宝石に隠した箱

南賀 赤井

ガラスの仮面


葵が働く「スタジオ・ルナ」は、東京の賑やかなエリアに位置する、設立間もない新進気鋭のデザイン事務所だった。朝の光が差し込むオフィスは、最新のパソコンの輝きと、コーヒーの香りが混ざり合っている。


「葵さん、おはようございます!昨日の企画書、拝見しました。もう完璧ですね、さすがです」


出社するなり、同僚の康太が明るい声で話しかけてきた。康太は葵と年齢が近く、事務所の中でも特に葵を尊敬している一人だ。


「おはよう、コウタ。大したことないよ。ただ、クライアントの要望を整理しただけ」


アオイは微笑んだ。その笑顔は、誰もが安心する、優しくもプロフェッショナルなものだ。しかし、この笑顔の角度も、トーンも、全て計算された「理想のアオイ」の一部だと、彼女自身は知っている。


(本当は、昨日も徹夜に近い状態だった。そして、あの企画書には、私の本当に挑戦したいアイデアは、一つも入れていない)


彼女は、誰もが「これで正解」と頷くであろう、安全で美しいデザインを選び続けた。なぜなら、自分自身の熱意や個性を表に出すことは、否定や批判のリスクを伴うからだ。


「葵、ちょっといいか?」


声をかけてきたのは、先輩デザイナーの雪だった。雪は葵よりも一回り年上だが、その服装も発言も常に型にはまらない、自由なクリエイターだ。彼女の眼差しは鋭く、時折、葵の表面的な振る舞いの奥を見透かしているように感じられる。


「はい、雪さん」


葵はすぐにいつものプロの顔に戻る。


「君の来週のプレゼン資料、見たよ。構成は完璧だ。無駄がない」ユキは資料をパラパラとめくりながら言った。


しかし、その口調には微かな皮肉が混じっていた。


「でもな、葵。君の作品はいつも『優等生の模範解答』だ。どこにも破綻がない。その破綻のなさが、君の作品の最大の欠点だと、私は思うよ」


葵の胸の奥で、何かがチクリと刺さった。雪の言葉は、これまで誰も口にしなかった、彼女の核心を突いていた。


「どういう意味でしょうか? クライアントの要望には、全て応えています」葵は、少し冷ややかなトーンで答えた。これは、自分が動揺していることを隠すための、防御反応だ。


雪は資料をデスクに置き、葵の目をまっすぐに見つめた。


「君は、誰かの期待に応えることに、全力を使いすぎている。まるで、自分自身の熱を冷やして、完璧なガラス細工を作っているようだ。ガラスは美しいが、触れても温かくはないだろう?」


「それは……」葵は言葉に詰まった。


「葵、君が本当に心から信じているもの、ぶつけたい情熱はどこにある? それを、君はどこかに隠しているんじゃないのか?」


雪はそれ以上何も言わず、自分のデスクに戻っていった。


雪の言葉が、葵の頭の中で何度も反響する。


(私の本当に信じているもの? ぶつけたい情熱?)


そんなものを見せたら、みんなはきっと失望する。箱の中に隠している「醜い、自信のない、失敗を恐れる自分」が露呈してしまう。


その日の夜、葵は誰もいないオフィスで、一人残業をしていた。デスクの上に置かれた企画書を前に、彼女は強く拳を握りしめた。


「私は、理想の葵でいなければならない。誰もが認める、完璧な『私』でなければ、ここに居場所なんてない」


彼女の心臓は、雪の指摘によってできた、小さな亀裂を必死に隠そうと鼓動していた。そして、その心の奥底で、誰にも聞かせないはずの「醜い箱」が、かすかに軋む音を立てていた。

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