第2話 今日から始まる婚約者との同居生活

 大野孝太おおの/こうたは頭を両手で抱え込み、目の前の現実が信じられなかった。

 どうにか筋道を立てようと頭をフル稼働させるが、すぐに答えなど出るはずもなく、ただただ混乱が募るばかり。


 学校を終え、帰宅した途端、見知らぬ女の子が“婚約者”と名乗り、堂々と家に上がり込んでいるなんて、想像の遥か上をいく事態だった。


「孝太、私のこと、ちゃんと覚えてるよね?」


 玄関で凍りついたままの孝太に、目の前の美少女――宮崎咲那みやざき/さなは、屈託のない笑みを浮かべてみせた。


 黒髪のロングヘアがさらりと揺れ、まるで春風のような軽やかさ。

 モデル雑誌の表紙に抜擢されそうな私服に身を包み込む彼女に、孝太は一瞬だけ目を奪われてしまった。


「いや、ごめん、悪いけど……全然ピンとこない」


 孝太は正直に首を振った。


「えーっ、なんでよぉ?」


 咲那が困ったように眉を寄せる。

 その仕草が妙に愛らしく、孝太の心が少しだけ揺らぐ。


「なんでって……どこかで会ったこと、あったっけ? 凛、何か心当たりあるか?」


 隣に立つ妹のりんに視線を向ける。

 ポニーテールを軽く揺らしながら、凛は首を傾げた。


「……うーん、見たことあるような、ないような? なんか、ぼんやりした感じ」


 完全に一致団結の疑問符状態だ。


「ほら、凛もそう言うし。そもそも、なんで勝手に家に入ってるんだ?」


 孝太が詰め寄ると、咲那はにこりと笑って、私服のズボンのポケットから鍵をひょいと取り出した。


「だって、孝太の両親からスペアキーもらってるからよ。ほらね」


 キラリと光る金属が、孝太の現実をさらにねじ曲げた。


「俺の親が? 君に?」

「うん。今日からここに住んでいいって。だから、今日から住むことになったの」 「……は? 勝手に? 俺、何も聞いてないけど。凛は? 何か知ってるか?」

「私も初耳だよ」


 凛が小さく首を振る。ポニーテールがふわりと舞った。


「まあ、ここで立って話すのもアレだし、リビングに行こ?」


 咲那が孝太の腕をぐいっと掴み、抵抗する間もなく引きずっていく。

 孝太はされるがままに足を進める。すでに気力は削がれ、ただただ流されるしかなかったのだ。




 リビングのソファに、孝太と凛が並んで腰を下ろす。

 ローテーブルを挟んだ向かい側に、咲那が優雅に座った。彼女は自分自身の家の住人のように自然な振舞い方をする。


「孝太、本当に何も思い出せないの?」


 咲那が言葉を切り出す。

 孝太はため息をつき、額に手を当てる。


「一応聞くけど、昔ってどのくらい前の話?」

「小学一年の夏休みくらいかな」

「だとすると、今、俺が高二だから……十年前か。そりゃ無理だよ。思い出せないから」


 記憶の奥を必死に探るが、何も浮かばない。引き出しは空っぽだ。


「じゃあ、婚約の話はどう? 覚えてる?」

「何年も前だし、全然」

「孝太がそう言うと思って、ちゃんと持ってきたよ」

「何を?」

「昔のアルバム! これ見れば、少しは思い出すでしょ」


 咲那がソファにおいていたバッグをごそごそ漁り、大きなアルバムを取り出す。


「そういうの持ってきていたのか」

「もちろん!」


 咲那がテーブルにアルバムを広げると、懐かしい写真がずらりと並んだ。

 幼稚園の頃の写真から、小学校の入学式、遠足、運動会。色褪せない記憶の断片たち。


「よく保存してたな」


 孝太はアルバムのページに収められた写真を全体的に見て、感心したように呟く。


「これがね、昔の私と孝太だよ」


 咲那が指差した一枚。そこには小さな孝太と咲那が、肩を寄せ合って満面の笑みを浮かべていた。

 背景は小学校の敷地内にある桜並木。春の陽光が写真越しに溢れ、甘い匂いまで漂ってきそうだ。


「確かに、この景色……俺が通ってた学校と同じだ。という事は、俺と君は昔からの知り合いだったのか」

「だから最初からそう言ってるじゃん」


 咲那が頬を膨らませる。その仕草が妙に可愛らしく、孝太は苦笑した。


「俺と君が初めて会ったのはいつ頃なんだ?」

「幼稚園のときだよ。それで私が転校したのが小学一年の夏頃ってこと」

「あー、なんかそんな記憶が……」

「少しは思い出した?」

「まあ、ぼんやりだけど。それでさ、婚約って誰が言い出したんだ?」

「孝太から」

「……は?」


 咲那がアルバムの最後のページから、折りたたまれた紙を取り出す。

 それは子供らしい字で書かれた手紙だった。


『さきなちゃん だいすき けっこんしてね こうた』


「こ、これ、俺が書いたの?」


 自分自身でも、こんな手紙を書いた事を思い出せない。

 幼稚園児の頃の自分が、書いた手紙と向き合い、赤面する。


「昔は孝太の方がグイグイ来てたんだから」

「……」


 信じられず思わず声を失う。

 焦りまくり、赤面状態の兄を見て、隣で凛がくすくすと笑い始めた。


「あのとき、めっちゃ嬉しかったんだよね。人生で初めての告白だったし。他の男の子もいたけど、孝太みたいな人はいなくて……どうしても諦めきれなくて、だからここまで来たの」

「そ、そうなんだ。君の親はそれでいいって?」

「言ってないよ」

「それはヤバくないか?」

「もう絶縁みたいなものだから。あっちはもう気にしてないよ」

「そ、そうなのか……でも、ちょっと心配だな」


 孝太が遠慮がちに言うと、咲那はぷいっと顔を背けた。


「どうだっていいのよ。あんな自分勝手な親なんて」


 咲那から放たれる冷たい声。

 その表情に、孝太は言葉を呑み込んだ。


「お兄ちゃん、あんまり突っ込まない方がいいよ」


 凛が小声で囁く。

 孝太は察したように小さく頷いた。


「凛、このまま泊めちゃって大丈夫か?」

「いいんじゃない? タロットカードで女教皇出てるし」


 高貴な女性が描かれたカードを、凛がそっと見せる。


「え、なにそれ」

「ハイプリエステス。直感を信じなよって意味」

「直感か……まあ、追い出すわけにもいかないし。えっと、ごめん、もう一度名前を聞いてもいい?」

「宮崎咲那。気軽に咲那でいいよ」


 咲那は再び笑顔に戻り、フレンドリーに話す。

 会話していて思うが、彼女は悪い人ではない。ただ、あまりにも急展開過ぎて、孝太の中で現実味を帯びていなかった。


「じゃあ、咲那。よろしく」

「じゃあ、今日から婚約者としてよろしくね」

「それはちょっと早すぎるというか。今の咲那を知らないから、まずは友達からでいいかな?」

「いいよ。でも、最終的には結婚もありだよ?」

「け、結婚⁉」

「まだ早いけど。色々とよろしくね、孝太」


 咲那はウインクをする。


 これから始まる同居生活。

 波乱の予感しかしない。

 でも、なぜか――胸の奥が、ほんの少し温かかった。

 元カノに振られた心の痛みが、わずかながら和らぎ始めたからだ。

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