思惑

陰謀

 ――束の間のバカンスから戻って、1ヶ月。


 のどかな朝だったはずの空気が、ロビーから聞こえた声で一気に張り詰めた。


「彩? 


 麗眞でもいいけれど……いるの?」


 玄関越しに、ママの声。


 その瞬間、隣にいた矢吹の動きが止まった。


「奥様……?


 旦那さまとMLB観戦へ行かれていたはずでは……?」


 矢吹の驚き。


 それだけで、私の眠気は吹き飛んだ。


「ママ? 


 どうしたの、急に……」


「彩。


 あなた、さては今起きたわね? 



 いいから今すぐ株価ニュースを見なさい。

 北村動物病院と系列会社――


 大変なことになっているわよ」


 心臓が跳ねた。


 寝起きのぼんやりした頭が、一瞬で冷える。


「矢吹、ノートパソコン、持ってきて!」


 命じると矢吹は即座に走り、“株価操作専用” の私のノートPCを差し出した。


 画面を開いた瞬間――息が止まった。


 北村動物病院の株価が、真っ赤な矢印をつけて落ちていた。


「な……何で急に!? 



 昨日はこんなの、なかったはずよ!」


 その声に、階段の方から寝ぼけた麗眞が降りてきた。


「姉さん……うるせぇな……


 朝から騒ぎすぎ……」


「株価が暴落しているのよ!

 北村動物病院関連だけ!」


 麗眞は私のPC画面を見ると、顔をしかめた。


「でもその株、宝月家の管理下だろ? 


 一部は」


 次の瞬間には、彼はネットブックPCを開き、キーボードを叩き始める。


 画面に映る数字とコードの行列を、あっという間に解析していく手つきは、まさに職人芸だ。


「彩お嬢様……申し訳ございません。


 宝月家のセキュリティシステムに、ごく僅かではございますが損傷が見受けられます……


 迂闊でした。



 ここから、ハッキングされたものと推察されます」


 矢吹の表情が、凍りついた。


 空気が、重く沈む。


 鉄壁のはずの宝月家セキュリティ。


 その穴を破れるのは、限られた相手だけ。


 私のスマホが鳴った。


 電話の相手は、副主任だった。


『彩ちゃん。


 9:00から、緊急会議だ。


 多少遅れても構わない。


 君の力が必要だ」


「ウジウジしてる暇なんてないわ。


 矢吹、髪のセット手伝って!」


「かしこまりました、彩お嬢様」


 矢吹の指先が、私の耳上の髪をすくい上げる。

 いつもより少し早い動きなのに、手つきは驚くほど丁寧で――

 なんだろう、この妙な安心感。認めるのは癪だけど。

「お嬢風のハーフアップでございます。急ぎの場合はこちらが最適かと」


「ええ、分かってるわ。……行くわよ、矢吹」


 鏡に映る私は、どこから見ても“仕事モード”だった。

 上下のコーディネートなんて考える余裕はない。

 クローゼットから引っつかんだ花柄ロングワンピースを着て、パンプスに足を滑り込ませた。


 矢吹が静かにジャケットを差し出した。


「いつものホテル会議室でございますよね。


 冷房が強いので」


「……ありがとう。


 気が回るのは、あなたの良いところよ」


 素直すぎた、と気づいたのは言ってからだった。


 矢吹が目を伏せて、わずかに微笑むのが見えたから。


 ……なんでそんな顔するのよ。


 やめなさい。


 爽やかな朝の風景が車窓を流れていくのを見ながら、私は息を整えた。


 私の心の中は、大荒れだ。


 北村動物病院の赤字、株価暴落、院長の管理状況。


 考えることが多すぎて、頭の中がカオスだ。


「矢吹。


 今日だけは許すわ。


 会議室にいなさい。


 ……危険があるかもしれない」


「仰せのままに。


 どんなことがあってもお守りいたします、彩お嬢様」


 その言い方が、少しだけ胸をチクリと刺した。


 ホテルに到着すると、私は足早に会議室へ向かった。


 車に乗り込み、会議へ向かった。


 ホテルの廊下は早朝とは思えないほど静まり返っていた。


 赤い絨毯を歩くたび、ヒールの音だけが妙に大きく響く。


 生唾を何度も飲み込みながら、私は重厚な会議室の扉を押し開けた。


 瞬間、空気が変わる。


 複数の視線が一斉に私に突き刺さり、室温が2度ほど下がった気がした。


「……遅れてすまないわ」


 努めて平静に言うと、副主任がすぐさま首を振る。


「問題ありません、彩さん。


 全員そろっています」


 会議室中央には、宝月家と北村グループ関連の重役たちが整然と並び、壁一面のスクリーンには――


 真っ赤に染まった株価チャートが無情に明滅していた。


 矢吹が私の背後に静かに立ち、資料を配布していく。


 その気配が、いつにも増して頼もしく感じるのが癪だ。


 席に腰を下ろすと同時に、私はスクリーンを指さした。


「――これ。


 誰が仕掛けたの?


 推測でもいいわ」


 室内に微かなざわめきが走る。


 副主任が資料をめくり、重い口を開いた。


「昨日、深夜の二時から三時のあいだに、大量の“売り”が集中しました。


 複数のアカウントからの取引ですが……


 どれも、どこかしら情報操作の痕跡があります」


「情報操作?」


「はい。


 市場のセンチメントを意図的に悪化させる“誘導”が見られます。


 内部情報を知っている者――


 もしくは、内部に詳しい誰かが絡んでいる可能性が高い」


 内部に詳しい誰か?


 それは裏返せば、この場の“誰もが”候補になるということ。


 私は表情を崩さずに言葉を吐く。


「……つまり、狙われてるってことね。


 北村動物病院も」


 副主任は沈黙で肯定した。


 室内の空気がさらに重く沈む。


「続けて報告します。株価だけではありません。


 系列各社のアクセスログにも、不審な動きが出ています」


 嫌な汗が、背中をつたった。



 午後、私はその足で北村動物病院へ向かった。


 休診日の病院は、どこか息を潜めたように静かだった。


 建物全体に不穏さが漂っていた。


 まるで、「何かあった」と告げているように。


 院長室の扉を開いた瞬間――


 まとわりつくような、奇妙な違和感が私の肌を撫でた。


 書類が、乱れている。


 普段なら几帳面に整理されている棚のファイルが、微妙にずれていた。


 机の端には、見慣れない“黒いUSB機器”が転がっている。


 胸の奥がざわりと波立つ。


 院長は疲れた顔で私を見上げた。


「……彩ちゃん。


 見せたいものがある」


 院長がパソコンの電源を押す。


 起動音はいつも通りなのに——そのわずかな“間”に、矢吹の表情が変わった。


「……お嬢様、少々お待ちを」


 矢吹がすっと院長の横を通り、まだOSが立ち上がりきっていないパソコンに指先を滑らせる。


 次の瞬間、モニターに血飛沫のような真紅の文字が弾けた。


“Warning:Security Breach”


 背筋が、ぞくりと冷える。


「……ウイルスに感染している、ってこと?」


 矢吹は何も言わず、キーボードを高速で叩いた。


 画面に走る英字のログが、彼のメガネに反射する。


「感染、というより……“侵入”ですね」


 低い声だった。


「サーバーの一部が外部から突破されています。


 それも素人仕事ではありません。


 診療データと会計のフォルダに、複数回アクセスされた形跡がある」


「……内部の人間じゃないってこと?」


「内部の端末ではありません。


 しかし——内部事情を“熟知している者”の手口です」


 矢吹はそのまま、もう一つのログを開く。


 画面に映ったアクセスルートを見た瞬間、院長が息を呑んだ。


「この侵入……病院の構造、バックアップ体制、

 暗号鍵の更新タイミングまで把握している者の動き。


 ——“調べてから来た”レベルじゃありません」


 矢吹の声が淡々としているのが、逆に恐ろしい。


「お嬢様。これは事故や偶然ではありません。


 意図的な攻撃です。


 しかも、相当な手練の」


 喉がカラカラになる感覚。


 背中を汗がひとすじ落ちた。


「……一体、誰が……」


 矢吹は答えない。


 ただ、画面を睨みながら拳を握っていた。




 動物たちの患者データは、この病院の心臓部だ。


「これだけじゃない」


 院長が立ち上がり、部屋の隅に置かれた金庫を指した。


 鈍く光る金庫の扉――


“鍵穴が不自然にえぐられている。”


 胸が冷える。


「まさか……破られたの?」


「昨夜、警備会社から“センサーの誤作動”があったと通知が来てね。


 確認したら……この有様だ」


 院長は金庫の中をそっと見せてくれた。


 中には、何もない。


 いや――正しくは、

“あるはずのものが軒並み、消えていた。”


 従業員の給与明細。

 この病院の創設時の契約書。

 土地の分配記録。

 開業許可証の控え。

 財務の基礎資料


 どれも、なくてはならない書類ばかり。


「……どうして。


 誰がこんなこと……」


 院長は目を伏せたまま呟く。


「分からない。


 だが……この病院を狙ったのは確かだよ、彩ちゃん」


 私は、拳をぎゅっと握りしめた。


 爪が掌に食い込む痛みで、かろうじて呼吸を保つ。


「彩ちゃん……明日の朝から来れそうか?」


「……行きます」


 声が震えているのが自分でも分かる。


 悔しさか、怒りか、恐怖か――


 どの感情が一番強いのか分からなかった。


 院長は小さくため息をつくと、かすれた声で言った。


「今日はもう帰りなさい。


 ……君まで潰れてしまったら、この病院は本当に終わってしまう」


 その言葉が、なぜか妙に胸の奥に刺さった。


 私は院長室を出る直前、振り返ってしまった。


 院長は書類の山の中に沈んだまま、深く、深く、頭を抱えていた。


 胸がきゅう、と締め付けられる。


 ――院長、この病院を畳む気なの?


 いや。


 私は、許さない。


「絶対に守るわよ……


 ここは、私の場所なんだから」


 私は小さく呟き、拳を握り直した。

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