第3話 涼花の仕事
本日の涼花は、廊下を磨いていた。
最初は雑巾のしぼり方も分からず、床をびしゃびしゃにしたものだ。しかし、今では慣れた手つきで床掃除が出来る。
「考えてみれば、これも花嫁修行になるのかも」
涼花は、そんなことを呟いた。
名家のお嬢様は雑巾がけのやり方など習わないが、覚えていて無駄になる経験でもないだろう。
父が当主の間は自分に縁談などやってくるのかは分からないが、風馬が帰ってくれば然るべき家に嫁ぐことになるはずだ。
その時が、楽しみのような不安のような。涼花は、とても複雑な気持ちになった。自分の縁談についてはあまり意識したことはないが、優しい人のもとに嫁げたらとは思う。
涼花の嫁入り先は、術を受け継いでいる名家になるだろう。名家のなかには商売に手を出している一族もいるので、そういう家に嫁ぐことになるかもしれない。
「涼花様、こちらのお花はこんな感じで良いかしら?」
廊下に飾る花を花瓶に刺した女中が、涼花に尋ねる。涼花は汗を拭ってから立ち上がり、女中たちが生けた花を見た。
「緑の葉っぱが付いている花は、こちらに向きに生けた方が綺麗に見えるかしら。こうやった方が、これぐらいの量の花でも沢山入っているように見えるわ」
涼花が花瓶の花を直せば、彼女の言う通り少ない花であっても見ごたえのある作品に仕上がった。
涼花は伊納家の令嬢として育てられただけあって、華道の知識があった。故に、屋敷を飾る花は涼花が手直しをしている。
本来ならば、これらのことは屋敷の女主人である良子の仕事である。しかし、良子は自分と莉緒を着飾らせることに夢中で屋敷のことを疎かにしていた。
女中たちの仕事ぶりを見る仕事すら、女中頭に丸投げしている。だからこそ、女中頭は助長して涼花すらもこき使っているのであった。
自分は良子のお気に入りだから、何をやっても許されると女中頭は思っているのである。
「涼花様、雑巾がけをお手伝いします!一人で、御屋敷の廊下の全てを掃除するなんて無理ですもの」
女中の一人が、涼花のことを手伝うと言う。しかし、廊下の掃除をしろと言うのは女中頭の命令だった。
一人でしろとは言われていないが、誰かが手伝えば女中頭は不機嫌になるだろう。そうなれば、手伝った者が怒鳴られるかもしれない。
それは、あまりに不憫だ。
女中頭は、稀ではあるが涼花をいびる。それは、良子の機嫌を直すためだったりする。良子と莉緒は、涼花が働いている姿をみていると胸がすっとするらしい。
「大丈夫よ。あなた達は台所を手伝ってちょうだい。そろそろ昼餉の準備で忙しくなっているはずだから」
涼花は、笑顔で手伝いの断りを入れる。
その仕草さえも鮮麗されていて、手伝いを申し出た女中は涼花に見とれてしまった。
元々はお嬢様として育てられていた涼花だが、女中たちに偉ぶる態度はとらなかった。分け隔てなく気さくに振舞って笑顔をふりまく涼花は、若い女中たちを中心に慕われている。
そのおかげでもあって若い女中のなかには涼花の所作や言葉遣いを真似する者まで現れ、伊納家の雰囲気はより上品になったになったのであった。
良子や莉緒は気づいていないが、それは伊納家の良い変化であった。
伊納家に訪れた客は女中たちの変化に気がついており、さすがは名家の一つと感心している。ここまで女中の教育に心を砕く家など、他にはないからである。
実際のところは女中たちは涼花の真似をしているだけなのだが、そんなことは客人たちは知らなかった。
「ほらほら、仕事よ。ここは、私が手伝っておくから」
美紀は、女中の背中を押して台所に行くことを促した。一方で、廊下掃除を手伝うと言った美紀に、涼花は驚いている。
「美紀さんが、手伝ったら女中頭の怒りを買うわよ。あの子たちと一緒に厨房を手伝いに行った方が……」
涼花が言い終わる前に、美紀は口を挟んだ。そんなところが、勝ち気な美紀らしい。
「そんなのどうってことないわ。それに、下手に大人数が台所に行ったら逆に迷惑よ」
早く終わらせましょう、と美紀は言った。
美紀もしゃがみ込んで、雑巾を絞り始める。そんな美紀の姿を見ながら、涼花は暖かな気持ちになった。
女中のような生活を送る前の涼花は学校に通っていたが、そこでの友人は家に尋ねてくることはなかった。
世間は狭いから、友人たちは涼花の暮らしぶりを知らないわけではないだろう。涼花の事情に巻き込まれぬように、あえて距離を取るように親に言い含められているに違いない。
涼花がそうであるように、友人たちも結婚適齢期だ。だから、少しでも悪い噂が立たないように親は細心の注意を払う。どこで娘の評判に傷がついて、良縁が駄目になるか分からないからである。
友人たちと家族の気持ちは、涼花にはよく分かっていた。
結婚は、女の一生を左右する大事なことである。その一大事に実家で疎まれている者と下手に親しくしていれば、良子や莉緒に何かしらの悪口を広められるかもしれない。
伊納家は術を操る一族として未だに高名であり、社会的な地位も高かった。
術は、一部の家の者たちに受け継がれる特殊な能力のことである。はるか昔から術の使用者は歴史の波にもまれながらも時に繁栄し、時に衰退しながらも現代に神秘の力を継承している。
現代では、術を操る家のことを名家と呼んでいた。帝の指示のもとに保護されて、今でも独自の地位を確立している。
もっとも術を扱う家々のなかでは、伊納家の評価はさほど高くはない。婿養子である術が使えない父を当主として頂いていることもあって、伊納家を下に見る名家もいるのだ。
だが、それはあくまで術を操る家々から見た話だ。実情を知らない者からしたら、伊納家は今でも帝の覚えも目出度い名家なのである。
そんな地位ある家から漏れ出た噂ならば、あっという間に広がってしまうであろう。涼花の友人の親たちは、それを恐れているに違いない。
「美紀!あんたって子は!!」
ちょっとばかり考え事をしていた涼花を現実に引き戻したのは、女中頭の怒声であった。
西洋かぶれの趣味を持つ良子にでも頼まれたのだろう。女中頭の持つ盆には、紅茶を入れるための茶器が置かれていた。
「あれほど、自分の仕事をしなさいと言ったよね!こんなところで、油を売っているんじゃない!!」
怒鳴り散らす女中頭の前に、涼花が躍り出る。女中頭の怒りは、本来ならば自分が受けるべきものだ。そして、なによりも友人を守りたかった。
「美紀さんを叱らないで!!」
女中頭がはっとしたときには、彼女が持っていた盆は手から滑り落ちていた。
「涼花様!!」
美紀の悲痛な声が響き渡り、涼花の顔は紅茶で焼けた。
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