第3話

霧がすっと晴れ、気づいた時には柔らかい光の中に立っていた。


最初に感じたのは、重苦しい空気ではなく、どこか懐かしいような温かさだった。
まるで夕方の部屋に差し込む陽だまりのような──そんな優しい明るさだ。

目の前に広がるのは、果てのない空間。
けれど、その広さは恐怖を連想させるようなものではなく、布団の中の心地よい温かさのようでもあった。
その“柔らかい広さ”の中に、十の扉だけが、浮かぶように静かに並んでいる。


扉たちは、どれも異なっていた。

古びた木の扉は、
木目がふわりと暖かい色をしていて、触れたら少しだけ温度を感じられそうだった。

鏡の扉は、
光がないはずのこの場所で、まるで水面のように揺らぎながら反射していた。
その揺らぎは不安ではなく、むしろ落ち着く静かな波紋のよう。

鉄格子の扉でさえ、
冷たい鉄というよりは、古い教会の柵のような神秘さが漂っていた。
どこかで鈴の音がするような気さえした。

どの扉も、怖さとは無縁だった。
ただ、それぞれが独自の色やリズムを持ち、はやとを静かに見守っているような、不思議な優しさがある。


はやとは深呼吸をした。
…空気は冷たくない。
むしろ胸の奥が少し温かくなるような感覚があった。

…思い出して右手を見る。
タバコの火は自然に消えている。
だが、そこに“嫌な気配”はまるでない。
消え方も、風にそっと吹かれたように穏やかだった。


「…まあ、こうなるよな」


軽く笑いながら、携帯灰皿を開け、大事な何かに思えたそれをそっとしまった。
その金属の音が、この空間の中に驚くほどはっきり響いた。
だがそれは不気味な反響ではなく、むしろ音楽の始まりの“合図”のように感じられた。

すると、十の扉の表面がふわりと明るくなった。

まるで、

「ああ、準備が整ったんだな」

と言わんばかりに。

扉たちは呼吸しているように見えた。
けれど、生き物のような怖さではない。
焚き火の炎がゆらゆら揺れるような、自然で穏やかな動き。


はやとはひとつ、歩み寄る。

足元には地面は見えないが、確かに “歩ける”。
そしてその感触は、木の床のようでもあり、草の上のようでもあり、砂のようでもある。
どれでもないのに、どれにでも当てはまりそうな、不思議な心地よさがそこにはあった。


「……どれに進んでほしいってわけじゃ、ないんだな」


十の扉は返事をしない。
ただ、それぞれがささやかな光を帯び、近づくと少しだけ明るくなる。

歓迎されている。
そう思えてしまうほどだった。

その瞬間、遠くからやわらかい声が風に乗って聞こえた。
突然響くのではない。
耳元でささやかれるのでもない。
水の底からゆっくり上がってくるような優しい響き。


十の扉が、ゆっくりとわずかに開き、
光がそれぞれ違った色で、ほんの隙間から覗いた。

黄金、蒼、薄桃色、深緑、銀、赤銅色……
それらの光が混じり合って、この空間全体が万華鏡のように穏やかに揺らめいた。

はやとは、その美しさに思わず息を呑んだ。

恐怖ではない。
これから何か大切なものを見つける予感の方が強かった。

「……どれに行こうか」

今度の問いは震えていない。
どこかワクワクした調子だった。

はやとは一歩踏み出し、
十の扉のうち、一番気になった扉の方へ手を伸ばした──



はやとの指先が、そっと扉の表面に触れた。
その瞬間、扉はまるで生きているかのように、柔らかな脈動を返してきた。

熱くも冷たくもない。
ちょうど、人の手のひらと同じくらいの、安心する温度。

「……あ」

思わず息が漏れた。
ただ触れただけなのに、扉の向こう側に広がる気配が、ほんの少し伝わってくる。

温かさ、静かさ、懐かしさ。
それらが混ざったような感覚が、指先からじんわりと腕、胸の奥へと広がっていく。

扉の光が、触れた場所を中心にふわりと柔らかく広がった。

それは、早朝の薄明かりがゆっくりカーテン越しに部屋へ入ってくるような、ほっとする明るさだった。

扉の隙間から漏れる光は、先ほどよりも少しだけ強くなり、
はやとをまるで迎え入れるように、穏やかに揺れている。

「こんな感じなら……行けるかもな」

自分でも驚くほど自然に、言葉がこぼれた。

恐怖はほとんど感じない。
代わりに胸の奥には、静かに燃える小さな灯のようなものがあった。
それは、長い間忘れていた“期待”に似ていた。

遠くでまた、あの柔らかい声が響く。

それは風が窓辺を通り抜けるような、耳に優しい音色だった。

——「……」

強制ではなく、導くでもない。
ただ、そっと背中に手を添えるような優しいなにか。

はやとはそのなにかに応えるように、手のひらを扉にしっかり当てる。

すると扉は、わずかに震えたあと、音もなくゆっくりと開きはじめた。

ほんのすこしずつ、すこしずつ。
その動きは慎重で、丁寧で、
あたかも扉自身が「急がなくていいよ」と伝えてくれているようだった。

隙間から流れ出す光は、今度は夕焼けのようなあたたかい色をしていた。
決して眩しくはなく、けれど胸の奥まで温める優しさを持っている。

はやとは扉の向こうを覗き込んだ。

——そこには、ゆっくりと波立つような光の景色があった。

形ははっきりしない。
けれど、どこか見たことがあるような、懐かしいような…そんな“感覚”だけがはっきりしていた。

扉の向こうからふわりと優しい風が吹き、
はやとの髪を、肩を、そっと撫でた。

「……行ってみるか」

自分にだけ聞こえるぐらいの小さな声でつぶやきながら、
はやとはゆっくりと一歩、光の中へ足を進めた。

すると光はまるで歓迎するように、足元からほどけるように広がっていった。

そうして、はやとは “扉の向こう” へ――
静かに、しかし確かに踏み入れていった。

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