第4話

文化祭が終わって数週間、秋の気配が深まり始めていた。

涼介と、学校帰りにいつも立ち寄るファストフード店。

ガラス越しに射す秋の光は、カウンターの金属を淡く照らしている。


制服姿のままの美玖は、ストローに口をつけながら、涼介の何気ない話を聞いていた。


「中間テスト、やばいかもなー。数学の範囲、広すぎない?」


「……うん、そうだね」


返事はしても、心はどこか上の空だった。

文化祭が終わっても、美玖の胸の奥にはまだ、舞台で感じたあの静かな高揚が残っている。


スポットライトの下で、自分の声をちゃんと届けられたあの瞬間。

それを見守ってくれていた彩香先輩の笑顔。

思い出すたびに、胸の奥が少し温かくなる。


ストローの先を指で弄びながら、涼介が不意に言った。


「そういえばさ、ウチのバスケ部の先輩が生徒会の佐伯さんに告ったらしいよ」


美玖の手がぴたりと止まった。

その名前に、心臓が跳ねる。


「……えっ?」


「でもフラれたんだってさ」


軽い調子の声。

一瞬、胸の奥にほのかな安堵が広がる。


――先輩は、誰かのものになっていない。

そんな自分勝手な安堵を、恥ずかしいと思う前に、次の言葉がその感情を打ち消した。


「でもさ、佐伯さんって美人だけど、真面目すぎるよなー。

なんか、ザ・生徒会って感じ?

夏でもタイツだし、ガード固そう」


その瞬間、美玖の呼吸が止まる。

カラン、とストローがカップの中で鳴った。

涼介の無邪気な笑い声が、やけに遠くに聞こえる。


――違う。そんな人じゃない。


図書室で、静かに本をめくる手。

「無理しなくていいよ」と優しく言ってくれた声。

その穏やかさを思い出すだけで、胸の奥が熱くなる。

美玖は思わず顔をこわばらせ、声をあげた。


「……そんなことない。

彩香先輩は、すごく優しいし…素敵な人だよ!

タイツだって、図書室が寒いからって言ってたんだよ!」


涼介が一瞬、普段見せない美玖の強い口調に戸惑った。


「え、なに? 美玖、なんでそんなムキになってんの?」


その何気ない一言が、さらに胸を刺した。

ムキになってる?

違う。

ただ、あの人を傷つけるような言葉を、許せなかっただけ。


「彩香先輩は、わたしの憧れなんだから……そんなふうに言わないでよ……」


美玖は泣きだしそうな表情で、声を震わせた。

自分でも、どうしてこんなに熱くなっているのかわからない。

でも、止められなかった。

涼介は気まずそうに視線をそらし、肩をすくめた。


「……なんかシラけたから、俺帰るわ」


椅子を引く音の後、涼介の立ち去る足音が店内に静かに響く。

美玖は飲みかけのドリンクが入ったカップを両手で包み、うつむいた。

唇の端がかすかに震えている。


のはずだった。

それ以上の何かだなんて、考えたこともなかった。

けれど、涼介の何気ない言葉で、守りたくなるような痛みが胸を突き上げた。

あの人のことを、誰かが軽く笑うことが、どうしようもなく嫌だった。

図書室での横顔、少し疲れたような笑み。

「怖いって言っていいんだよ」と言ってくれたあの声。

それが、今も耳の奥に残っている。


指先がかすかに震える。

カップの冷たさが、涙を堪えるように感じられた。

窓の外では、夕陽が沈みかけている。

ビルの隙間から差し込む橙色の光が、頬をやわらかく照らした。

美玖は小さく息を吐き、ぽつりと呟いた。


「……憧れって、こんなに苦しいんだっけ」


声は誰にも届かず、空気の中に溶けていく。

その小さなつぶやきが、ほんの少しだけ、心の奥を震わせた。

それは、まだ名前を持たない感情。

でも確かに、美玖の中で何かが芽生えはじめていた。

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