第16話 女性の体育祭


 じりじりと照りつける秋の日差しが、乾いたグラウンドの砂埃(すなぼこり)を白くきらめかせている。万国旗が気だるげに空を泳ぎ、スピーカーからは、この日のために練習されたであろう勇ましいマーチングバンドの演奏が、割れた音で鳴り響いていた。

 体育祭。その言葉が持つ、本来の胸躍るような響きとは裏腹に、俺、篠宮悠人は、この場所に満ちる異様な熱気に辟易(へきえき)していた。

 俺たち二年生の男子生徒は、クラスの待機テントの、最も日陰になる後方部分に集められていた。その数は、クラスに八人もいない。対照的に、テントの前方を埋め尽くすのは、体操服に身を包んだ女子生徒たちの圧倒的な数だ。彼女たちの甲高い歓声と、汗の匂いが混じった熱気が、テントの中に充満している。


 これが、俺たちの世界の現実だった。男子生徒の死亡率は依然として高く、労働力も、社会活動も、その大半を女性が担っている。体育祭という学校行事も、その例外ではなかった。開会式で選手宣誓に立ったのは、凛々(りり)しい顔立ちの三年生の女子生徒だった。実行委員長として挨拶するのも女子。応援団長として、低い声を張り上げているのも、学ランを羽織った女子だ。

 プログラムに並ぶ競技名も、その実態を色濃く反映している。「男子選抜リレー」といった、かつての花形種目は消え失せ、代わりに「女子による騎馬戦」や「クラス対抗女子綱引き」といった、力仕事を女性が担う競技ばかりが並んでいた。俺たち男子生徒の役割は、その異様な光景を、希少な賓客(ひんきゃく)のように眺めていることだけだった。


「陽葵。俺から離れるな。日陰から出ることも許さない」


 俺は、隣に座る陽葵に、改めて釘を刺した。彼女は、俺と同じクラスの、用具係という名目上の役割を与えられていた。もちろん、俺が競技に参加することなど一切許さず、彼女を俺の絶対的な監視下に置くための、唯一の選択肢だった。


「……うん。わかってる」


 陽葵は、青白い顔で小さく頷いた。相田早苗との一件以来、俺は彼女への支配をさらに強化した。俺の許可なく「外部」と接触することは、たとえ相手が女子であっても、俺の生存戦略に対する重大な裏切り行為と見なした。陽葵も、それを理解していた。彼女は、早苗への「罪悪感」を押し殺し、俺の「管理」を、より深く、諦念(ていねん)と共に受け入れていた。

 だが、その時、俺たちの閉鎖された空間に、迷いなく踏み込んでくる人影があった。


「水瀬さん。用具係の打ち合わせです。こちらへ」


 黒崎凛だった。彼女は、クラス替えで俺たちとは別のクラスになったはずだが、体育祭実行委員会の、用具部門の責任者として、学年全体を統括しているらしかった。彼女は、知的な眼鏡の奥の瞳で、俺ではなく、陽葵だけを真っ直ぐに見据えている。


「……何の用だ。陽葵は、俺の管理下にある。必要なことは俺が聞く」


 俺は、陽葵の前に出るようにして、凛の視線を遮(さえぎ)った。


「篠宮くん。これは、あなたの個人的な感情の問題ではありません。体育祭の運営という、学校行事における『論理的な決定事項』です。水瀬さんは、三組の用具係として登録されている。彼女には、用具の数量確認と配置という『役割』があります」


 凛は、俺の独占欲など意にも介さず、冷徹な事実だけを突きつけた。


「陽葵はここを動かない。俺が許可しない」


「あなたの許可は、学校運営の論理において必要ありません。水瀬さん、あなたはクラスの一員としての『責任』を果たさないつもりですか? それとも、彼個人の『独占』という非論理的な感情を、公的な『義務』より優先すると?」


 凛の言葉は、巧みに陽葵の良心を抉(えぐ)った。彼女の言う「責任」や「義務」という言葉は、陽葵が俺の支配を受け入れている、まさにその根幹を揺さぶるものだった。

 陽葵は、俺の背後で、唇を噛みしめていた。俺への「義務」と、クラスメイトとしての「義務」。二つの正義が、彼女を板挟みにする。


「……悠人。ごめん。……行かないと。用具係、だから」


 陽葵が、俺の服の裾(すそ)を掴(つか)み、か細い声で言った。

 俺は、舌打ちをした。ここで俺が無理に陽葵を引き留めれば、それは、あの橋本への暴力や、早苗への威嚇と同じように、陽葵をさらに孤立させるだけだ。

 俺は、凛を睨(にら)みつけたまま、陽葵にだけ聞こえる声で言った。


「……行け。ただし、絶対に俺の視界から消えるな。凛以外の人間とは、一切、口を利くな」


「……ありがとう」


 陽葵は、安堵したようにそう言うと、凛の後ろについて、テントの端にある用具置き場へと向かった。俺は、その背中を、獲物(えもの)を狙う肉食獣のように、執拗(しつよう)な視線で追い続けた。


 競技が、グラウンドで繰り広げられていく。女子生徒たちが、汗まみれになりながら騎馬を作り、激しくぶつかり合う。その熱狂をよそに、俺は、テントの端で、凛と共に備品の数を数えている陽葵の姿だけを監視していた。

 凛は、手にしたバインダーのリストと、目の前の備品(ゼッケンや綱引きの綱)を照合しながら、陽葵にテキパキと指示を出している。

 陽葵は、最初は緊張でこわばっていたが、凛の容赦のない論理的な指示に応じているうちに、その表情が、わずかに変わっていくのを、俺は見てしまった。

 彼女は、ゼッケンを色別に仕分けし、数を数え、凛に報告する。その単純作業に、彼女は、信じられないほど集中していた。その横顔には、俺の部屋で「義務」を果たす時の、あの屈辱や葛藤の色はなかった。そこにあるのは、与えられた「役割」を完璧にこなそうとする、優等生としての、純粋な達成感。

 凛が、彼女の報告を聞いて、小さく頷く。その瞬間、陽葵の口元に、本当に微かだが、「笑み」のようなものが浮かんだ。

 俺は、その表情に、胸が凍り付くような衝撃を受けた。

 陽葵が、笑った。

 俺の支配下で、俺の儀式によってではなく。俺以外の人間(黒崎凛)の指示によって、俺が管理していない「主体的な活動」の中で、彼女は「喜び」を見出したのだ。

 俺の孤独が、一気に深まった。俺の「密室」は、完璧ではなかった。俺は、彼女の身体を支配し、その行動を管理することはできても、彼女の「心」が、このような外部の活動に「喜び」を見出してしまうことを、防ぐことはできなかった。


「……非効率的ね」


 不意に、背後から声がした。振り返ると、いつの間にか、黒崎凛が俺の隣に立っていた。陽葵は、凛から次の指示を受け、一人で用具の片付けを続けている。


「……何がだ」


「あなたのその監視行為よ、篠宮くん。あなたは、社会の現実から目を背けている」


 凛は、俺ではなく、グラウンドで繰り広げられる女子騎馬戦を見つめながら言った。


「あれが、私たちの社会の現実よ。女性が、男性の代わりに、すべての労働力と責任を担っている。それなのに、あなたは、水瀬さんという、この社会にとって貴重な『労働力(リソース)』を、あなた個人の『生存本能(愛)』のために独占し、非稼働状態にしている。社会全体が必死に動いているこの体育祭の場で、二人だけがテントの隅で座っている。これほど、社会倫理に反する、非論理的な光景があるかしら」


 凛の言葉は、以前、俺を糾弾した時と同じ「論理」だった。だが、この「女性の体育祭」という、社会の歪みを凝縮したような光景を背景に突きつけられると、その言葉は、以前とは比べものにならないほどの重い「現実」として、俺に突き刺さった。


「守る? いいえ、あなたは彼女の『主体性』を奪っている。彼女は、今、私と備品の確認をしていた時、生き生きとしていたわ。彼女は、あなたの人形(お守り)であることよりも、社会の一員として『役割』を果たすことに、喜びを感じる人間よ。あなたは、自分の独占欲のために、彼女が社会で活躍する未来(夢)と、彼女自身の『喜び』を、同時に奪っているのよ」


 凛の論理的な圧力が、俺の「愛(独占)」と「社会の現実」が、決定的に衝突している事実を、容赦なく暴き立てる。

 俺は、陽葵の、あの微かな「笑み」を思い出した。凛の指摘は、痛いほど正しかった。

 俺は、自嘲(じちょう)のこもった、乾いた笑いを漏らした。


「そうか?確かに関係は歪かもしれない。俺が陽葵を縛り付けているつもりで、実際には、陽葵が俺を縛っているのかもしれないな。お互いにそれを自覚して疲弊しているのだから、外から見れば滑稽かもな。こうして凛と話しているのだって、あとで俺が陽葵に怒られる」


 俺の予想外の返答に、凛はわずかに目を見開いた。彼女の冷徹な論理は、俺の自嘲的な諦観という、まったく別の次元の感情によって、受け流されたからだ。


「……あなた、自分が何をしているか、自覚があるのね。滑稽で済む問題ではないわ。あなたは、加害者よ」


 凛は、俺の内省的な態度を、論理で説き伏せられない単なる「開き直り」だと断じた。その冷たい視線が、俺の胸に最後の棘(とげ)を突き刺す。

 俺は、その言葉から逃げることなく、自嘲をさらに深めて、乾いた声で答えた。


「加害者、か。……そうかもしれないな。陽葵に見捨てられないようにしないとなあ。喧嘩して泣いて謝って笑っての繰り返しだよ」


 凛は、俺のその返答に、今度こそ何も言わなかった。彼女の正論は、俺たちが囚われているこの歪みに、罰を与えることはできても、そこから俺たちを救い出す力は持っていなかった。

 俺は、一人、テントの陰で、用具を片付ける陽葵の背中を見つめ続けた。彼女のあの「喜び」の表情が、俺の脳裏に焼き付いて離れなかった。


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