タイプハラスメント
NiHey
汝、己を知るなかれ
神様は「汝、己を知るなかれ」とは言わなかった。うちの社長がそう言っただけだ。
そして入社初日の今日、私はその唯一にして絶対の神託を、三十秒で破った。
声のトーン、笑顔の角度、未来への希望。すべてが練習通り。名前と専攻を滞りなく告げ、最後は、私のアイデンティティそのものである殺し文句を放ったのだ。いわく、自分は典型的なENFPであり、その情熱と好奇心で会社に新しい風を吹かせたい、と。
これで掴みはOK。輝かしい社会人生活のスタートを、私は確信していた。
だが、拍手はなかった。
代わりに訪れたのは、まるでサーバーが落ちたかのような沈黙。時間にして、約五秒。体感では、永遠。
目の前に座る先輩たちが、ゆるやかに、そして固っていた。まるでメドゥーサに睨まれた善良な市民のように。隣に立つ佐久間部長は、渋い顔に「やっちまったな」という字幕を浮かべている。
あれ、私、何かまずいこと言った? 「新しい風」とか、ちょっと意識高すぎた?
混乱する私の視線の先で、斜め前に座っていた先輩――三田さんというらしい、涼しげな目元の女性――が、静かに口を開いた。
「結城さん」
「は、はい!」
「その発言、違反ですよ」
違反。
交通違反や法律違反なら知っている。けれど、自己紹介で違反という単語が出てくるとは思わなかった。まさか性格タイプを口にすることが、取り締まられるほどの重罪だったとは。私の頭上に巨大なクエスチョンマークが点灯する。
「えっと……どの部分がでしょうか……?」
「ENFP、です」
三田さんは、まるで禁制品の名称を口にするかのように、その四文字をそっと発音した。
周りの先輩たちが、こくこくと頷く。佐久間部長は、もう観念したように天井を仰いでいる。
「性格タイプに関する言及は、社内規定における『プロファイル違反』に該当します。初回なので厳重注意で済みますが、今後は気をつけてください」
「ぷろふぁいる……いはん?」
聞き慣れない単語に、私の思考は完全にフリーズした。
大学時代、あれほど熱中したMBTI。サークル仲間と夜通し語り合い、自己理解の杖として、他者理解のコンパスとして、私の世界を豊かにしてくれたあの十六のタイプが、この株式会社コネクトでは、麻薬か何かと同じ扱いらしい。
こうして私は、入社初日にして知ったのだ。
この会社では、誰もが自分を語れないらしい。
“タイプフリー職場”という皮肉なスローガンのもと、奇妙で不自然な静けさが、オフィスを支配していた。
壁には「個性と協調」なんていう、今となってはジョークにしか聞こえないポスターが貼られている。みんな、自分の「個性」がどんな形をしているのか、忘れてしまったかのように振る舞いながら。
窓の外では、春の陽光がきらきらと輝いている。
オフィスの中だけ、季節が止まっているみたいだった。
その日の午後、私は佐久間部長に呼ばれて、給湯室の隅に連れていかれた。自動販売機の鈍いモーター音だけが、気まずい沈黙を埋めている。
「結城くん、まあ、悪く思うな」
部長は紙コップのコーヒーをすすりながら、遠い目をした。
「うちは昔、ちょっとした熱病にかかってたんだよ。誰もが自分のタイプを名乗り、相手のタイプを暴こうとした。血液型占いを社内事業にしたようなもんだ」
「はあ……」
「結果、どうなったか。タイプ同士で閥ができ、タイプの相性で人事が決まりかけ、タイプの違いで罵り合いが始まった。ENFPは計画性がないとか、ISTJは石頭だとか。レッテル貼りの地獄だよ」
その光景は、少しだけ想像できた。
「それで、禁止令が?」
「ああ。社長の鶴の一声でな。『自己分析・他者分析、一切を禁ず』と。おかげでオフィスは平和になった。……墓場みたいにな」
部長の言葉には、奇妙な諦めと、ほんの少しの懐かしさが滲んでいた。この人もきっと、昔は誰よりも自分のタイプを語りたかったクチなのだろう。
自分の席に戻ってから、私は恐る恐る周りの会話に耳を澄ませてみた。
聞こえてくるのは、天気の話、昨日見たテレビドラマの当たり障りのない感想、そして業務連絡だけ。だが、注意深く聞いていると、時々奇妙な隠語が混じることに気づいた。
「明日のA社との打ち合わせ、Jで行きましょう(計画通りに進めましょう、の意)」
「あのクライアント、完全にP案件だから(気まぐれで予定が読めない、の意)、バッファ多めに」
それはまるで、レジスタンスの合言葉のようだった。禁止されてもなお、人々は分類への渇望を捨てきれずにいる。その人間臭さに、私は少しだけおかしくなった。
ランチに誘ってくれた三田さんも、驚くほど無味乾燥な会話に終始した。
「このパスタ、美味しいですね」
「ええ、美味しいですね」
「三田さんは、パスタお好きなんですか?」
途端に、三田さんのフォークが空中で静止した。彼女の目が、一瞬だけ社内規定のどこかの条文を読んでいるかのように、すっと細められる。「好き」という嗜好の表明が、果たして個人のプロファイルに繋がらないか。コンマ数秒の思考の末、彼女は無表情に戻って答えた。
「……嫌いな食べ物は、特にありません」
それは私の質問への答えではなかったけれど、この会社では満点に近い模範解答なのだろう。
退勤時間。すっかり疲弊した私は、エレベーターの中で佐久間部長と二人きりになった。
「どうだ、初日は」
「……はい。とても、勉強になりました」
嘘だ。勉強になったことといえば、「沈黙は金」ということくらいだ。
部長は私の顔を見て、苦笑した。
「まあ、そのうち慣れるさ。ここでは誰もが、自分じゃない誰かを演じているだけなんだから」
エレベーターの扉が開く。外の喧騒が、嘘みたいに活気に満ちていた。
私は自分の胸に手を当ててみる。
ここにいる「私」は、一体どんなタイプなのだろう。
それを確かめる術を、私は入社初日にして、あっけなく奪われてしまった。
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