理性のはざまと、違和感

 しばらくして部屋から出てきた野村に、診察の様子を尋ねた。


「やはり、記憶の混乱が見られますね。


 美崎さまの話題は、しばらく彩お嬢様の前では避けるべきです」


 昔遊んでいた美崎さまと、今の豹変した美崎さま。


 その落差が、彩お嬢様の脳内で整合せず、受け入れがたいのだという。


「もしも……ですよ。


 彩お嬢様が、自ら美崎さまの話題に触れたいと言ってきた場合は、どうすれば?」


「そのときは、無理のない範囲で話して差し支えありません。


 ただ、豹変した美崎さまの話題と昔の美崎さまの話題を行き来すること――


 それだけは避けてください。


 混乱が生じますので」


 野村はそれだけ告げると、部屋へと戻っていった。


「お嬢様……大丈夫でございますか?」


 いつものように、ノックもなく部屋に入る。


「あ……矢吹……


 ええ、大丈夫。


 心配してくれてありがとう」


「それは何よりです。


 お嬢様には、麗眞さまもいらっしゃいます。


 どうぞ無理はなさらぬように」


 彩お嬢様は、昔からそうだ。


 辛いことは決して人に打ち明けず、心の内に溜め込む。


 奥さまにそっくりだ。


「矢吹……大丈夫、だから。


 もう、私のことは気にしないで」


 その”大丈夫”は、心の奥で泣き叫ぶ声だった。


 涙が今にも零れそうなのを、必死に堪えている。


「よろしいのですよ、お嬢様。


 どうぞ、思いきり泣いて構いません。


 辛さや悲しさは、泣くことで少しずつ和らぎます」


「矢吹……美崎は……私の友達なのに……


 なのに……何であんなに変わっちゃったのよ」


 私の服の裾を握りながら、彩お嬢様は嗚咽を漏らす。


 泣き疲れたお嬢様をそっと抱き上げ、ベッドに運んだ。


 布団をかけ、瞼の下に残る涙を見つける。


 寝ている間に、舌先でそっとぬぐい取る。


 少ししょっぱい味がしたが、これくらいしか執事にはしてやれない。


 辛さを乗り越えるのは、彩お嬢様自身にしかできない。


 それでも、少しでも心の負担を分けてもらえれば――


 私はそう願った。


「おやすみなさいませ、彩お嬢様……」


 迷いに迷った末、額にそっとキスを落とす。


 理性を必死に抑え、許容範囲だと自分に言い聞かせ、部屋を後にした。


 行き先は、隣の部屋だ。


 麗眞さまと相沢に診察結果を伝える。


「なるほど……昔と今の美崎さまは、180度違いますからね。


 受け入れがたいのも無理はないでしょう」


 相沢は何度も頷きながら言った。


「麗眞坊っちゃま。


 彩さまの弟なら……お分かりですよね?


 普通の彩さまなら、この状況下で何とおっしゃるか」


「簡単だよ。


『美崎……どうしちゃったんだろ……


 昔のあの頃の美崎じゃないみたい。


 きっと、何かあったのね。


 調べましょ、私たちで!


 美崎の身に何が起きているのか……


 昔の美崎に戻してあげなくちゃ!』


 ……こんな感じかな」


 彩お嬢様が目覚めていたら、きっと同じような口調で、全く同じことを言っていただろう。


「さすが……彩お嬢様の弟であらせられる。


 大事な想い人、椎菜さまだけを溺愛しているわけではないようで」


「まあね。


 姉さんの弟が務まるのは、俺くらいだ」


「では、我々も少しずつ調査を進めましょう」


 まずは情報収集が最優先。


 彩お嬢様に美崎さまのことを話すとき、パニックに陥らせないよう、順序立てて説明する必要がある。


「よし、やるぞ、相沢」


「では……くれぐれもお気をつけて。


 城竜二さま本人はもちろん、彩お嬢様にも気づかれぬように」


 私はそう告げると、再び城竜二 美崎の部屋に仕掛けた盗音機の音声を探った。


 この盗音機は、宝月グループ傘下の子会社で開発されたものだ。


 かつては独立した会社だったが、設立時に傘下に組み込まれた。


 設計・開発を手掛けたのはエンジニアの清水 しみず とおる


 録音・録画・発信機能だけでなく、GPS機能まで備える優れ物である。


 今回のように、スマホでは目立ってしまう場面では、こうした専用機の方が重宝する。


 カクテルパーティー中、清掃員に扮した宝月家の使用人が、美崎の部屋に設置したのだ。



『最も主がリラックスするのは、自室で信頼する執事と歓談しているとき』


 ――執事研修の初歩で習った通りだ。


 音声を分析したが、美崎さまと執事は用心深いようだ。


 リラックスした会話はほとんど聞けなかった。


 ごく僅かな可能性として、まだ打ち解けていない可能性もある。


 それに賭けるしかない。


 諦めて電源を切ろうとした瞬間、耳障りな機械音の後に会話が聞こえた。


「美崎さま……本当に良いのでございましょうか。


 彩お嬢様、いえ、宝月 彩さまにそのようなことを……


 かつてのご学友ではありませんか?


 今も大切な方なのでしょう」


「そうよ。


 だから何?


 藤原 拓未ふじわら たくみ


 貴方ごとき一介の執事に止められる筋合いはないわ」


「しかし……彩さまには何の罪もありません」


「知ってるわよ。


 だけど、あの高飛車な性格、見ていてイライラするの」


「美崎さまも負けず劣らず高飛車です。


 彩さまはツンデレですが、本当はお優しい方です」


「何よ。


 拓未は私より、彩の味方なのね。


 そう聞こえるわ」


「いえ、違います。


 彩さまを例に、人間の良い面も見たほうが良い、というだけです」


「……あら、そう。


 ……まあ、いいわ」


「拓未。家に連絡を。


 母が一体、何を考えているのか気になります。


 私は私で、宝月 彩をハメる計画があるのよ。


 邪魔されちゃかなわないわ」


「かしこまりました」


「母は手厳しいわ。


 でも、貴方なら大丈夫。


 交渉上手だもの。


 この私でさえ、うまく口車に乗せられた。


 ねぇ、貴方、執事の前は何をしていたの?」


「他家のお嬢様の執事をしておりました。


 そこでいろいろ学んだのです」


 ここで会話は途切れた。



 会話が終わったあと、胸の奥に小さな違和感が残った。


 ——拓未、と呼ばれていた執事。


“下の名で呼ばせる執事”など、まず存在しない。


 そして、彩お嬢様をフルネームで呼ぶときに生じた、あの一瞬の言い淀み。


 ……まるで本来の呼び方を飲み込み、咄嗟に別の言葉へ変えたような——


 そんな誤魔化し方。


 あの時、彼の素性まで徹底的に調べてさえいれば。


『執事とは、本来“先を読むこと”を職務とする者だ』


 そう叩き込まれてきたはずなのに。


 最も大切なお嬢様を、再び泣かせる未来が迫っていることを——


 あの時の私は、欠片ほども気づいていなかった。

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