理想と現実の崩壊


コンペの期限は、葵の疲労と葛藤の極致の中で迎えられた。結局、彼女が提出したのは、雪の助言と内なる声に背き、「誰もが批判できない、洗練された模範解答」としてのデザインだった。葵は、心の片隅で湧き上がる情熱的なアイデアを、安全を優先して再び「醜い箱」に押し込めた。


プレゼンテーション当日、ミスティアのディレクター、美咲は、黒のスーツを隙なく着こなした、氷のようにクールな女性だった。彼女の視線は鋭く、その場にいるすべてのデザイナーを品定めしているかのようだった。


葵は、練習通りの完璧なプレゼンを披露した。資料は完璧に整理され、デザインの論理性、市場との整合性、すべてにおいて非の打ち所がない。


プレゼンが終わり、室内には緊張した沈黙が流れた。康太が不安そうに葵を見つめる。雪は隅の席で、ただ静かに葵を見つめていた。


やがて、ミサキディレクターが口を開いた。


「澤田さんのデザインは、構造的には完璧ですね」


葵の胸が一瞬高鳴る。やはり、自分の選択は正しかった。完璧であれば、誰にも文句は言わせない。


しかし、美咲の言葉は続いた。

「ですが、それだけです。完璧すぎて、何も伝わってこない。これは、優秀なAIが作ったデザインですか? それとも、誰かの成功例をなぞった模倣品ですか?」


美咲は葵のデザインを指で叩いた。


「私たちが求めているのは、洗練された型ではありません。このデザインには、あなたの血が通っていない。魂の熱量がゼロだ。表面は美しいが、中身が空っぽだ」


美咲はそう言い放ち、企画書を無造作にデスクに置いた。


その言葉は、葵の「ガラスの仮面」を直撃した。完璧さだけを信じて生きてきた彼女にとって、「完璧だが中身がない」という評価は、存在の否定に等しかった。葵の頭は真っ白になり、足元から世界が崩れ落ちていくのを感じた。


(嘘だ。私は、全力を尽くしたのに。どうして、どうして誰も認めてくれないの……!)


葵は事務所に戻ると、そのまま会議室に閉じこもった。誰もいない空間で、彼女は堰を切ったように涙を流した。


「失敗した……また、誰かの期待を裏切った……」


彼女は、自分を縛っていた鎖が、美咲の酷評というハンマーによって完全に打ち砕かれる音を聞いた。これまで必死に守り続けてきた「完璧な葵」は、存在しなかったのだ。


その夜、雪が会議室を訪れた。葵は顔を上げず、震える声で言った。


「雪さんの言う通りでした。私には、中身がありませんでした。私は、醜いです」


雪は葵の隣に座り、静かに言った。


「醜さの何が悪い? 葵、人は皆、不完全だ。君が隠しているその失敗や、自信のなさこそが、君という人間を作り上げた唯一無二の素材だ」


「でも、怖いです。それをさらけ出したら、誰もいなくなってしまう」


雪は窓の外の暗闇を見つめながら言った。


「隠した醜い欠片も、あなたの本当の輝きだ。君のその失敗は、君が真剣に向き合った証拠だ。ガラスの仮面が砕けた今こそ、箱の鍵を開ける時だ」


葵は、これまで頑なに閉ざしていた心臓の奥の鍵穴に、手を伸ばした。


(私は、もうこれ以上、偽りの自分を守れない。失敗した私、中身が空っぽだと言われた私、この醜い私自身と向き合うしかない)


その夜、葵は初めて、隠し続けた「醜い箱」の鍵に触れた。その冷たい感触が、彼女の新しい一歩の始まりを告げていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る