第9話 さらう男
「待ちなさい!」
風馬の足に、良子がしがみついた。
良子の鬼のような形相に、涼花はぎょっとする。
自分に対して冷たく当たる良子の顔は何時だって怖いと思っていた涼花だが、それ以上に今の義母の顔は恐ろしかった。
自分の娘は絶対に西崎に嫁にはやらないという執念に、涼花は残念な気持ちになる。
もしかしたら、西崎家には少しばかりでも良いところがあるかもしれないと涼花は思っていたのだ。
けれども、ここまで良子が嫌がるのならば西崎の社長は噂通りの人に違いない。そして、そんな人間に涼花を嫁がせることを嬉しがっていた良子にがっかりしたのである。
涼花は、良子に言われたことは全ておこなってきた。
だから、もしかしたら最初の頃よりは良子に好かれたのではないだろうかという気持ちがあったのだ。
だが、それも涼花が勝手に抱いた願望でしかなかったようだ。
「涼花は、西崎家に行くのよ!!」
風馬と良子の言い合いに、涼花は何も出来なかった。
自分の縁談が決まったと言われただけでも現実味がないというのに、それが起因になって発生した兄と義母の喧嘩など涼花にはいさめようもなかったのだ。
「うるさい」
聞いたことのない声が響いた。
声の方向を見れば、涼花の知らない男が立っていた。すらっとした長身の男は眼つきこそ悪いが、それを補って余りある美しさを持っていた。
おそらくは、彼が二宮家の当主だという男であるのだろう。名家の人間として、涼花だって彼の名前ぐらいは知っていた。
現当主の名は、二宮蓮。
治癒の術を操る家の人間だ。
莉緒は、蓮という男に見惚れていた。
涼花は、しげしげと蓮を見つめた。たしかに蓮という男は、美しい。けれども、その目は冷やりとしていて人間らしい温かみに欠けていた。
「もう少しぐらいは静かに親の了承は取れないのか?部屋の外にまで、馬鹿らしい喧嘩の声が響いたぞ」
蓮は、鋭い視線で伊納の家族を見つめていた。
いや、値踏みしていた。
術を操る家なのに、無能の父を当主として頂く伊納家のことを嫌悪しているのかもしれない。父は兄が一人前になるまでの繋ぎの主であるが、それでも術を操れない当主の父は他家に侮られている。
「失礼ですが……二宮蓮様ですか?私は、この伊納家の末の子の莉緒と申します!」
莉緒は、弾んだ声で自己紹介をする。
蓮の顔を見て、自分が彼の花嫁になると一人で莉緒は決めてしまったらしい。自分を売り込むことに余念がなく、恥じらうように髪を耳にかけている。
この仕草が、自分が一番愛らしく見えると莉緒は知っているのである。
「ああ、知っている。伊藤家のお荷物か」
蓮の言葉に、莉緒の身体は硬直した。
いくら莉緒は美しく可憐な娘であっても、術を扱う家では生まれつきの力でしか判断されない。伊納の本家の血を継いでいない莉緒は、蓮にとっては路傍の石でしかなかった。
「二宮様。私は、この辺りで評判の美人で行儀作法も完璧に修めています。このような小汚い姉よりも私の方が、ずっと名家の嫁に相応しいですわ」
莉緒は胸を張って、自分の価値を語る。
たしかに、莉緒の美貌は近所でも評判である。そして、優れた家庭教師を付けられていたので淑女に必要な教養は必要以上に身についていた。
一方で、涼花は学校で習った学問だけを収めていた。嫁入り先で必要な知識も学校で習ったが、家庭教師を付けてもらっていた莉緒には及ばない。
だが、そんなものは術を使う家には関係がない。
求められるのは、本人が術を使えるかどうか。ひいては、術を操れる子供を産める可能性があるかどうかだ。
莉緒のような術の使えない娘は、はなから蓮の花嫁候補にはなれなかった。
「お前は、自分の価値を正しく理解した方がいい。この涼花は、お前以上の価値がある。お前は、自分と釣り合う男を探すんだな」
蓮は、涼花に手を差し伸べる。
この手を取れ、と蓮は言っているのであろう。
今の涼花は、兄の風馬に手を引っ張られているだけの存在だ。しかし、蓮は自分で選べと涼花に言っているのである。
「二宮様……。私は、顔に火傷があって」
涼花は、包帯の上から火傷に触れた。
醜い火傷の女など興味がないと言われ、早々に蓮には捨てられるのではないかと涼花は考えていたのだ。
火傷が理由で夫に捨てられるのは、涼花だって悲しい。だから、嘘でも良いから火傷など気にしないと言って欲しかった。
これは贅沢なのだろうか、と涼花は思う。
自分には過ぎた縁談を持ってきてもらった上に、夫からの情まで求めるだなんて。
「なんだ、そんなことか」
蓮は、涼花の包帯を勝手にといた。
火傷の痕が残った顔を家族以外にさらしたことに、涼花は慌てた。自分の顔が醜いことは自覚していたので、蓮の気を悪くしたと思ったのだ。
「申し訳ございません!」
涼花は、手で火傷痕を隠した。
一瞬だけ見えた火傷痕には、兄である風馬でさえも呆然としていた。風馬以外の家族など、汚らわしいとばかりに目を背けている。
それぐらいに、醜い火傷痕であるのだ。
涼花も自分の火傷の状態は鏡で確認している。涼花本人でさえ、長くは見たくはない火傷であった。
「お目汚しをしました……」
だが、涼花の手首を蓮は掴んだ。
そして、涼花が自分で火傷を隠せないようにする。醜い火傷の痕であっても、蓮は目を離すことはなかった。
涼花を溺愛する風馬でさえも驚かせた火傷である。他人の蓮には、さぞかし醜く見えるであろう。
結婚の話は、白紙に戻される。
そう考えて、涼花は兄に申し訳なく思った。せっかく良縁を持ってきてくれたというのに、これでは面子も丸潰れである。
「酷い火傷の痕だな。何があったんだ?」
蓮の問いに、涼花は戸惑いながら答えた。本当は女中頭に熱湯をかけられたのが原因であったが、涼花は彼女の話をしないことにした。
女中頭は、涼花に火傷を負わしたが罰を受けてはいない。ならば掘り返すべきではない、と涼花は考えたのである。
「……私の不注意で、熱湯を浴びてしまいました」
涼花の言葉に、蓮は皮肉気に笑った。
その理由は、涼花にも分かっている。詳しく話さないことで女中頭を守っている涼花の浅はかな考えなど、蓮には見抜かれているのだ。
「自ら熱湯を浴びたわけでもないだろ。真実を言ってみろ」
蓮は、涼花に詰め寄った。
普通の女性であったら、美しい蓮に見惚れるであろう。残念ながら涼花は、人の美貌というものに興味はなかった。そのため、涼花の頭にあったのは女中頭の心配である。
「じ……自分でかぶりました」
涼花の下手な言い訳に、蓮は舌打ちをした。涼花の火傷は誰かが関わったことが明らかなのに、その誰かを涼花は庇っている。
「風馬から、お前には仲の良い女中がいたとも聞いたぞ。その女中を庇っているのか?」
それが美紀であることは明らかで、涼花はすぐさま蓮の考えを否定した。美紀は屋敷を辞めると言っていたが、上流階級に属する蓮に知られることで彼女が何らかの不利を被る可能性があったからだ。
美紀が次の就職先で不利益を被るなど、涼花は考えたくもない。離れてしまったが、美紀は友人なのだ。
「違います!この火傷は、私のいたならさが原因で……」
言葉を濁す涼花の言葉を「そうよ」と遮る者がいた。莉緒である。
莉緒は、涼花を睨んでいる。火傷ぐらいで蓮の同情を誘う涼花が、許せなかったのであろう。
莉緒は、まだまだ蓮をあきらめていない。自分の夫は、蓮しかないと思っていたのだ。
「お姉様は、すごくトロいんです。西崎家にお嫁に行っても迷惑をかけるだけですわ」
莉緒は、涼花の悪いところを語った。
もっとも、莉緒の言葉は真実ではない。涼花は何事も器用にこなしており、掃除や料理も人並み以上にできていた。
涼花を貶めることで、莉緒は自分が蓮に選ばれると考えているのだ。だが、涼花にとって莉緒の行動は助けになった。
自分が至らない人間であれば、自分で熱湯をかぶったという無茶のある言い分も通るかもしれないからだ。
「うるさいな」
蓮は、そんな言葉を莉緒に浴びせかけた。
その言葉は、普段はお嬢様として大事にされていた莉緒には縁遠いものであった。故に、屈辱的だ。
「う……うるさいって」
蓮は、莉緒に興味を持たない。
今までの蓮の姿を見て、涼花は彼の人となりが見えてきた。蓮は、術を使える者しか視界に入れてはいない。
だからこそ、莉緒に対する態度が悪いのだ。普通の男であったら、莉緒の美貌に相好を崩しながら、彼女を花嫁に選んだであろう。
しかし、術を後世に伝える使命を持った蓮が、莉緒を選ぶのはありえないことだった。涼花を花嫁に選んだことは、蓮にとっては当然のことなのだ。
「心配するな。二宮家の術は治癒だ」
涼花の火傷に、蓮の指が触れる。
蓮の指が赤みを帯びた皮膚に触れただけで、涼花は心地の良い温かさに包まれたような気がした。この暖かさには、覚えがあった。
亡くなった母が、優しく抱きしめてくれた体温に似ている。泣き出しそうになるぐらいに、懐かしい体温であった。
「何故、泣いているんだ?」
蓮の言葉に、涼花はいつの間にか閉じていた目を開ける。目の前には、戸惑う蓮の姿があった。
術を使えない人間を見下す蓮の態度は、涼花は良くは思えなかった。しかし、自分の表情の変化なんぞで戸惑う蓮は、涼花には可愛いと思えた。
「す、涼花。お前の火傷痕が……」
風馬の驚いた声に、涼花は自分で火傷痕に触れる。それだけでは、火傷がどうなったのかは分からない。だが、家族の全員が驚愕しているので、火傷痕は消えてしまったのだろう。
蓮の家が受け継いできた術は、治癒である。その力の優しさに、涼花は驚いた。破壊という術を受け継いできた伊納家では、こんなに優しい術などありえない。
「あの……私の火傷は」
恐る恐る涼花は、蓮に尋ねた。家族の反応から、火傷は治っている事は分かる。しかし、涼花は信じられなかった。
自分の顔には、未だに火傷痕があるのではないかと疑ってしまうのだ。
「ああ、綺麗に治っている。二宮の術に隙はない」
蓮は、自分の家の術に絶対の自信を持っているようであった。涼花の術は破壊しか生み出さないので、他人の為に使える治癒の術が涼花は少し羨ましい。
それと同時に、自分の火傷を見ても目を逸らさずにいたは涼花の胆力に涼花は感心した。治癒の力を持っているから、蓮は怪我人には慣れているのかもしれない。
家族であっても目を背けるような火傷の痕を真っ直ぐに見据えた蓮は、涼花にとっては好ましく映った。
「それでは、涼花はもらい受ける。結納と婚礼のときに顔は出させるから安心しろ」
蓮は、それだけ言って涼花の手を握った。兄を除けば男に手を握られたことのない涼花の頬に、朱が走った。
「なによ!私みたいな美女に見向きもしないで!お義姉を選んだことをきっと後悔するわ!!」
後ろで、莉緒が叫んでいた。
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