きっかけ

 「家出?」

そんなことできるの?と問う視線を湊から向けられ、それを察したこはるが応える。

「翼さんの〝一人にしてくれ〟の発言を外部移送コマンドと解釈することで出てきたみたいなんですが……」

みりあの肩を抱いたこはるも戸惑いの表情を浮かべている。

「何があったかまではまだ聞けてません……」

こはるの心配そうな声に、湊は少し考えを巡らせた。

「こはる、ダイブするから設定して。プライベートスペースでいい。」


プライベートスペースとはアカウントごとの与えられている十畳ほどの広さの個人的な対話用の空間で、要はKVSにおける自室だ。

こはるの合図を待ち、湊がそこにダイブする。本来ならこのスペースはユーザーが自分好みに装飾することができるのだが、まだ何もカスタマイズしていない湊のスペースは、白い壁に囲まれただけのただの箱のままだった。

そこでも相変わらずみりあは泣き続けている。こはるがみりあの背中をさすり、落ち着くのを待つと、みりあは少しずつ事情を語り始めた。


 ――数時間前。

翼のリンクスに梨央からの通話着信が入る。浮かれて繋ぐ翼だったが、直後、梨央のいつもと違う神妙な声に少し戸惑うことになる。

「翼くん、悪いんだけど今日のシフト代わってくれない?友達が怪我しちゃって、病院に連れて行かないといけなくて……湊くんにはまだ遅番の仕事教えてないし……」


珍しく弱気な声色の梨央を励まそうと、翼は敢えて明るく返した。

「なーにかしこまってんだよ、水くせぇな。そういう事なら俺に任せとけって。友達のほうは大丈夫なのか?」

そんな翼の気遣いが伝わって、ほっとした声で梨央が礼を言う。

「ありがと!こっちは大丈夫、レウスもいるし!」

いつものトーンにもどった梨央の返事に、安堵した翼は彼の相棒に軽口を投げた。

「よしみりあ、梨央の代わりにひと働きしてくるか!」


その言葉に、みりあの中で何かが弾ける。


「……やだ」

様子のおかしいみりあを、どした?と伺う翼に、みりあは叫んだ。


「梨央ちゃんの代わりなんてやだ!みりあそんなんじゃない!やなの!わああぁ!」


突然のみりあの変化に、翼と梨央が言葉を失う。わずかに続いたその沈黙。

それを遮った翼の声は、彼らしくない何かを抑えた声だった。

「梨央、バイトのほうは大丈夫だから行ってあげて。」

その声色に気づいた梨央が、でも、と躊躇うと、今度は取って付けたように翼のいつもの軽口に戻る。

「心配すんなって。じゃあ引き受けたから。」

そう伝えると通話を切った。


「みりあ、今のなんだよ。」

翼の声が、先ほどと同じ抑えた声に戻る。

「みりあは梨央ちゃんの代わりで作ったんでしょ?いろんなとこ似てるもん!でも代わりはやなの!みりあはみりあがいいの!うわああん!」

捲し立てながら、みりあは自分でも初めて自分の気持ちを知った。翼は少し目を伏せ、何も言わないままそれを聞いていた。


「……バイト行かなきゃ。今日は手伝いは要らない。」

翼の聞いたことのないような声に、みりあは少し我に返る。言った言葉には嘘はないが、それを口に出してしまったことを後悔し始めた。

「え……でも……」みりあの口から出た言葉を、翼が強い語気で遮る。

「今は聞きたくない!一人にしてくれ!」

そう突きつけられたみりあは、驚きと怖れと悲しさに弾かれて飛び出していた。――


 みりあの背中に手を当てたまま、こはるが言う。

「湊さんのリンクスがデタッチされるのを待ってたみたいです……」

「みりあ……嫌われちゃった……翼っち、梨央ちゃんと仲良くなったから、みりあもういらないのかな……」

また泣き出したみりあをこはるが悲しげに見つめる。

無機質な部屋が、その光景をさらに悲劇的に演出しているようだった。

そんなみりあを、しばらく見つめていた湊が、ふっと息を吐いてから、突然明るい声を出す。


「なーんだそっか、みりあちゃんはそんな風に思っちゃってたんだ。」

そんな湊に、こはるとみりあは驚いた視線を向けた。


「翼はそんなんじゃないよ。僕に話してくれて良かった。」

そう続けた湊の声は、安堵の声だった。

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