第1章 初回の仕事

第1話

 今日も疲れた。やはり、決めて、狩って、処理をして。一人で三段階も踏むとなると結構大変なのである。しかしまぁ、今日の処理は大変だった。詳しい事情は割愛するが、とにかく大変だった。いつもの倍は時間がかかってしまった。


 さて、来週は誰にしようか。そう考えたところで、リストの追加を待つしかないのだが。次回の手段について考えつつ、鳴海は常連にならざるを得ないバーへと向かった。


 疲れで力の入りにくい身体全体で重たいドアを開けると、カランコロンと控えめではあるが軽快なベルの音が響く。鼻腔をかすめたのはアルコールと木材。鼻の奥に残っている殺害時の不快感が、少しだけ緩和されたような気がする。その先に広がるのは、薄暗いカウンターとテーブル席が3つ。客は一人だけ。カウンターの後ろには、多種多様な瓶に詰められたアルコールが鎮座している。

 グラスを拭きながら振り返ったのは、白シャツに黒いベストと紺色のネクタイを締め、ふわふわとした髪の毛を揺らし子犬のように甘く微笑む男。彼の目は鳴海の疲労と纏う雰囲気から、今日の成果を全て見抜いたように思えた。理由は単純で、ただ単にこの男は全てを知っているからに他ならない。


「いらっしゃいませ。……今日はずいぶん遅かったんですね」

「珍しく残業で。なんか適当に、おすすめちょうだい」

「かしこまりました。せっかくの週末なのですから、”残業”で疲れた心身を労ってくださいね」


 カウンターの左奥、いつもの席に鳴海は腰掛けた。ここは、入り口から一番遠く、トイレからも距離があり、一人で居るのが好きな鳴海にとって都合の良い席。隣の椅子に鞄を置き、ふうと息をつく。


 家に帰ってきて、日々の仕事からやっと解放されたという安心感と共に、どこか違和感を覚えた。住んでいるアパートの地下にあるいつものバー、いつもの店主、いつもの席。普段と変わらぬ光景のはずなのに、背中が不思議とぞくぞくする。熱でもあるのだろうかと額に触れるが熱くもなく、体調を崩しているという違和感でもない。


 訝しみながらぐるりと周囲を見渡すと、テーブル席に座る男と目があった。そいつは、こちらをじっと見つめている。どうやら違和感の正体はこの男の視線だったらしい。なんだこいつ、と思いつつも敵を増やしたくはないので、首を傾げて得意の人畜無害そうな微笑みを返す。しかし男は相変わらず視線をこちらから逸らさず、まるで獲物を狙う獣のように、全身の感覚を研ぎ澄ませているようだった。


「……なんなんだよ」


 酔っ払いに絡まれると碌なことがない。面倒ごとになる前にさっさと帰るかと鞄を手にしたとき、目の前にコトリとグラスが置かれた。中に入った液体は、南国のビーチような、綺麗に澄んだ青色をしている。


「お待たせいたしました、ブルーデビルでございます」


 ブルーデビル。ジンベースか。疲労の抜けない今の状態には少し度数が高すぎる。


「あぁ、どうも。でもごめん、もう」

「あのさ」


 突然割り込んできた知らない声の方に振り向く。


「うわ、近っ」


 向けた顔の先に、先ほどの男の顔があった。それも、ちょっとでもバランスを崩せばキスしてしまいそうなほどに近い距離に。瞬時に顔を引き、体を引き、なんとか距離を保とうとする。しかし獲物を追い詰めるように、男が迫ってくる。香水ほど強くはないが無臭でもない、この男の柔軟剤なのだろうか、柔らかく解けるような石けんの香りがふわりと香った。


 座っているのはカウンターの端の席、これ以上逃げることはできない。男の顔は、至近距離にあった。そして、スンスンと匂いを嗅がれる。


「何。ここゲイバーじゃねぇんだけど」


 あまりの不躾な挙動に、社会に適応するために作ったおとなしそうな人という仮面を外して言葉を吐き捨てる。こんな面倒くさそうな奴に、外面を取り繕う必要はないだろう。


「血」

「は?」

「血のにおいがする」


 琥珀色の眼から逃げることができなかった。そしてその、信じがたい台詞に体が硬直する。……まさか、バレた? いや、そんなはずは。だって、これまで何十回も完璧に隠してきた。殺しを終えてから警察署の前を堂々と歩いたことだって、職質を受けても何の問題もなく帰ってきたことだってあるのに。


 しんと静まり返ったその空間に、唾を飲み込む音だけがやけに響いた。


 次に口を開いたのもまた、目の前の男だった。しかし発せられたのは、想像の斜め上の言葉。


「あんたさ、もしかして怪我してんの?」

「……は?」

「あの、お客様」


 見かねた月崎が声をかけてくれた。助かった、と思った。


「ん?」


 男の視線がやっと自分から逸れた。やっと琥珀色から解放され、ギギ、と錆びたロボットのような動きで体を戻す。無意識のうちの手はグラスを掴み、ブルーデビルが喉を通る。アルコールが胃に落ちてじわりと熱を持つ。


「少々、距離が近いかと」

「え、あ、ごめんね。心配になっちゃって、つい」


 先ほどの鋭い眼光はどこへやら、へらっと笑った男は顔の前で手を合わせていた。鳴海は男の様子を冷徹な目で見つめる。手の甲には血管が浮き上がっていて、へらへらした表情とミスマッチを起こしている。たぶん、これは顔の方が嘘。


「……別に、怪我してませんので。ご心配なく」

「まじ? そっか、ならよかった。じゃあ俺の勘違いかー。ごめんね」

「いえ」


 ちゃらけた様子でカウンターに肘をついた男は、鞄を置いた隣の席に座った。鳴海の鞄は、大切な宝物でも入っているかのような手つきでその隣の席へと移動させられた。いや、勝手に目の届かないところに置かないでほしい。


 ……めんどくせぇな、こっち来んのかよ。


 残業《手こずった処理》の後に酔っ払いの相手は勘弁してほしいので、酒を飲み干すことなく席を立つ。もったいないが、まぁ、置いておけばこいつが勝手に飲むだろう。

 男の横を通り過ぎようとしたとき、ガッと手首を掴まれた。体が跳ねる。


「……なんですか」

「で、本当はどんな奴ヤってきたの?」

「……はい?」

「嗅覚鋭いからわかんだよね」

「何の話ですか」

「敬語だるいからタメ語でいーよ。お前血のにおい消えてねぇよ? まぁうっすらだから俺か警察犬くらいじゃないと嗅ぎ分けらんないだろうけど」

「だから、一体何なんですか。あんまりしつこいと警察呼びますよ」

「呼べないくせになに言ってんの?」


 手首を掴む手はいつの間にか離れていた。


「俺さ、お前の正体知ってるから。ってか月崎さんから聞いてないの? 俺ずっとここで待ってたんだけど」

「は?」


 思わぬ話の流れに月崎を見る。相変わらず、感情の読めない微笑みを返された。


「お一人で行うのがそろそろしんどくなってきたとお伺いをしておりましたので、鳴海さんに適任のお相手をお呼びしておりました。鳴海さんがいらしてからご説明しようと思っていたのですが、本日はご帰宅が遅くいらっしゃったので、ご説明ができておらず申し訳ございません」

「いや、あの、相手?」

「ひとまず、お席にお戻りになってはいかがでしょう。ブルーデビルが可哀想です」


 渋々カウンターに戻り、アルコールを口に含む。舌の上で甘さと苦さが混ざり合い、焼けるようなアルコールが喉を通り過ぎる。疲労と動揺で過剰に鋭敏になっていた身体に鋭く入り込み、思考回路は少しずつ麻痺していく。


「っつーわけで、よろしくー、鳴海さん。俺、副業で死体処理やってんだ」


 飲み込む瞬間にそんなことを告げられ、その軽薄な話し方と発さられた言葉のギャップに、青い悪魔が気管に侵入してきてむせ込んだ。


「うわっ、ちょっ、大丈夫?」


 男からはペーパーナプキン、月崎からは無言で水を差し出され、落ち着いてからやっと男の顔を再び見た。


「死体、処理?」


 どうにか震える手でもって、ペーパーナプキンで口元を押さえつつ発した声は、暴れ回った悪魔のせいでうわずっていてガラガラだった。

 酷い声、と笑いながら男は説明した。


「月崎さんから、鳴海さんが死体処理に困ってるって話を聞いて。副業っつってもさ、なかなかこんな仕事見つかんないし? 収入不安定で困ってたんだよねー。鳴海さんなら定期的に仕事発生するって聞いて、これもしかしてWin-Winじゃねって思って。俺は、定期収入が得られる。んで、鳴海さんは、苦手な死体処理を自分でやらなくて済む。どう? 好条件じゃない?」

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