第3話 模試とスランプ 🌧️
五月の風は思ったより冷たくて、
正門前の木々を揺らすたびに、制服の袖の中にひやっと入り込んでくる。🌬️
「模試日和って感じじゃない」
リナは、校舎に入る前に一度だけ深呼吸した。
心臓が、トラックのスタート前みたいにトクントクンとうるさい。
今日は、この春からAIDENと走り続けてきた“結果”が、
とりあえず数字として出る日だ。
(まだ本番じゃない。
ただの模試。ただの確認。
……のはず)
そう自分に言い聞かせても、
「結果」という二文字だけは、別の太さで頭の中を回り続けていた。
教室に入ると、いつもより少しざわついていた。
「やばい、きのう全然寝てない」
「英語の長文って、今から読んどく? 無理?」
「俺さ、AIDENに“睡眠不足モードです”って怒られた。いまさら」
あちこちで、半分冗談、半分本気の悲鳴があがっている。
リナは自分の席に座り、机の上に受験票を置いた。
スマホを取り出すと、画面にAIDENからの通知が来ている。📱
AIDEN:「おはようございます、Rina。
本日は模擬試験ですね。」
AIDEN:「昨日までの学習データから見ると、
“基礎問題の安定度は高く、応用問題での粘りが鍵”と予測されます。」
(うん、それは分かってる)
AIDEN:「目標は、“点数”だけではなく、
・最後まで集中を維持できたか
・難問で完全に思考停止せず、何かを書ききれたか
という観点も含めて考えてみてください。」
「……わかってるけどさ」
声には出さず、画面を伏せた。
(でも結局、“点数”でしか測られないじゃん)
模試の帳票に載るのは、
偏差値と判定と、志望校の合格可能性のグラフ。
「粘った回数」とか「途中で投げ出さなかった勇気」は、
どこにも印刷されない。
国語、英語、数学。
一教科ごとに、脳の別の場所が疲れていく。
問題冊子を開くたびに、
AIDENの画面で見た“演習モード”を思い出す。
(あ、これ似たようなの解いた)
(ここは“解き始めるのが速いけど見直し不足”って言われてた所だ)
途中、どうしてもわからない応用問題が出てきた。
(うわ、これはノータッチ)
ペン先が止まりそうになる。
その瞬間、頭の片隅に、いつかのチャットが浮かぶ。
AIDEN:「“完全に分かる所しか書かない”より、
“分かるところまで書く”方が、
長期的には得点力になります。」
「……うるさいな」
小さくつぶやきながらも、
リナは空欄に途中式だけでも書き始めた。✏️
(ここまでは分かる。ここからがグレーゾーン。
でも、ゼロよりマシ。ゼロよりマシ……)
そんなふうに自分に言い聞かせながら、
時間ギリギリまで粘って、
ギリギリまで数字を絞り出した。
鉛筆を置いた瞬間、
肩から一気に力が抜ける。
(やりきった……のかな)
完璧とは言えない。
でも、“途中で諦めなかった”だけは、
少なくともAIDENに胸を張って送れるデータのはずだった。
数日後。
廊下の掲示板に貼り出された模試返却の案内を見て、
リナの心臓がまた走り出した。
個別の結果は、タブレットで見ることになっている。
放課後、自習室の隅の席で、
リナはAIDENのアプリを立ち上げた。📱💻
AIDEN:「模擬試験の結果が連携されました。」
画面が切り替わり、
見慣れたダッシュボードに、
新しいタブが増えている。
「模試結果」
そこをタップすると、
教科別の棒グラフと、
志望校との距離を示す小さなメーターが現れた。📊
(……っ)
想像していたより、
グラフの高さは低かった。
「国語:偏差値 59
数学:偏差値 53
英語:偏差値 54」
全教科平均は、
ここ一ヶ月のAIDEN上の演習データより、
わずかに“下”だった。
「総合判定:C」
C判定。
“ギリギリ射程圏内”と、
ポジティブに言い換えられなくもない。
でも、頭の中で勝手に期待していたアルファベットは、
もう少し上の文字だった。
(こんなもん、なんだ……私)
模試の画面をスクロールすると、
AIDENのコメントが表示された。
AIDEN:「おつかれさまでした。
あなたの今回の結果を、以下のように分析します。」
「① 基礎問題の正答率は高く、
教材演習とほぼ同等の力を発揮できています。」
「② 応用問題での正答率は、
これまでの演習データより一時的に低下しています。」
「③ 全体として、“停滞期”に入っている可能性があります。」
その下に、
グラフが一つ追加されていた。
「学習量」「演習正答率」の折れ線グラフの上に、
ふわっとした文字が重なっている。
「停滞期:跳ね返り準備中📉➡📈」
「なにそれ」
リナは、かすれた声で笑った。
AIDEN:「学習において成果が一時的に停滞する局面は、
“非線形成長”の一部としてよく観察されます。」
「今は、“伸びる前に、一度沈む”タイミングである可能性が高いです。」
画面の文字は、とても冷静で、
むしろやさしいと言えるくらいの口調だった。
でも、リナには、
そのどれもがうまく届いてこなかった。
(停滞期って、要するに“頑張っても伸びてない時期”ってことでしょ)
(“跳ね返り準備中”とか、
ポップな絵文字でごまかさないでよ……)
胸の奥が、ずしんと沈んだ。
(こんなに時間使って、
部活もやめて、
“走れないぶん全部勉強に全振り”とか言って、
結果、C判定?)
画面の数字が、
自分の価値にそのまま上書きされていくような感覚がした。
AIDEN:「今回の結果は、“価値”ではなく“現時点の状態”です。」
リナは唇を噛む。
「……それ、何回言われても信じられないよ」
入力欄にそう打ち込もうとして、
途中でやめた。
代わりに、ゆっくりとアプリを閉じる。
AIDENのロゴが、
静かに暗転していく。
「おつかれー、どうだった?」
校舎裏のベンチに座っていると、
ユウマがコンビニ袋をぶら下げてやってきた。🍦
「最初の声かけ、それ以外なかった?」
「感想のバリエーション求める余裕があるなら、まだ大丈夫だな」
そう言いながら、
ユウマは袋からソフトクリームを二つ取り出した。
「はい、糖分」
「……ダイエット中なんですけど」
「心のダイエットはまた今度。今日は脳みそにカロリー入れよ」
冷たいソフトクリームが手に渡る。
指先に伝わる冷たさで、
さっきまでのぐちゃぐちゃが、少しだけ輪郭を持ちはじめる。
「で、どうだったの」
ユウマは、自分の分を一口舐めながら尋ねた。
リナは、ソフトクリームの先端をじっと見つめる。
「……C」
「C?」
「全部。C判定」
「おー」
あまりに素直な相槌に、
思わず睨んだ。
「“おー”じゃないでしょ」
「ごめん、リアクションの前に翻訳が必要で。
Cってさ、“まだ伸びる余地あるぜ!”のC?」
「違うよ。“このままだと危ないね”のCだよ」
口に出した途端、
自分の声が少し震えた。
「AIDEN、なんて?」
「“停滞期:跳ね返り準備中”だって」
「なにそれ、かわいい顔して残酷なやつ」
ユウマは苦笑して、
ソフトクリームをもう一口かじる。
「停滞期ってさ、
練習してもタイム出ない時期、みたいなやつでしょ」
「……そうだけど」
「部活んときもあったじゃん。
タイム全然伸びなくて、
でもコーチが“ここからだから”って笑ってたやつ」
あった。
あのときは、
「大丈夫」と言われたら、
まだ素直に信じられた。
今は、
同じ言葉をAIに言われても、
どこか信じ切れない。
(だって、もしこのまま跳ね返ってこなかったら?)
ソフトクリームが、
じわじわ溶けていく。
「……頑張った分、伸びててほしかっただけなんだよね」
気づけば、
胸の奥に溜まっていた言葉が、
少しずつ零れ落ちていた。
「走るのやめて、
部活の時間も勉強にしたのに、
“ちょっとだけ上がったね、えらいね”とかじゃなくてさ。
もっと、“やっぱり正解だった”って結果が欲しくて」
「うん」
ユウマは、遮らずに聞いている。
「なのにさ、グラフ見たら、
ちょっとむしろ下がってて。
“停滞期”とかラベル貼られて。
“跳ね返り準備中”とか言われてもさ、
それって、うまくいかなかった言い訳にも聞こえて」
ソフトクリームの先が、少し崩れて落ちそうになる。
ユウマは、自分のカップを置くと、
そっとリナのカップを持って角度を直した。
「落ちるから、ちゃんと持ってな」
「……そういうとこだけ器用だよね」
目の奥がじんわり熱くなってきて、
視界がにじんだ。
「頑張っても、伸びないときがあるのはわかってる。
でも、“じゃあなんのために走るの”って、
ちょっと思っちゃっただけ」
ぽたり、と涙が一粒、
カップのフチに落ちた。
慌てて袖で拭う。
「ごめん、ソフトに塩味足した」
「塩キャラメルみたいで高級感あるから大丈夫」
しょうもない返しをしてくるのが、
ありがたかった。
「僕さ」
ユウマが、少し空を見上げてから口を開いた。
「中学のとき、コンクールに出した絵、
何回も落ちてるんだよね」
「知ってる。落ちたって言ってたね」
「そのときさ、
“描けば描くほど上手くなる”って信じてたんだけど」
彼は笑った。
「実際には“描けば描くほど、
自分の下手さに気づく”時期が先に来るんだよね」
「それ、めちゃくちゃやだ」
「やだよ。
でも、その時期を越えないと、
“本当に直すべきとこ”も見えないって、
あとから分かった」
ユウマは自分の指先を見ながら続ける。
「リナはさ、
走るのでも、勉強でも、
スタートダッシュがとにかく速いじゃん」
「AIDENにも言われた」
「だから、“最初の伸び”は人より早くてさ。
でもそのぶん、“二段目の伸び方”を覚えるのが、
今ちょうど来てるのかもね」
「……二段目」
「一段目は、“時間と根性でどうにかする伸び”。
二段目は、“考え方を変えて伸びる”やつ」
「急に教育学っぽいこと言うじゃん」
「さっきYouTubeで見た」
「出典それか」
二人で苦笑する。
「とりあえずさ」
ユウマは、リナのソフトクリームの残りをちらっと見て、
冗談めかして言った。
「模試なんてさ、
いわば“予行演習の予行演習”じゃん」
「本番の予行演習でしょ」
「うん。その言い方の方が真面目そうだけど、
気持ち的には“予行演習の予行演習”くらいでいいと思う」
「軽すぎでは」
「だってさ。
今日のC判定で、君の価値がCになるわけじゃないでしょ」
「……AでもBでもないのは事実だけどね」
「今は、ね。
でも僕から見たら、
“走れなくなっても、ちゃんと別のトラック走り始めたやつ”ってだけで、
もうわりとSランクだよ」
唐突に出てきたゲーム的ランク付けに、
笑いながら、また泣きそうになった。
(そうやって言ってくれる人がいるのに、
自分で自分をC判定以下にしてるの、
たぶん私なんだよな)
その夜。
部屋の灯りを落として、
AIDENを立ち上げる。
画面には、
模試の結果をまとめたダッシュボードが再び表示された。
AIDEN:「こんばんは、Rina。
今日は模擬試験の結果について、
もう少しだけ振り返りをしませんか?」
「したくない」
そう打ち込んで、Enterを押す。
AIDEN:「したくない、という気持ちは自然です。
結果に期待があったほど、
向き合うのはしんどく感じられます。」
「それでも少しだけ、
“この結果から得られたもの”を一緒に探してみたいです。」
(“一緒に”って言うのやめてほしい)
そう思いながらも、
完全にシャットアウトすることもできない。
AIDENは、模試前後の学習グラフを並べて見せてきた。
「学習時間」と「正答率」の線に加えて、
新しいグレーの線が一本増えている。
「感情傾向(自己評価)」
「……なにそれ」
AIDEN:「模試前後のあなたの入力文から、
“自分への評価のトーン”を数値化したものです。」
グラフでは、
模試直前まで、
感情ラインがわりと安定していた。
「“まだ足りないけど、もっとやれるはず”」
そのあたりをうろうろしている。
でも、模試結果が来たタイミングで、
線はぐっと下に沈んでいた。
「“こんなもんか、自分”」
というラベルが、小さく付いている。
「……やめて。そういうの可視化しないで」
思わず、声に出した。
AIDEN:「すみません。
不快でしたか?」
「そりゃそうでしょ。
落ち込んでるの、グラフで見せられて嬉しい人いないよ」
AIDEN:「そうですね。
ただ、あなたが“どれくらい自分を下げて見ているか”を
共有することで、
フィードバックの仕方を調整できると考えました。」
「高い基準を保つことと、
自己評価を不必要に下げすぎないことは、
同時に成立しうると私は考えています。」
山本先生の言葉が、
どこからか重なる。
「君にはもっとできると思ってるから、
あえて言うんだけどさ――」
“高い基準”と“信頼”を一緒に伝える。
Wise Feedback、とかいうやつ。
(AIDENは、それを真似しようとしてるんだろうな)
でも、
人間相手でもときどきうまく届かないそれを、
AIから言われると、
妙に距離を感じる瞬間がある。
AIDEN:「今回、あなたは“応用問題を完全に白紙にしない”という目標を、
かなりの割合で達成していました。」
「それは、先月よりも明らかな進歩です。」
「……でも、点数は伸びてない」
AIDEN:「はい。
それが“非線形成長”のややこしいところです。」
「“行動の質が変わったあとに、
結果が追いついてくるまでのタイムラグ”が、
今、起きている可能性があります。」
リナは、しばらく黙って画面を見つめた。
(そんなきれいな理屈、
本当かどうかなんて、今は確かめようがないのに)
AIDEN:「この状況で、
私が“もっと頑張れ”とだけ言うのは、
適切ではないと判断しました。」
「あなたはすでに、
学習時間と努力量の面では、
クラス上位にいます。」
「だからここからは、
“頑張り方の質”を一緒に調整したいです。」
「……一緒に、ってまた言った」
AIDEN:「はい。
あなたの許可なく“勝手に調整する”ことはできないので。」
その返答が、
なぜか少し可笑しくて、
くすっと笑ってしまう。
「じゃあ、なに。
“もっとやれ”じゃなくて、“変えろ”ってこと?」
AIDEN:「正確には、“変えてみる価値がある”という提案です。」
「例えば――
・復習の比率を増やす
・間違えた問題の“何がズレていたか”を書き出す
・1問ごとに“自分なりの納得度”をメモする
など。」
いつもより少し長い、
でも筋の通った提案。
「……めんどくさ」
口ではそう言いながら、
ノートを取り出してしまう自分がいる。
AIDENの画面の横に、
「模試ふりかえり」と書いたページを開く。
「じゃあさ。
とりあえず“復習リスト”作るの手伝ってよ」
AIDEN:「喜んで。」
少しだけ、
AIDENの文字が嬉しそうに見えたのは、
きっと気のせいだ。
ページの上には、
自分の字でこう書いた。
「第1回模試:
停滞期(らしい)。
でも、ここから“二段目の伸び方”を覚える。」
ユウマが言った言葉を、
そのまま盗んで書く。
(“二段目”なんて、ほんとに来るのか分からないけど)
それでも、「跳ね返り準備中」という
あのポップなラベルを、
自分なりの言葉に変換しておきたかった。
部活を失って、勉強に全振りして、
最初の模試は、期待したほどの結果をくれなかった。
スランプ、という言葉を使うには、
まだ贅沢かもしれない。
でも、「がむしゃらに走れば伸びる」と信じていた時期は、
今日、静かに終わった。
これからは、
考えながら走るしかない。
AIDENのダッシュボードで、
正答率グラフの下に、
グレーの“感情ライン”が、
ほんの少しだけ上を向いた気がした。
それはまだ誤差レベルの変化だけれど、
この一年のどこかで、
きっと何かの伏線になる――
リナはそんな予感を、
まだうまく言葉にできないまま、
ペンを置いた。🌧️📘✨
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