Café Lumière(金色の虹彩 Ⅰ)
柚木平 亮
M-29m(第1話)
久しぶりだなあ、この道。太陽の光で
この階段、この扉、開けるのも久しぶり。重い。葉月、もう来てるかなあ。
「いらっしゃいませ。」 ああ、この匂い、焼き菓子とコーヒー。
「高瀬で予約があると思うんですけど。」
「高瀬様。承ってます。こちらにどうぞ。」
やった、窓際。葉月、まだだ。こっちから来るかなあ。今、走ってるオレンジ色の車の色、西日に照らされてあんな色になったホテルをバックに、黄色に染まった並木道を颯爽と。カッコいいんだよ。葉月の良いところ、カッコいい、綺麗、優しい、とてもお金持ちで、いいところのお嬢さんで、今はお父さんの会社でバリバリ働いてて、でも、それをひけらかさない。かといって、変に謙遜するんじゃなくて、堂々としている。何よりも私を包むように扱ってくれる。早く、あそこを通らないかなあ。
「綾、お待たせ、久しぶりね。」
え、葉月の声。
「びっくりした!」外見てて気付かなかった。
「ごめん、ごめん、驚かせちゃって。何を一生懸命見てたの?」
「葉月がこっちから来ると思って。」
久しぶりの綺麗な葉月。並木道、通らなかったんだ。でも、なんか変。引っかかるっていうかあ。何だろう。いつもの葉月だよねぇ。うん、変らない。でも、なんか引っかかるなあ?...ううん?...
「会うの久しぶりだよね。」
「そう、同窓会の時は手を振っただけだったし。」
「その前は、確か、二年前のここね。」
そうそう、二年前のここの時と何か違うような...
「お決まりですか。」
「ルイボスティーと、これ、イチジクのタルトを下さい。」
「私はコーヒー。」
「何か食べないの?」
「ちょっとお腹いっぱいだから。」
「私はなんかお腹すいちゃって。」
ここは、コーヒーやスィーツは美味しいしおしゃれ、雰囲気も景色も最高。まだ、葉月に会う前に、私がここを見つけて、すごく高そう、でも、素敵そうだったから入ってみた。そしたら、やっぱり、素敵だった。こげ茶色の木の内装、すっきりしたカウンター、ゆったり背をあずけられる椅子、重厚感のあるテーブル、それから、一段高くなった窓際の席。並木道とその先のあのホテルの佇まい。そしたら、葉月も気に入ってくれて…ただ、高すぎ。何年か前からこんな店になっちゃって、コーヒーが2000円、ティラミスが3000円。そして、ほんとうは、私、お腹いっぱいじゃない。なんででこうなっちゃったんだろう。こんなはずじゃなかったのに。大学のラグビー部ではレギュラーのフルバック、成績優秀、大きな製薬会社に就職して、親友の裕也さんと一緒に、それが相沢拓磨、私の夫。結婚式でも素敵だった、蓼科の小さな教会で、白のタキシードが決まる人、そんなにいない。葉月と裕也さんが見届けてくれてた。別に出世なんかしなくても、溌剌とやってくれればって思ってたけど、それが、いつの間にか段々と冴えなくなって、この前ここで葉月と会った時の少し前だったなあ。あの日の半年前くらいだったっけ。聞いたことのない名前の部署に異動して。多分閑職なんだろうなあ。ライバルだった裕也さんが上司...なんでこうなっちゃったんだろう。会社ではミス連発らしい。今頃は、子供を二人産んで、女の子と男の子で、四人でいろんなところに行って...そんなこと、考えてたのに...
「ごめんね。急に誘っちゃって。」
「ううん、全然平気。すごく会いたかったし。」 仕事、してないし。大丈夫。でも、早く仕事見つけなきゃ。
「そう、じゃあ良かった。」
私も悪いよ。最近、益々そうなんだけど、気に入ったものを我慢できないんだもん。川沿いのマンション。川面に反射する朝陽は目が眩んでも見入ってしまうくらい綺麗。車になんか興味なかったのに、たまたま通りかかった中古車店で見かけた赤い車に惚れ込んだりして。アルファロメオ。それまで、名前も知らなかったのに。私がこんなだから、そりゃぁ、生活も苦しくなるよ。だから、とにかく、仕事見つけなきゃいけないんだけど、嫌だあ、面接受けるの。面接官って仮面被ってるみたいで。自分は見せないで他人は見る。怖いよ。私、何もできない。何もしてきてない。私、何してたの?今までに。分かっちゃう。見透かされる。嘘ついても...あの人たちには分かってる。
「拓磨さん元気?」
「うん、元気よ。」
ほんとは元気じゃない。少しずつ、何かが悪くなってきてる。精彩を欠くって感じ。病気じゃないんだけど。人が変わっていってる。でも、なんか許せちゃう。なぜか拓磨を見てると、拓磨の目を見てると。出会ったときからそうだった。ラグビーの練習場を通りかかって、そしたら、選手たちがグラウンドを走ってて、目が離せない人が一人いた。それが、拓磨。見つめてたら、拓磨も気づいて、遠くだったけどなぜだか見つめ合った。なぜか惹き付けられた。なんでだったんろう?
「今日は早く帰らないと駄目なの?」
「ううん。拓磨、遅くなるって。だから、大丈夫。」
仕事が遅くなっても給料は変わらない。昼御飯はカップ麺って言ってた。それで元気じゃないのかなあ。スーツも靴も古くてヨレヨレ。何とかしたいけどどうしようもない。私も綺麗なものに拘って、お気に入りを探し回ってる場合じゃない。美術館に行ったり、映画を観たり、遠出して写真を撮りに行ったり。そう、スマホ代も見直さなきゃ。そういえば、拓磨、こないだスマホに何か付けてたなあ。茶色のストラップ。革製かなあ。ちょっと高そうだった。柔らかそうで、ステッチもさりげなくて、何か銀色のが付いてた。渋く光ってて。革に刻印がしてあった...確か、045って...裕也さんからもらったって言ってたなあ。あの革の匂いが...匂い...匂い...あ、わかった!
「ねえ、葉月、今日は香水つけてないの?」
「ああ、香水ね。そう、付けてないよ。もう二年くらい。体に合わなくなったみたい。」
「そうなの?まさか、ホルモンのバランスとか?」
「そうかも、そういうお年頃でしょ、お互いに。」 いえいえ、お若いですよ。笑う葉月。可愛い。
そう、さっきの違和感はこれ。葉月は出会ったときから香水を付けていた。控えめでさりげない香り。とても上品でいい匂い。それが香水だとは気づかないくらい。だけど、それは、嗅いだら記憶に刻まれる。突き刺さるように。葉月を思い出すと必ずその香りも思い出すし、その香りとすれ違えば、それが葉月だとすぐ分かった。...それがなくなってるじゃない!
「綾、もうすぐ誕生日だよね。」
「うん、そう、憶えててくれた?」
「これ、受取って。」
小さな生成りの紙袋。
「え、プレゼント?」
「うん。」
この紙袋、すごくしっかりしてる。そして、軽い。中は、同じ生成りの箱に深いエンジ色のリボン。
「ありがとう。開けていいよね。」
「うん、早く、見てみて。」
箱の中、新しい革の匂いだ。不織布に包まれて、うわあ、財布だ。リボンと同じ色。二つ折り。
「とっても、素敵!」
「気に入った?」
「うん。とっても。」
「ファスナー開けてみて。」 ファスナーもリボンと同じ色、少しだけ光ってる。
ファスナーを開けて、
「開いてみて。」 開いてみると、どうなるの?
「これね、小さなハンドメイドの工房が作ってるんだけど。そうやって開いても、形が整っていて、長財布みたいにも使えるんだよ。」
「ほんとだ。すごいね。こんなの見たことない。」
「おもしろいでしょ。」
「いいね。シックで、個性的。」 葉月みたいに。素敵な財布。
あっ、ちょっと待って、今日、この店でお金払うとき、私、財布出さなきゃいけないじゃない。使い古したイタリア製の。いいものだけどヨレヨレ。今の拓磨みたいに。お気に入りなのもあるけど、それを言い訳に何年も買い換えてない。買い換えられなかった。なんで今頃気づくの?恥ずかしいでしょ。だめだよ、そんなの。どうしよう。
「良かった。気に入ってくれて。...ごめん。ちょっと、電話してくるね。」 スマホ握って、ストラップ翻して、外でするんだね、電話。
...今だ。財布の中身を入れ替えちゃえばいいんだ。なにこれ、私の財布。パンパン。このカードとお札だけでいいか。それから...検索してみよう、この財布。えっと、写真でいいか。あ、出てきた。この財布の工房、L'Essentielっていうんだ。本質的なっていう意味かぁ。えっ、なに、この財布、20万円!どうしよう。今まで何度もプレゼント、あげたりもらったり。私も手作りなんかもして精いっぱい考えて心込めた。葉月はそれを使ってくれたりしてた。もらったものは...そう、初めてもらったのは、今もここに持ってきてる、シャネルのコンパクトミラー...鏡に「Aya」って刻印されてて、私、ちょっと、びっくりした。こんなのもらっていいのって。まだ、知り合ってからそんなに経ってなかったし。初めて、葉月の家に行って、モダンで立派なお屋敷、足が止まって息をのむほどすごく素敵な絵が飾ってあって、とにかく上品な葉月のお母さん、挨拶だけしてすぐに葉月の部屋に行った。机とベッドと小さな丸いテーブルと椅子が二つ、壁一面の本棚。お屋敷に入るときはすごく緊張したけど、葉月の部屋ではとっても落ち着けた...あれからも、いくつもプレゼントもらったけど、そのあとはブランドもの、なかったなぁ...でも、それは...つまり、こういうこと?これみたいに、私の掌の上の、深い色味、深い香りのこれみたいに?
「ごめん。お待たせ。」 あ、葉月、戻ってきた。
「ううん。全然。用事終わった?忙しいの?」
「ううん。ちょっとした連絡。...考え事してた?」
「ううん、、別に。...見て。」 さっき私の物になった財布。花開くみたいな葉月の笑顔。
「早速、使ってくれたのね。うれしい。」
でも、どうしよう。こんなに高いのもらってもお返しできないよ。だけど、今更、いらないって言えない。それが上手くいくセリフって何?何だろう。思いつかないよ。そんな器用なこと、私には無理。葉月を傷つける。私が惨めになる。ああぁ、このまま、それしか...
「そういえばさあ、もうすぐ、うちの大学のラグビーの公式戦あるんじゃない?」
「ああ、そうね。そうかも。」
ラグビーって最近観てないなあ。拓磨もそんな話しないし。辞めてからも一緒に観に行ったりしてたのに。JAPANの話なんて夢中になったりして。
「観に行こうよ、久しぶりに。」
行ったなあ、葉月と二人で。私は拓磨、葉月は裕也さんの応援。でも、裕也さんレギュラーじゃなかったから、結局、二人で拓磨の応援。後半に裕也さんも出て、何回もキック決めて、私たち、大きい声出して、ハイタッチして、抱き合って、泣いたりして。カッコよかったんだよ、あの頃の拓磨。華麗なフェイント、敵を置き去りにしてた。勇姿ってあのこと。でも、ほんとは、試合の後、ちょっとだけ会えて、まだ興奮が冷めてないような拓磨の表情、その瞳にまた惹かれたんだ。何かが燃えてた。今は、変わってしまって。でも、瞳は変ってない。変ってないどころか、あの頃よりもその瞳に惹きつけられてしまう...ラグビー、昔みたいに楽しめるかなあ。でも、誰を応援するの?
「四人でね。拓磨さんと裕也も一緒に。」
「え、四人で?」
「だめ?」
「ちょっとね。」 拓磨が...
「なんで?」
拓磨がね...どう話そう...
「あのね、拓磨がね、最近外に出ないっていうか、仕事以外は出掛けたがらなくなって...」
最近って、二、三年前からだよなあ、そうなったの。休みの日はいろんなとこに連れてってくれてたのに。
「体調が悪いの?」
「病気じゃないみたい。仕事にはちゃんと行ってるし。」
「休みの日も家にいるの?」
「...うん、そう。ずっと。」
「そうなんだ。どうしちゃったんだろう。」 そうなの。それで...話しちゃおうかなあ。どう話そう。...ううんと...
「話してよ。なんか悩んでるんでしょ。」
...やっぱり聞いてもらおう、葉月に。
「休みの日にね、自分の部屋に籠もってることが多いんだ、仕事してるって言ってね、拓磨。」
「そうなんだね。」
「そう...それで、このあいだ、朝御飯のあと、いつもみたいに拓磨が部屋に籠もってから、コーヒーを持って行ってあげたの。」
「うん。」
「そしたら、拓磨、部屋にいなくて...パソコンが開いていて...ちらっと見たら、文字がずらっと並んでいて...そしたら、拓磨がすぐに戻ってきたから...トイレだったみたいで...それだけだったんだけど...」
「それで?」
「それで...よく考えてみると、ちょっと変だなって思って。」
「何が?」
「そのずらっと並んでた文字の中にね、鉤括弧、あの、会話の時に使う...あれがね、いくつもあったの。」
「うん。」
「確か、クエスチョンマークも見たような気がする。」
「うん。」
「机の上も、資料なんか無くて綺麗だったし...なんか変でしょ?」
「...そうね。会社の資料を作ってる感じじゃないわね。」
「そうなの。会社の資料に鉤括弧とかクエスチョンマーク、そんなに使うことないでしょ?」
「多分ね...それで、どう思ってるの?綾は。」
「あれはね、小説か何かだと思うの。葉月、どう思う?」
「そうね、はっきり分からないけど、そんな感じがするね。」
「そうでしょ。...一体、何をしようとしてるんだろう?拓磨は。」
「小説かあ。...それで、他の様子はどうなの?例えば、話すことが変だとか、行動が変だとか。」
そんなことあったっけ?どうだったかなあ...。やっぱり、内省的にっていうのかなあ、そうなったくらい。
「...ないわ。昔の拓磨みたいに、活動的じゃなくなって、内省的になった感じ...それだけかなあ。」
「内省的かあ...。こんなこと無責任に言っていいのかわからないけど...心配ないんじゃないかって...なんか、そう思う。」
「そうかなあ。」 葉月はやっぱり、ほっとさせてくれる。
「拓磨さんの中で、何かが変わったっていうのはあるんだろうけど、それは、向っていく場所っていうのか、そういうのが、変わっただけで、本当の中身は変わってないんじゃないかなあ。」 そう、実は、私もそんな感じがしてて。ううん、それ以上に...
「拓磨さん、優しいんでしょ、今も。」 それ以上に...、優しいだけじゃなくて...
「そうね...それは変らない。」 私を惹き付けるの...前より余計に...
「じゃあ...私なら少し様子を見るかなあ。」 拓磨の瞳を見ると...目が離せないときがある...
「小説家の卵さんを。」 葉月は私をほっとさせる微笑みを知ってるよ、本当に。
「...うん...そうしてみることにする。」
「裕也がね、言ってた。仕事で、拓磨さんがいてくれて助かってるって。ちゃんと仕事できてるくらいなんだから、大丈夫だよ。」 葉月がにっこり...うん?
「...そう言ってくれてるんだ...良かった。」そうだね。裕也さん、今は拓磨の上司だったよね。だから拓磨のこと見てくれてて、ってことは、葉月はその奥さんで、私は部下の妻で…
「もっと、力を出してもらえるところに部署を変えたいって言ってたよ。」
ってことは、今のこれ、夫の部下の妻の相談に乗るその妻…私、これでいいのかなあ、葉月にこんな感じで…葉月はこれ意識してんのかなあ…。
「...裕也さんが、そう言ってくれてるんなら...うれしい...」
私、今まで通りでいいのかなあ?どうなんだろう?葉月は出会ったときから、私よりずっと綺麗で、賢くて、カッコよくて、優しくて。憧れ、でも、友達。だから、こんなこと気になるの、初めて。変わっちゃったのかなあ?変えないといけないのかなあ?私たちの関係。
「拓磨さん、頑張ってるみたいじゃない。だから、安心しようよ。」 葉月の笑顔、何の笑顔?私を哀れんでたりして...
「...裕也さんに、よろしく、お願いします...」 私、こんなこと言ってるよ...
葉月...私、どうしたらいいの?どんな態度がいいの?
「じゃあ、別の提案していい、綾。」
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