アダムトヒデオ~楽園を追放された人類の祖。アダルトショップで働きながら、失われた歓喜の咆哮を取り戻す~

小川がお

第1話 勢揃いの林檎たち


 追放されたアダムとイブは、未だに神からの「真の罰」を受けられないでいた。

彼らが居るのは、エデンの園の門を出た直後にある、ただの土くれの空き地だ。

陽光はきついが、土は痩せており、生えてくるのは名前も知らない雑草ばかり。園の中の豊穣さは嘘のように失われていた。


 罰は「額に汗して働け」のはずだったが、具体的な指示がないため、アダムはただ無為に日々を過ごすしかなかった。

 彼の肉体は、神が設定した「永遠」という名の初期設定から抜け出せず、何をするにも億劫で、疲労も充足も知らず、弛緩しきっていた。それは、「原罪」がもたらした最大の病気、つまり「退屈」という名の病だった。


 アダムは土の上に寝そべり、太陽を遮ることもなく、ただ茫然と空を見ていた。


「イブよ。今日も何も起きないな。このまま罰なしで、永遠にこの空き地で『無』を過ごすのは、真の拷問ではないか?」


 イブは、傍らに落ちていた固い小石を拾い上げ、何の目的もなく地面に叩きつけた。彼女はアダムのその体たらくに、心底嫌気がさしていた。


「罰がないことが罰だと考えている、その怠惰な精神が嫌なのよ、アダム。私があなたの肉体に魅力を感じないのは、あなたが何の情熱も持たないからよ。私の身体は神に呪われ、あなたは魂を呪われた」


「いや、魅力云々ではない。神から与えられた『生殖の義務』が途絶えた今、俺の『それ』が反応しないだけだ。お前は毎日、私への不満と、神への憎しみしか言わない。愛想がないんだ」


 彼らの「原罪」の後の生活は、壮大な神話ではなく、ただの倦怠期の夫婦の痴話喧嘩そのものだった。

 その時、空が妙な唸りをあげた。


 神が、しぶしぶと登場したのだ。

彼は雲をかき分け、その顔は明らかに不機嫌だった。まるで数百万の宇宙を同時に管理する複雑なタスクを中断させられたかのように、苛立ちを隠せない。

「……ったく。お前たち、まだここにいたの?いや、いいや。いいんだけど、そろそろ罰のフェーズに移らないと、私のスケジュールが押す。私の宇宙には、お前たちよりもっと重要な生命体が幾らでもいるんだぞ」


 アダムは、神が自分たちの問題を「スケジュール調整」の一環としてしか見ていないことに、改めて絶望した。


「罰ですか? 待ちくたびれましたよ、神よ。この役立たずを治療する処方箋、あるいは園への回帰の許可でしょうか?」


「治療? そんなものがあるか。お前には『労働』だ。お前が最も嫌う『責任を伴う強制労働』だ」


 神は、空き地の向こう、エデンの園の門を指さした。門の前には、巨大なケルベロスのような門番が、舌なめずりをしながら寝転がっていた。


 犬の三つの顔全てから、途方もない量の涎が垂れ、地面を濡らしている。その目は、まさに「噛みつきたくてたまらない」という殺意に満ちていた。


「イブ、お前にはあいつの世話を命じる。ケルベロスはデリケートなんだ。噛みつきそうなのは見かけだけだ。毎日、ブラシをかけて、散歩に行け。そして、義務と献身を学べ」

「この、見るからに狂暴な巨犬の世話を? アダム、あなただけずるい!」


 神は、イブの抗議を聞き流すように、うんざりした表情でアダムの前に手をかざした。

「あぁ、もういい。面倒くさい。アダム、お前は強制労働だ。未来の人間界に送り込む。いいな、お前のその怠惰な身体で、みっちり働け。そして、真の欲望を知れ」

「『デジョン』」


神の気のない一言と共に、アダムの身体は一瞬で光に包まれ、土くれの空き地から消滅した。

イブは、門番が涎を垂らして自分を見ているのを確認し、深くため息をついた。

「……面倒くさい。神の罰は、いつも肉体的な苦痛を伴うのね」




 アダムは、土くれの地面に叩きつけられるように、店内に召喚された。

 彼は顔を上げ、目を瞠った。

目の前は、壁一面の「林檎」だった。赤、緑、金色。原色と奇抜な文字で彩られた薄っぺらなプラスチックのケースが、アダムの背丈の何倍もの高さを持つ棚に、数えきれないほどびっしりと並んでいる。

 エデンの園の木々もこれほど豊穣ではなかった。

店内には、甘いプラスチックと埃、そして男の汗が混ざったような、現代の欲望の臭気が籠もっていた。

 アダムはまだ知らなかった。

これが「欲望のパッケージ」だということを。彼はただ、神が自分に課した労働が、この空間で行われるのだと理解するしかなかった。

そこへ、太った人間が慌てて駆け寄ってきた。彼はアダムの裸を見ても、土まみれだったことにも、特に驚かなかった。


「ああ、君か!まさか、こんなところで倒れていたとは。アルバイトの面接、ギリギリ間に合ったね!さあ、こっちへ!」


店長だと名乗る彼は、アダムを事務室の奥へ連れ込み、急いで制服を渡した。

「君は採用!人手が足りていないんだ。その『変わった清潔感』も、うちでは武器になるかもね」

「め、面接? 私は、神の罰として、『強制労働』に」


店長はアダムの手に、紙切れと金属の塊を押し付けた。

「これが給料な。金だ。時給は一律、900円。ま、最初はこんなもんだ。君の名前は?」

「アダムだ」

「そうか、最近の子は名前が変なのばかりだけど、覚えやすくて助かるよ。これに着替えて、最初は簡単な仕事から覚えよう」


 この世界の人間が、自分の存在を「世間知らずの、ただの新人」としてしか認識していないことを悟った。

 店長の指示で制服に着替え、彼は棚の整理を命じられた。その作業を黙々と行う一人の男がいた。

男は分厚い銀縁のメガネをかけ、ボサボサの頭。背は低く、よれよれのTシャツの背中には『I♥SIN(我、罪を愛す)』と書かれている。

「あなたは……?」


 男はDVDを光にかざして検品した後、ようやく口を開いた。声は鼻にかかった、妙に甲高いトーンだが、その口調は驚くほど丁寧だった。

 

「ああ?僕ですか?僕はバイトリーダーの英雄。ヒデオと申します。名前で判断なさらないでくださいね。新人さんですね。今日からここで品出しのお仕事です。決して楽な仕事ではないですよ、お名前は?」

「アダムだ」


ヒデオは指でメガネを押し上げ、分厚いガラス越しに目をギラつかせた。

「ご覧ください、アダムさん」


 ヒデオは、背後の棚全体を指差した。

「この棚にあるのは全て商品です。僕たちはその在庫の番人、つまりコンシェルジュです。アダムさんは何も知らない世間知らずの新人さんのようですから、ここで人間が何を求めているか、その需要を、丁寧にお教えしますよ」


アダムは、ヒデオの放つ言葉の熱量と、その丁寧すぎる口調のギャップに圧倒された。


「需要を……。あなたは、神に選ばれた預言者なのか? 私に、新たな教義を授けようとしている」

「はは、何を言っているんですか。僕はただのバイトリーダーですよ。宗教の勧誘ではありません。それより早く棚を埋めましょう、アダムさん」




 アダムはヒデオに言われるまま、棚の整理を始めた。数多のDVDタイトルを見ながら、アダムは眉をひそめた。

「ヒデオさん。この『パイズリ』とは、何を意味する動詞なのか? それから、この『潮吹き』という現象は、水が湧き出る奇跡の一種か?」

「新人さん。そういった専門用語は、ご自身で作品を鑑賞して学ぶのが一番です。すべてパッケージに答えが書いてあります。ほら、そこの棚です。『働くおっぱい』シリーズ」


 ヒデオが指差した棚には、『働くおっぱい』と銘打たれたシリーズが並んでいる。その中央には、とある女優が堂々と立っていた。

 「『働くおっぱい』……? 労働は、額に汗して土を耕す苦痛のはずではなかったか? なぜ、彼らはこんなにも肉体の悦びを伴った姿で働いているのか?」


 ヒデオは、その質問を待っていたかのように、メガネの位置を直し、早口で熱弁を始めた。丁寧な口調は崩さないものの、その熱量が増した。


「そこです!そこに気づいたのが素晴らしい、アダムさん!その女優さんは『紗倉まな』さんです!彼女は知性だ!筑波大学でメディアコンテンツの講義も行った方ですよ。小説も書かれます。彼女はね、自分の仕事を、自分の『自己表現』に昇華したんです!普通、仕事ってのは苦痛が伴い、多くの人は仕事に疲れてます。ですが、彼女は肉体と知性を使い、これこそが私の天職だって見つけた!彼女こそが、人間の、真の仕事と真の情熱の結合ではないでしょうか!」


「労働が、悦び……? 罰が、悦びに……? あなたは、神の教えとは異なる新たな福音を説いている」


「福音じゃありませんよ。僕は単に、このジャンルが持つ、人間の可能性の最高峰を教えて差し上げているだけです。この職業は、人間が自分の欲望を隠さずに表現する、究極の形なんです」


 アダムは、紗倉まなのジャケットを見つめた。

彼女のグラマラスな乳房は、彼には「知識と悦びが詰まった、今度こそ食して許されるべき禁断の林檎」のように見えた。その瞳には、イブの瞳にはなかった「意志」が宿っていた。


アダムの怠惰な肉体に、微かな熱が宿る。それは、性的な興奮ではない。生きる情熱の兆しだった。


「アダムさんがこの世界で生きたいなら、棚を完璧に分類してください。お客様の求めているものを理解することが、アダムさんの最初の仕事です。さあ、この配列を完璧に!」


アダムは黙ってうなずき、DVDを手に取った。彼はこの店で初めて、自分が何をすべきかを知った。




 同じ頃、エデンの園の門番小屋。

 イブは、門番である三頭のケルベロスの世話に悪戦苦闘していた。ケルベロスはデリケートだと神は言ったが、実際は常に唸り声を上げ、その巨大な牙を剥き出しにしている。

「神よ。この獣を『デリケート』と呼ぶのは、最大の虚偽ではないか? それとも、私に対する精神的な罰なのか?」


 彼女がブラシをかけるたび、ケルベロスは低い唸り声をあげた。三つの頭のうち、一つの頭が噛みつくような仕草をする。彼女は埃と犬の体毛まみれになり、肉体的な疲労が限界に達していた。

イブは、自分の手の甲についたケルベロスの涎を拭った。


「これが、神の罰……。肉体の苦痛だけを伴う、意味のない労働。アダムの罰は、私の罰よりも軽いのではないか?」


 彼女の労働は、誰にも評価されない、孤独な献身だった。彼女は、義務感だけでこの獰猛な獣の世話を続けている。


 イブは、ケルベロスの大きな、噛みつきそうな爪を、仕方なく優しく拭った。この単調で、愛の伴わない労働こそが、彼女に課せられた真の罰だと悟り始めていた。彼女の労働は、「神への服従」でしかなかった。対してアダムの労働は、「欲望への探求」である。二人の罰の性質は、あまりにも対照的だった。




 その夜、アダムは店長に案内されたバイトの寮「レンタルルーム」で横になっていた。

部屋は狭いが、布団と、小さな机、そしてティッシュの箱が置かれている。部屋には、彼がエデンでは知らなかった機械の唸り(エアコンの音)が響いていた。

アダムは身体の奥底からくる疲労を感じていた。それはエデンでは知らなかった、肉体の充足感だった。

 彼は店長からもらったスマートフォンを弄っていた。これは、「外界の知識」をすべて手のひらに収めた、現代のミニチュア版「知恵の木の実」だった。彼は検索窓に「紗倉まな」と入力し、彼女のプロフィールを読み込んだ。


本日の日報

【場所:アダルトショップ林檎館】

【感想:労働とは、肉体の苦痛ではない。魂の居場所を見つけることらしい。あのヒデオという男は、何者なのか。彼は、神の教えとは異なる『悦びの教義』を説く。彼の口調は丁寧だが、その思想はあまりにも熱狂的だ。しかし、私の『それ』は未だに再生を果たしていないが、肉体の奥底に微かな『鼓動』を感じる。】


 アダムはメモを閉じ、視線を机に戻した。

そこには、ヒデオが持たせてくれた紗倉まなのDVDと、新品のティッシュの箱があった。

アダムはDVDのジャケットに描かれた、知性と自信に満ちた女性の目を凝視した。彼女の瞳には、「私はここに存在する」という強烈な意志が宿っていた。

そして、白い箱に視線を移した。


それは、エデンには存在しなかった、「欲望の結末」が詰まった、白い直方体の箱だった。


 アダムは、ティッシュの箱をじっと見つめた。鼓動は、彼がエデンで失った「生の衝動」の兆しなのか? 神の罰の真の目的を問い直す。


 その白い箱が、彼自身の「再生」の象徴、あるいは「第二の原罪」のヒントだと、彼は直感した。

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