今なら和牛、当たります!

まさつき

前編

 肉だ。


 目の前に肉がある。


 貧乏人の一人暮らしだ。成り行きとはいえ、はなはだありがたい。


 しかし、問題があった。量だ。そして、はなはだしいデカさだ。


 牛。まるまる一頭分の冷凍枝肉入りのクーラーボックスが目の前にそびえている。


 自費で購入したものではない。ふるさと納税の寄付金1,200万円分の返礼品として、牛一頭の枝肉を提供している自治体もあるそうだが、俺はそんな金持ちじゃない。支払ったのは通販の代金、23,490円だけだ。


「今なら抽選で高級和牛肉をプレゼント!」という、よくある通販のオマケ文句に釣られた末路。まる文字で「たっぷり」などとキャッチが書かれていた気もする。


 たしかに、何グラムだのと書かれてはいなかった。そう覚えている。もしかしたら注意書きで、級数4級ほどの活字(1級は0.25mmだ)がびっしりと記載されていたかもしれない。しかし確かめたくても、確認のしようがすでに無い。チラシは資源ゴミとして旅立ち、今頃は再生紙に転生していることだろう。


 手元にあるのは、大人気の通販アイテム「あったか膝サポーターMAX・2個セット」。そして、暴力的な大きさの肉。500キロ近くはありそうだ。


 顔なじみの宅配便の女性が、息も絶え絶えに扉と肉の隙間から「受け取りにサインか印鑑を」と手を出してきた記憶が、いまだ生々しい。俺の住むアパート、2階の部屋の玄関まで、いったいどうやって運んできたのか。そんな想像を軽々とうっちゃる、暴力的な大きさの肉塊が俺を威圧していた。


 いやはや、まったく。困るなんてもんじゃあない。どうするよ、コレ……。


 とにかくまずは、玄関を塞ぐ枝肉を処理しないと。冷凍便とはいえ、解けてしまうのは時間の問題。部屋の出入りにも不自由する。バラそう。DIY用のノコギリが役に立つはずだ。


 中学の技術・家庭の授業で使った大工道具が一式。十数年前の品物だが、今でも大事に手入れをしてある。廃材を拾ってきて、ちょっとした家具を作る趣味工作のためだ。まさか、枝肉を斬ることになるとは思いもしなかった。丁寧にしまってある道具袋から、ノコギリを取り出す。


 刃を片手に、俺は大物の箱をこじ開けた。


 ぼわんと、濃密な冷気が吐き出され、身体が包みこまれる。煙った視界の奥に現れたのは――


「それは肉と言うにはあまりにも大きすぎた。大きくぶ厚く……」


 自然とパロったセリフが口に昇る。


 よし、やるぞ。この巨大な暴力と対峙するのだ。枝肉の解体なんて、ぜんぜん知識ないけど……なんとかするさ。幸い、中古で買ったどでかい家庭用冷蔵庫がある。貧乏暇なし、自炊もろくにできない独り者だから、冷蔵庫の中身が空っぽに等しいのも、この状況では幸運と言えた。


 スマホをちらちらと見ながら、見よう見まねでどうにか枝肉を解体していく。今どきはネットを検索すれば、大抵のことは動画付きでいろいろと教えてくれるから、本当に良い時代になったと思う。


 最初は若干グロいなと感じた枝肉だが、次第に見知った肉の塊に変わっていくと、食欲がわいてくるから不思議なものだ。バラした肉塊はかき集めたビニール袋に小分けして、端から冷蔵庫に詰め込んでいった。


 ――余った。


 野菜室や冷凍庫もくまなく利用し、ぎちぎちに牛肉を詰め込んだ。日本メーカー製501リットル・6ドアタイプの中古冷蔵庫は、牛肉の収容所と化している。たぶん、300キロ余りの肉を収納できたはずだ。


 にもかかわらず。詰め切れなかった200キロ近い牛生肉が手元に残ってしまった。少し、解け始めている。やばい――ぐぅぅぅ……。


 腹が鳴った。腹が減った。重労働の後だ。仕方がない。


 いったん、飯にしよう。空腹を満たせるし、肉も減らせるから一石二鳥。


 包丁で肉を思うままに切り出していく。まだ凍っているから、なかなかに骨が折れる。薄切りに厚切り、サイコロにしてみたりと色々だ。次々と熱々のフライパンに投じる。熱で泡立つ脂身が、甘い香りを立てた。焼けた端から摘まみ上げる。一箸食み、舌の上に牛肉が乗ったとたん――


「んまーぁいっ! んもぉう、箸が止らないよぉう」


 自分でも驚くほどに、声が上ずる。こんなに美味いものが、まだ500キロ近くもあるだなんて。これほどの幸せがあるだろうか。まさに、幸せの暴力だ。


 そう……暴力なのだ。


 塩、醤油、みそ、中濃ソース、ケチャップ、七味、カレー粉、ゴマダレに余っていた焼肉のタレ……ありったけの調味料を試して味わった。細かく赤味に絡む霜降りの脂身はしつこさなど皆無。舌に乗せると蕩けるようで、爽やかな甘味すら感じる。至高、究極、至福の味。最高等級の国産黒毛和牛肉は伊達ではない。もう、スーパーの特売輸入肉に戻れる気がしない――そのはずだった。


 至福なんて、1キロほどを腹に納めるまでだ。


 どんな幸せも、日常になってしまえば怠惰に堕する。高級牛肉の味わいも、慣れを通り越して舌がマヒしてしまえば、味気ないタンパク質の塊に過ぎない。高級も低級も関係なくなるらしい。ただただ、顎がだるく、身体が重くなる。


 200キロ近い肉の塊は、ひとつも減ったようには見えなかった。どれほどの健啖家でも、これを独りで平らげることなど出来るはずが無い。ましてや、俺は凡人。うっかりひざを痛めてしまった、肉体労働者に過ぎ――


 あ、そうか。人を頼ろう。今更ながらに思い立った。ここは3階建てのアパート。住人のみなさんに、お肉のお裾分けをすればいいじゃあないか。


 3階建て、2階と3階に4件づつ、俺を含めて8世帯が暮らしている。1階は建築事務所とガレージだ。とりあえず7世帯にお裾分けし、1世帯に10キロ分を差し上げれば、ノルマの3分の1はクリアできる。なんなら、20キロ分を提供しよう。最高級黒毛和牛だ、喜ばれるに決まっている。


 よし! これで万事解決。冷蔵庫の中身300キロについては、まだしばらくの猶予がある。まずは緊急の、200キロ分からだ。



    §


「あぁん? あんた何度言ったら分かるんだい。新聞の勧誘はお断りだよ!」


 3階奥の1件目で、いきなり躓いた。すっかり誰かと間違われている。薄い玄関の扉越しに、おばちゃんの怒声が轟く。安普請やすぶしんの鉄扉が、ビリビリと震えた。


「違いますよ。2階に住んでる坂崎さかざきです。お肉のお裾分けをですね――」


「しつこいね! バカにしてんのかい!? こちとら肉なんて腹の周りに売るほどついてんだよっ!」


 それきり、おばちゃんは奥に引っ込んだらしい。韓国ドラマの吹き替え音声だけが大きく聞こえる。お気に入り番組の再放送でも見ていたのだろう。邪魔をして機嫌を損ねたのかもしれない。ほとぼりが冷めてから、また来よう――だが。


「にく? 言葉だけで吐き気するんですけど」


 2件目のお宅もご機嫌斜め。扉の隙間から、チェーンを掛けたまま顔を半分だけ出した女性は、陰気な顔でそう言った。


「いえいえ、おいしい高級和牛なんで。今すぐ持ってきますから――」


「いや、あたし、ヴィーガンなんで。肉とか無理なんで」


 クソがっ……と、いかにも苛立たしいという態度で扉を閉められた。完全菜食主義者かあ。タンパク質が不足するとイライラしがちと聞いたことはある。けど、それならお坊さんはみんなイライラしてなくちゃならない。きっとこちらの女性の気質ってことなんだろう。


 仕方なしに次の扉へ。急がないと、肉がすっかり解けちまう。


 しかし、3件目のお宅は留守だった。そういえば今日から3連休だったか。旅行に出ているお宅、多いのかも……牛肉に埋められるような絶望感が、俺を襲う。


 3階最後の4件目、ここまで幸先が悪すぎて嫌な予感しかない。すでに、牛肉60キロ分の当てが外れている。だからといって、4件目のお宅に80キロを押しつけるわけにもいかない。ここは俺の住む部屋の丁度真上だ。毎晩のように何かを踏みしめるのに似た音が、リズミカルに聞こえてくるのが気になっていた。


「あのう、2階の坂崎なんですが……」


 ドッ、ドッドッドッ……と、重い足取りが玄関ドアの向こうから迫ってきた。いったいどんな住人なんだ? 野獣が走ってくるような気配に、思わず後退ってしまう。


「やあっ! 坂崎さんとやら。ご用件は何かな?」


 野太い声とともに、勢いよく扉が開いた。


 もわりとした重たい熱気が噴き出してくる。噎せた。汗臭すぎる。目の前に牛が現れたかと思ったが、人間だ。俺より頭ふたつ分は上にある顔は、柔和で親しみやすい面持ちだった。黒豆みたいな眼が俺を見る。話は通じそうな気がした。


 実は――と、牛肉を持て余している事情を伝える。浜村大輔はまむらだいすけと名乗った偉丈夫は、「ふんす、ふんす」と鼻を鳴らしながら俺の話を素直に聞いてくれた。短パンにタンクトップ姿は汗だくだ。筋トレマニアか。本職のボディービルダーなのかも。でかいシルエットの向こうに、いかついトレーニング器具が見える。毎晩の音の原因はこれだったか。肉の需要は大いにありそうだ。これは、いけるぞ。


「どうでしょう、20キロほど貰っていただけませんか?」


「おお! 肉か! 20キロか! それはありがたい……と言いたいところだが。さすがに、入りきらん!」


「プロテインが詰まっていてなっ!」と豪快に笑われて、断られた。20キロの肉など一飲みにしそうな巨躯に見えるが、冷蔵庫には入りきらないらしい。


「半分ならどうです?」


「半分っ、よし! 10キロなら! もらおう!」

 

 何もかもが元気良すぎる。気迫に押されて大急ぎで自室に戻り、10キロ分の肉を切り分け、肉を抱えて浜村さんのお宅を再度訪問。腰を痛めそうになりながら階段を上ってきたが、受け取った浜村さんは軽々と肩に担いで部屋の奥へと引っ込んだ。


 ニコニコしながら浜村さんは、何やら粉の入った小袋を携えて玄関に戻ってきた。


「もらいっぱなしでは悪いからな。気持ちばかりのお返しだ」


 そう言って、差し出されたのはプロテイン。愛飲の品らしいが……タンパク質のお裾分けに、タンパク質を返されるとは――


 浜村さんには、一週間してまだ肉が残っていたら、また分けてもらえないかと尋ねられた。「もちろん!」と快諾した。どう考えたって、冷蔵庫の中身300キロが減っているとは思えない。手伝ってくれる人がいるのは心底ありがたい。わずかばかりだが、光明が見えてきた気がする。残り190キロ弱あるが……とにかく、次だ。



    §


「――あらあら、まあまあ、助かるわあ」


 2階の住人、宮田みやた夫人は俺の肉事情の告白に、満面の笑みで応えてくれた。宮田家は8人暮らしの大所帯。ご夫婦には子供が6人。幼稚園児から高校生、男女の別までは忘れたが、よくもまあこの狭いアパートで暮らせるもんだ。さぞや食費もかかるだろう。ならば。


「どうでしょう、思いっ切って大きく、高級和牛肉を30キロほどでっ」


「ホントに?! いいの? うれしいわあ。お米も毎月50キロじゃ足りないくらいなの。育ち盛りでしょ。助かるわあ」


 米、50キロ……新米が5キロで5,000円越えというニュースを見かけたが。毎月米だけで5万円もの金が出ていくのか。恐るべし大家族。生きていくのも大変だ。だからなのかな、狭いアパート暮らしをしているのは。削れる出費は削ろうと……いや、人の懐事情はともかく。


 30キロ分の肉を運ぶのに、俺は自室と宮田家の間を三往復した。浜村さんに運んだ分も含めて、けっこうな運動量だ。両ひざにピリッとした痛みが走る。せっかく買った膝サポーターだ。開封して使うべきかもしれない。宮田さんに肉を届け終わった後、「あったか膝サポーターMAX」を袋ごと、とりあえず懐に忍ばせ次のお宅を訪ねる。だが――


 留守に留守。宮田さんと俺の間のお宅は、どちらも不在だった。仕事か、旅行か。こうなれば、1階の事務所を訪ねるしかないのか――


 正直、あの事務所は頼りたくない。お裾分けの結果、うっかりお近づきにでもなったら、肉以上に困る相手だからだ。ガラの悪い人たちばかり。特にあの金髪の兄ちゃんは、なあ。


 行くか? スルーか? いや、自分たちがのけ者にされたと知ったら、いったい何をされるか……敷地の入口から事務所を眺めて迷っていると、聞き覚えのある女性の声に呼び止められた。


「あら、坂崎くん。独りで黄昏ちゃって。どうかしたの?」


 亡きご主人から莫大な不動産を相続した若き未亡人が、俺の背中で嫣然として佇んでいた。めったに顔を見せない大家、幸恵さちえさんだ。だがなぜ……いや、これは好機。相手は資産家。分けなく牛肉を引き取ってくれるかもしれない。


「ま、いっか。あたし、アパートのみなさんにお願い事があってね」


 まさか、家賃の値上げ? ご時世としてはありうる話だ。しらばっくれて、俺は自分の願い事に話を振った。


「実は俺にも、ちょっと頼みたいことがあるんですよ。丁度それで、アパートのみなさんを訪ねてたんです。そうだ、幸恵さんにも頼んじゃおっかなー」


 細身の美魔女に大量の牛肉を渡しても持て余すだけかもしれないが、賭けだ。事情を話して、50キロばかりどうですか? と、俺は大きく出てみた。すると。


「あらやだっ、たすかるーぅ。実はね、商店街の福引で〝焼肉のタレ5年分〟が当たっちゃって、ちょっと困ってたの」


 1年分はまだわかるが、5年分とはどういう量だ?


「焼肉のタレ5年分に使えるお肉を買うなんて、大変じゃない。タレばっかりあってもねえ。みなさんに手伝ってもらおうかと思ってたの」


「お肉頂けるなら自分で使おうかなー」などと、幸恵さんはニコニコだ。だが、ホッと一息つけなかった。美魔女との和気あいあいは続かない。


 バンッ! と背中で、鉄扉が開く音が鳴ったのだ。ふたりして振り返ると――


「おうおうおう! なんじゃなんじゃ。人ン会社ン前で、昼間っからイチャイチャしよって。高級牛肉がどうしたって? 焼肉のタレ? おい、ワレ。ワシらはのけモンなンかのう?」

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