。

わたくしの力は、この小さな「点」でしかない。

でも、もし。

もし、この強大な魔力を持つ「王」の庇護の元で、彼の言う「城」で、わたくしの研究が、わたくしの力が……。

(……もっと、大きなことができるかもしれない)

王宮でレティシア様に搾取されるためだけだった力が、今、「民を救うために貸してほしい」と一国の王に請われている。

わたくしの園芸師としての、研究者としての魂が、その「可能性」に震えるのを止められなかった。

「……わかりました。お伺いします」

わたくしは覚悟を決めた。

剪定ばさみを、そっとエプロンのベルトに戻す。

わたくしのその仕草を見て、魔王アビスの張り詰めていた空気がわずかに緩んだのが分かった。

「ただし、条件がございます」

わたくしはコハクを抱き上げ、まっすぐに彼の紅い瞳を見つめ返した。

「この子、コハクと、わたくしの道具、そしてわたくしがここで育てた薬草たちも、すべて一緒に連れていくことを、お許しいただけますか?」

わたくしのその言葉に、魔王アビスの紅い瞳がほんのわずかに見開かれた。

彼は、わたくしが金品や地位ではなく「相棒」と「研究道具」を要求したことに驚いているようだった。

そして次の瞬間、彼の唇に、わたくしが想像もしなかった、かすかな、本当に微かな「笑み」が浮かんだ。

それは、彼がこの森で見せた初めての「人間らしい」表情だった。

「……当然だ。お前の『庭』ごと、すべて歓迎しよう」

「わたくし」ではなく、「わたくしの庭ごと」。

その言葉に、わたくしは、この王が「本物」であると確信した。

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