第8話 2-4:清浄なる小川と最初の「浄化」
エプロンのポケットは、クルミと野生のイモでずしりと重い。
わたくしは、この「命の重さ」を感じながら、次なる目標である「水」を探していた。
あの兵士がくれた水袋は、先ほど最後の一滴を飲み干してしまった。
高揚感は、今や、喉の奥からじりじりと這い上がってくる渇きに取って代わられようとしている。
(食料があっても、水がなければ三日と持たない)
わたくしは焦る心を抑え、再び五感と植物たちの「声」に意識を集中させた。
瘴気は低い場所に溜まる。今いる斜面は比較的瘴気が薄いが、わたくしの本能は、この斜面をさらに下った、より瘴気が濃いはずの窪地を指し示していた。
(なぜ……?)
理由はすぐにわかった。植物たちの「声」だ。
(水が……水が欲しい……!)
(あちらに、水が……!)
ある一定の方向を向いている植物たちの「声」だけが、「渇き」を訴える悲鳴に満ちていた。
そして、瘴気の腐臭に混じって、ごく微かに、湿った土と冷たい岩の匂いがする。
(水の匂い……!)
わたくしは確信した。この斜面の先に、わたくしの命綱がある。
わたくしは剪定ばさみを強く握り直し、意を決して瘴気が濃くなる窪地へと斜面を下り始めた。
一歩下るにつれ霧は粘度を増し、視界が奪われていく。
(怖い……)
魔獣の咆哮が、先ほどより近く聞こえる気がした。こんな場所で鉢合わせたら、逃げる術はない。
だが、その恐怖よりも渇きと植物たちの悲鳴の方が強かった。
(もう少し……もう少しのはず……!)
どれほど下っただろうか。
不意に、ある「音」に気づいて足を止めた。
この森で、わたくしが発する音と、瘴気の唸り声、魔獣の咆哮以外に初めて耳にする音。
サラサラ……サラサラ……
水が流れる音だ。
(あった……!)
わたくしは最後の力を振り絞り、その音のする方へと駆けだした。
深く垂れ込めた紫色の霧を両手でかき分けるように進むと、唐突に視界が開けた。
「ああ……!」
思わず歓喜の声を上げた。
そこは森の底とでも言うべき岩に囲まれた窪地だった。
だが、そこだけ、あの忌まわしい紫色の瘴気が立ち入るのをためらっている。
なぜなら、その窪地の中心を、一条の「小川」が流れていたからだ。
「水……!」
わたくしは夢中で小川のほとりに駆け寄り、膝をついた。
水は、信じられないほどに澄み切っていた。
紫色の瘴気に汚染されたこの森にあるとは到底思えない。川底の一つ一つの小石の色さえはっきりと識別できる。
(どうして、これほど清浄な水が……)
王宮の禁書庫で読んだ地理書の記述を思い出す。
(……そうか。水源が、この森の外……瘴気の影響を受けていない、遥か東の山岳地帯から流れてきているんだわ!)
地下深くの水脈を通り、この窪地で初めて地上に湧き出している。だから瘴気の影響を受けずに、これほどの清浄さを保っているのだ。
わたくしは兵士のくれた水袋を投げ出し、両手で水をすくった。突き刺すような清冽な冷たさが手のひらを突き抜ける。
(……冷たい!)
この「冷たさ」こそが生命の証だった。
震える手でその水を口に含む。
(……美味しい)
鉄臭さも瘴気の味も一切しない。王宮の井戸水よりも清らかで、甘露な味がした。
わたくしは赤子のように何杯もその水を飲み干した。乾ききった喉が、胃が、全身の細胞が歓喜の叫びを上げている。
生命そのものが、わたくしの内に再び満ちていく。
「助かった……これで、生き延びられる」
ようやく落ち着きを取り戻し、水袋にこの清浄な水を満杯に詰めた。革袋がずしりと重くなる。
食料も水も手に入れた。わたくしは、生きられる。
安堵の息をつきながら改めて顔を上げると、この小川の周囲が森の他の場所とは明らかに「違う」ことに気がついた。
(土が……黒くない)
瘴気に汚染された乾燥した黒い土ではない。小川の縁に広がっているのは、豊かな水分を含んだ、生命力を感じさせる濃い「茶色」の土だった。
手袋を外し素手で掴むと、ひんやりとして柔らかい。
(……素晴らしい。これなら、何でも育てられるわ)
わたくしが王宮で何年もかけて作り上げようとしていた「理想の土」が、ここに自然のままの姿であった。
そして、その土には、
(草が……生えている!)
黒くねじくれた木々しかないと思っていたこの森で、初めて目にする鮮やかな「緑」だった。
まだ小さくか細いが、確かに生きている草の芽だ。
わたくしは園芸師としての本能に導かれ、その草の芽にそっと指先で触れた。
(……あなたたち、苦しかったのね)
わたくしの「声」を聞く力が、か細い悲鳴を聞き取っていた。
(水は、ある。土も、いい。でも……息が、できない。光が……足りない。何かに、押さえつけられる……!)
清浄な水辺のおかげで彼らはかろうじて芽を出しているが、窪地の上空に満ちる大気の瘴気が、彼らの成長を無理やり押さえつけているのだ。
(……押さえつけられている)
その言葉に、わたくしは自分自身の姿を重ねていた。
王宮で、レティシア様と王太子殿下に、その力と矜持を「不快」だと押さえつけられていた、自分自身の姿を。
(わたくしが、助けてあげる)
わたくしは、その草の芽の前に深く膝をついた。
(わたくしが、あなたたちを『解放』してあげる)
王宮では、わたくしの力は植物を「元気にする」ことしかできなかった。
だが、ここでは違う。わたくしの内側で、瘴気を無意識に押し返しているあの温かい力。
(もし……この力を、わたくしの意思で、この子たちに注ぎ込んだら?)
これは、実験だ。わたくしの力が、この極限の地でどこまで通用するのかの、最初の。
わたくしは両手で、その小さな草の芽を、触れるか触れないかの距離でそっと包み込んだ。
目を閉じて、意識を集中させる。
わたくしの内なる力、清浄な小川の気配、豊かな大地の息吹。そのすべてを、今、この一点に。
(お日様の光を。豊かな土を。あなたたちの力を、解放しなさい)
わたくしの手のひらから、自分でも驚くほどの温かい光が溢れ出した。
淡く、しかし力強い、太陽の光にも似た「金色」の光だった。
わたくし自身にも初めて見る、鮮烈な「浄化」の光。
その光が、草の芽と周囲の土を繭のように優しく包み込む。
わたくしの周囲の紫がかった瘴気が、光に触れた途端、悲鳴を上げて後ずさるのが分かった。
光が、この一角に清浄な「領域」を作り出している。
そして、奇跡が起きた。
「……!」
わたくしの目の前で、光に包まれた草の芽が、まるで早送りの映像のように信じられない速度で成長を始めたのだ。
「カサ……カサカサ……!」と、命が広がる音がする。
か細かった茎は見る見るうちに太くなり、縮こまっていた葉は手のひらほどの大きさに力強く広がる。
その葉の色は、瘴気にくすんだ緑ではない。わたくしが王宮で育てていたどの植物よりも鮮やかな、生命力に満ちた「翠(みどり)」だった。
その成長は止まらない。
茎はさらに伸び、先端に一つの蕾が形作られる。
その蕾が、わたくしの金色の光を浴びて、ゆっくりと、しかし確実に開き始めた。
「……咲いた」
わたくしは、その光景に呆然と呟いた。
そこに咲いたのは、純白の、五枚の花弁を持つ可憐な花だった。
この色彩のない、黒と紫だけの絶望の森で、その白さは、まるで星そのものが地上に降りてきたかのように輝いて見えた。
わたくしの力が、この瘴気の森で新しい命を育んだのだ。
それも、王宮にいた時とは比べ物にならないほどの、圧倒的な「浄化」の力として。
わたくしは、土に汚れた自分の両手を見下ろした。
その手のひらが、まだ淡い金色の光を帯びて温かく脈打っている。
(わたくしの力は……『園芸』なんかじゃなかったんだわ)
(これこそが、わたくしの、本当の力……)
わたくしは、目の前に咲き誇る白い花と、清らかな小川、豊かな茶色い土を愛おしそうに見つめた。
(ここよ。ここが、わたくしの新しい『庭』だわ)
わたくしは、この清浄な小川のほとりを、わたくしの新しい拠点、わたくしだけの研究室にすることを、固く心に誓った。
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