第8話 社会倫理の糾弾


 陽葵が「感染症研究」という夢を口にしてから、俺たちの間の空気は微妙に変化した。俺は、あの日、「俺がその夢をかなえてやる」と宣言した。それは、彼女の夢を応援するという「建前」を使い、その夢の管理権すらも俺が握るという、より高度な「支配」の宣言だった。陽葵は、その支配的な優しさ(と彼女は誤認しただろう)を受け入れるしかなかった。俺のそばにいなければ、彼女は夢を追うことすら許されないのだから。だが、一度芽生えた夢の光は、彼女の瞳から完全には消えなかった。俺の管理下にあるという諦念と、それでも新星総合医科大学のパンフレットを密かに読み込む彼女の姿は、俺にとって新たな脅威の火種となった。陽葵の主体性が、俺の支配という殻を内側から破ろうとしている。俺は、その兆候に苛立ち、無意識に彼女への束縛を強めていた。


 文化祭の準備が本格化し、クラスの空気は浮ついている。陽葵は、どのグループにも属さず、俺の隣で静かに参考書を開いている。その姿は、周囲の喧騒から切り離され、まるで透明な壁の中にいるかのようだった。その壁を、再び破る者たちが現れた。昼休みの喧騒の中、俺たちが中庭のいつものベンチに向かおうとした時、三人の女子生徒が俺たちの進路を塞いだ。黒崎凛。緑川繭。そして、今まで遠巻きに観察するだけだった、白石楓。三人が揃って俺たちの前に立つのは、これが初めてだった。その光景は、まるで俺たち二人を裁くための法廷が開かれたかのようだった。陽葵の手が、恐怖で俺の制服の袖を強く掴む。


「またお前らか。何の用だ」


 俺が敵意をむき出しに言うと、凛が冷徹な声で応じた。


「篠宮くん。私たちは、あなたではなく水瀬さんに用があるの。前回はあなたに妨害されたけれど、今日は最後まで聞かせてもらうわ」


「陽葵に話すことも、陽葵がお前たちに話すことも何もない。失せろ」


「いいえ、あるわ」


 凛は一歩も引かなかった。彼女の知的な瞳が、俺の背後に隠れる陽葵を射抜く。


「水瀬さん。あなたが篠宮くんの庇護下に入り、彼を独占し続けているという事実は、このクラスの秩序を著しく乱しています。あなたは、社会的な『希少資源』を不当に私物化している。これは、昼休みに個人的に忠告したレベルの話ではなく、社会倫理に対する明確な『罪』よ」


 凛の言葉は、以前よりも厳しく、断定的だった。彼女の言う「論理」は、俺たちの独占を「個人の自由」の範疇から「社会への加害」へと引きずり出した。


「ま、待ってよ、凛ちゃん! そんな言い方じゃ、陽葵ちゃんが可哀想だよ!」


 すかさず、緑川繭が芝居がかった優しさで割り込んできた。だが、その瞳は笑っていない。彼女は、陽葵の手を掴もうとするかのように、ぐっと距離を詰めた。


「でもね、陽葵ちゃん。私たちだって、必死なんだよ? 男子が少ないって、どれだけ大変なことか、母子家庭の陽葵ちゃんなら分かるよね? 私の家みたいに、家族みんなで一人の男の人を支えなきゃいけない家だってあるんだから。それなのに、陽葵ちゃんだけが悠人くんを独り占めするのは……やっぱり、ずるいよ。助け合いの精神で、私たちにも『分け与える』べきじゃないかな」


 凛の「論理的な糾弾」と、繭の「感情的な要求」。二方向からの圧力に、陽葵は呼吸すら忘れ、青ざめた顔で震えていた。俺は、陽葵の前に立ち、二人を睨みつけた。


「お前たちの理屈は分かった。要するに、陽葵から俺を奪いたいだけだろ。だが、断る。俺の生存戦略は、陽葵と添い遂げることだ。お前たちの言う『分かち合い』など、隼人と同じ愚行でしかない」


「……その生存戦略こそが、傲慢だと言っているのよ」


 凛が冷たく言い放った。その時だった。それまで黙って二人の後ろにいた白石楓が、小さな、しかし芯のある声で呟いた。


「……それに、水瀬さん。あなた、進路の夢があるんでしょ」


 その言葉に、俺と陽葵は同時に息を呑んだ。なぜ、こいつが。陽葵が、夢のことを他人に話したとは到底思えない。


「新星総合医科大学。……感染症の研究がしたいって、言ってるらしいじゃない。そんな立派な夢がある人が、一人の男に『管理』されてて、恥ずかしくないの?」


 楓は、うつむき加減のまま、本の隙間から蛇のような瞳で陽葵を観察していた。どこから情報が漏れた? 陽葵の母親か。あるいは、俺との会話を盗み聞きしていたのか。だが、そんな詮索よりも、楓の言葉が陽葵に与えたダメージの方が大きかった。


「あ……あ……」


 陽葵は、自分の最も純粋な部分、主体性の最後の砦である「夢」を、白日の下に晒され、それを「独占」のダシに使われたことに、激しく動揺していた。楓の攻撃は、凛の論理や繭の情動よりも、はるかに陰湿で、正確だった。凛と繭も、陽葵の「夢」の存在には驚いたようだった。だが、凛はすぐにそれを自分の論理に取り込んだ。


「……そう。夢があるのなら、なおさらよ、水瀬さん。あなたが社会に貢献する夢を持つことと、社会の資源を独占することは、明確に矛盾している。あなたは、自分の夢と、社会への義務、どちらを選ぶの?」


 三方向からの包囲網。論理、情動、そして陰湿な暴露。陽葵は、この集団的な重圧に耐えきれず、ついにその場に泣き崩れた。


「……う……うぅ……っ!」


 その泣き声を聞いた瞬間、俺の怒りが再び沸点を超えた。こいつらは、俺の「所有物」を、俺の「お守り」を、集団で寄ってたかって傷つけている。陽葵の夢は、俺が「かなえてやる」と約束した、俺の管理下にあるものだ。それを、こいつらが土足で踏みにじる権利などない。


「……いい加減にしろよ」


 俺は、泣き崩れる陽葵を背後にかばい、三人を睨みつけた。


「陽葵の夢は、俺の夢だ。こいつのことは、お前たちに指一本触れさせない。陽葵の命も、陽葵の夢も、全部、俺が『守る』」


 俺はそう宣言し、陽葵の腕を引いて無理やり立たせると、三人の間をこじ開けるようにして突き進んだ。背後で、三人が何かを言っていたが、もう聞こえなかった。俺は、陽葵の手を強く引きながら、校舎の裏へと向かう。陽葵は、恐怖と屈辱に声を殺して泣き続けていた。俺は、この集団的な嫉妬が、陽葵の安全だけでなく、彼女の「夢」——俺が管理下に置いたはずの夢——すらも脅かし始めていることに、強い脅威を感じていた。俺の支配は、まだ足りない。


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