急変と消失
扉の前に立つと、胸の内側で何かが鈍く鳴った。
張りつめた空気。
そこだけ、世界の色が薄くなるような感覚。
――奈留。
私は手を伸ばしかけて、そこで一度止めた。
雅志の声が、扉の向こうから微かに聞こえたからだ。
「……奈留……!」
掠れた、泣きそうな、けれど必死に堪えた声。
それだけで胸が締めつけられ、私はそっと壁に背を預けた。
今、二人の間に踏み込むべきではない。
そう思った。
矢吹も黙って立ち止まり、わずかに距離を置いた位置で待機している。
控えめな気遣いが、この男の誠実さそのものだった。
私は静かに息を整え、耳を澄ませた。
――中から、小さな泣き声が漏れてくる。
奈留だ。
その声は、痛みよりも罪悪感に濡れていた。
「……ごめんね……雅志……」
弱々しく震える声。
続いて、雅志の息を呑む気配。
「謝るなよ……奈留……
謝るなんて……そんなの、違うだろ……」
声が震え、途切れながら続く。
「気づけなくて、ごめん……!
俺が……俺が、もっと……!」
そこで、奈留の声が遮った。
「違うの……全部……
私が……隠したから……」
かすれた声。
泣きながらも必死に伝えようとする気持ちが、扉越しに痛いほど伝わる。
私はそっと目を閉じる。
――やっとだ。
二人とも、やっと本当の言葉を口にした。
扉の前で立ち尽くしていると、横から矢吹が静かに囁いた。
「……お嬢様。
ご様子を伺いますか?」
私は首を横に振る。
「まだよ。
今は……二人の時間でしょう?」
矢吹は軽く頭を下げ、それ以上は何も言わなかった。
再び耳を澄ます。
奈留の声が、震えながら続く。
「……赤ちゃん……守れなかったら……私……どうしたら……」
その瞬間、雅志の声がくぐもった。
涙を堪える音だった。
「守るよ。
俺も一緒に……お前と一緒に……!
だから……奈留……生きてくれ。
……お願いだから」
途切れ途切れの懇願。
それを聞いた奈留の泣き声が、弱いのに、確かに変わった。
泣き崩れるというより――息を吸った音だった。
生きようとする、とても小さな音。
私はそっと胸に手を置いた。
……間に合った。
まだ望みは消えていない。
扉が僅かにきしむ音がした。
私は顔を上げる。
担当医が廊下の向こうから歩いてくる。
表情はまだ硬い。
「……胎児心拍が、一時的に持ち直しました」
その瞬間、足から力が抜けそうになった。
矢吹がすぐ肩を支えてくれる。
私は小さく息を漏らす。
「……そう……良かった……」
「ただし……予断は許しません。
いつ急変するか分かりません。
精神的安定が影響している可能性が高いです。
このまま、ご主人が側にいることが何より重要です。
どうか、側にいてあげてください」
医師の視線が、扉の向こうへ向けられる。
私は頷く。
「分かりました。
彼に……全部任せます」
医師は軽く会釈し、ナースステーションへ戻っていった。
廊下に静けさが戻る。
私は扉をそっと見つめる。
――奈留。
あなたは今、ちゃんと“選んでる”。
生きる理由を。
誰かと繋がる未来を。
私は深く息を吸い、扉に寄りかかった。
「……奈留。
聞こえてなくてもいい」
小さく、小さく囁く。
「あなたは、一人じゃないわ。
私たちがいる」
ふっと、肩の力が抜けた。
涙は出なかった。
その代わりに、胸の奥に温かいものが灯っていた。
矢吹が静かに言う。
「お嬢様。
……良かったですね」
私は微笑んだ。
「ええ。
でも……まだここからよ」
奈留も。
雅志も。
奈留の胎内で生きようとしている子も。
これからが始まり。
私は扉に手をそっと重ね、心の中で言った。
――待ってるわ。
奈留。
あなたたち家族三人で、ちゃんと前に進む姿を。
そのとき初めて、私はようやく一歩、廊下の明かりへと踏み出した。
夜が少しずつ、明け始めていた。
廊下の明かりに向かって、一歩を踏み出したそのときだった。
――微かな、けれど不自然な音が背後からした。
「……ん?」
扉の向こうで、軽い物が落ちるような音。
それは病室で使われているはずの器具の音ではなかった。
もっと柔らかい、衣擦れにも似た――嫌な沈み
方をした音。
私は反射的に振り返った。
同時に、扉の向こうの“空気”が変わったのが分かった。
さっきまで温かく戻りつつあった気配が、瞬間、すっと引いていく。
「……矢吹」
呼ぶと、矢吹もすでに気づいていたのだろう。
静かに一歩、扉へ近づいた。
私は扉に触れようとして、ためらった。
嫌な予感が、脳の奥で低く鳴っている。
そのときだ。
――機械の警告音が、短く鳴った。
控えめで、しかし確実に「おかしい」と告げる音。
病室の中からだ。
雅志の声が聞こえた。
先ほどまでとは違う、かすれきった声。
「……奈留? 奈留……?」
呼ぶ声に、返事がない。
私は息を呑んだ。
さっきまであれほど泣いて、震えて、必死に言葉を返していた奈留が――
静かすぎる。
「開けます」
矢吹が低く言い、私が頷く間もなく、扉を押し開けた。
病室に一歩踏み入れた瞬間、胸の中の何かが落ちた。
雅志が、ベッドに身を乗り出すようにして奈留の肩を揺らしていた。
「奈留……返事して……なぁ、奈留……?」
その声は、もう涙を堪えていない。
奈留は、目を閉じたまま。
呼吸が――浅い。
浅すぎる。
枕元のモニターが、不規則な波形を描いていた。
先ほど担当医が言っていた“持ち直した心拍”が、また沈み始めているのが一目で分かった。
私は足がすくんだ。
でも、立ち止まっている暇はなかった。
「矢吹、医師を――」
「すでに呼んでおります」
矢吹の声はブレなかった。
その安定した声が、逆に事態の深刻さを際立たせていた。
私が奈留に近づくと、雅志が顔を上げた。
涙で濡れた目が、恐怖に開いている。
「彩さん……
奈留が……さっきまで……」
「落ち着きなさいな。
貴方がそんなんでどうするのよ」
言いかけて、言葉が途切れた。
奈留の手が――冷たい。
温度が、さっきとは違う。
私はその手を必死に包み込んだ。
「……奈留、聞こえる?
戻ってきて。
まだよ」
声が震えた。
廊下の向こうから、足音が急いで近づいてくる。
複数だ。
矢吹が、扉を開け放った。
担当医。
その後ろに、もう一人。
さらに、もうひとり。
暗い茶髪を束ね、手術着の上から白衣を羽織った女性。
すらりとした影が、病室に入るなり空気を変えた。
奈留の母親であり、産婦人科の名医。
彼女が、今ここにいる。
その瞳が奈留を見た瞬間、わずかに揺れた。
けれど、その揺れはすぐに消える。
「――急変ね」
低く、抑えた声。
一歩でベッドへ近づき、奈留の状態を確認する。
「準備を。
すぐに処置に移るわ。
脳神経外科医として、サポート頼むわね」
彼女の声に合わせるように、周囲の医師たちが動く。
雅志が彼女に縋るような目を向ける。
「お義母さん……
奈留が……
奈留が……!」
は一切迷わず言った。
「泣くのは後にしなさいな、雅志くん。
今は――間に合わせることだけを考えなさい」
その声は冷たく、しかし震えるほど強かった。
間に合わせる。
まだ間に合う。
そう言い切った彼女の背中だけが、この部屋で唯一揺らがないものだった。
それから、どれくらい時計が針を刻んだだろう。
処置室のランプが消え、医師がひとり、またひとりと出てくる。
高沢と呼ばれた、黒髪で長身の男性が出てきた直後に、朱音先生も出てきた。
「朱音先生……奈留は?
無事なんですよね……?」
「彼女は無事よ。
彼女だけは、ね」
一瞬の沈黙の後、彼女の口から、低いトーンで言葉が落ちた。
「赤ちゃんは――無理だったわ」
その言葉に、雅志はその場で崩れ落ちた。
床に手をつき、息が詰まったように震える。
声も出ない。
ただ、ひたすらに拳で病院の冷たい床を何度も、何度も叩いていた。
泣き方さえ分からなくなった人間の背中だった。
私は一歩、踏み出しかけて――そこで止まった。
ふと、眉間に深く皺を寄せた男性医師が、私に目を向けた。
「アンタも休むんだな、宝月の嬢ちゃん。
宝月の家には、俺の同期の野村を専属医師として引き取ってくれた恩もあるんだ。
それに、俺たちの勤務する
アンタも、糸一本だけで立ってる感じだろ。
許可はとったから、空き病室使っていい。
とっとと寝るんだな」
朱音先生――奈留の母親が、たった一言だけ私に告げた。
「高沢の言うとおりよ」
ほんの少し、彼女の母親としての面影が、見えた気がした。
高沢
彼の言葉が落ちたあと、彩は一度だけ瞬きをした。
心も身体も張り詰めすぎて、息を吸うだけで胸が痛い。
「……私は、まだ――」
そう言いかけたところで、高沢が無言で眉をひそめる。
朱音も、腕を組んだまま淡々と言った。
「彩さん。
あなた、足、震えてるわよ」
言われて初めて、自分が立っているだけで精一杯だったと気づく。
矢吹が静かに背へ手を添えた。
「お嬢様。
……少しだけで構いません。横になりましょう」
「私は平気よ……
まだ――」
「まったく。
強情ね。
平気じゃないから言っているのよ」
朱音の声音は鋭いのに、不思議と拒めない強さがあった。
「娘の命が助かったのは、あなたのおかげでもあるの。
でもね、今のあなたは……糸より細いところで立ってる」
高沢も続けるように息を吐いた。
「さっきも言ったろ。
奈留の病室の隣、空いてる。
倒れられても困るんだ。
俺たちの仕事を増やす気か。
一時間でも寝ろ。
許可は通してある」
押し返す言葉が出てこない。
奈留の泣き声。
雅志の掠れた声。
救えなかった命。
救われた命。
全部が胸の奥で渦を巻いて、視界が揺れた。
矢吹が支える腕の力を、彩はようやく受け入れた。
「……少しだけよ。ほんの少しだけ」
自分でも驚くほど弱い声が出た。
矢吹に伴われて隣室に入り、簡素なベッドに腰を下ろす。
シーツに触れた瞬間、張りつめていた糸が切れたように体が沈んだ。
――奈留は助かった。
その事実が、重しのように胸に降りる。
けれど赤ちゃんは帰ってこない。
どれだけ彩が強くあろうとしても、その現実は変わらなかった。
目が勝手に閉じる。
「……矢吹」
「はい」
「……起きたら、報告を全部まとめて。
……やることがあるから」
矢吹は短く頷いた。
「承知しております」
その“やること”が何か。
矢吹は理解している。
奈留のこれからを守るため、雅志の足場を固めるため。
動かなければならないことが明確にあった。
意識が沈む。
静まり返った病室に、機械の規則正しい電子音だけが響いていた。
彩はその中で、ようやく深く眠りに落ちた。
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